4.『新世界、壁の外、銀景色-4』

 溶解と凍結を繰り返した道路は純度の高い氷で覆われ、黒く輝いていた。滑らないように足を真っすぐに下ろし、靴底のグリップを効かせなければならないため歩みは遅かったが、インナーシティの痰と吸殻に汚れた道路よりはずっとマシだ。


 男が言ったように、道路には確かにキャタピラの跡が刻まれている。マーダー・インクと僕たちの目的地が同じ以上、不本意ながら痕跡に沿って進むしかない。


 車に積んであるRPG-7を取りに戻ろうかとの考えが一瞬脳裏を過ったが、複合装甲に対する成形炸薬弾の効果を勘案した結果、時間の無駄だと思い直した。仮に相手がありがちな旧型戦車だとしても、僕には気紛れなロケット弾を命中させる自信が無かったし、よしんば当たったとしてもその後生きていられるとは思えなかった。


 ああいう類の兵器はバックブラストが馬鹿みたいに目立つのだ。全てが上手くいって行動不能に追い込んだとして、十秒もしないうちに同軸機銃か榴弾でバラバラにされるのは火を見るよりも明らかではないか。


「戦車がいるらしいけど」


 僕の三メートル後方を歩くアンジェが言った。


「ロケット弾取りに戻らないの?」

「丁度同じ事を考えてた」

「じゃあ……」

「でも戻らない。タイムロスが多すぎる」


 アンジェが僕の決定に不満を抱いているのは明らかだった。しかし、ここは譲れない。僕は自前のコンパクトな脳と持ちうる限りの語彙を総動員し、知能指数で遥かに勝る彼女を説得せねばならないようだ。


「こっちは二人、相手は大群だ。まともにやり合ったって勝ち目はないから、戦闘は可能な限り避ける。僕の考えとしては――」

「いいよ、任せる」


 あっさりとアンジェが引いた。


「荒事はキミの領分だからね」


 僕がアンジェに唯一勝る点があるとすれば、それは腕っぷしだろう。僕は人生の三分の一もの時間を費やし、殺しの腕を磨き続けてきたのだ。彼女が政府の極秘研究所で人道と倫理に背いている間も、僕は国旗や部隊章を持たぬ幽霊スプークとして、世界中の戦場で殺し、殺し、殺していた。


 仕事をやり遂げる自信があった。特殊な訓練を積んだ不正規戦のプロフェッショナルとして、如何なる脅威をも無力化し、五体満足で帰還する自信が。


 そんな僕の勇ましい決意はしかし、僅か五秒後に揺らぐ事になる。


 巨大な影が一瞬僕たちを覆ったのだ。インディ500のようなハイスピードだったのでさっきの無人機かとも思ったが、ジェットエンジンの特徴的な金切り声がしなかった。


「わお」


 アンジェが感嘆の声を上げた。僕も同じ気持ちだった。


 僕たちの頭上を飛んだのはグリフォンだった。大きな翼を波打つように羽ばたかせ、滑空し、巣の方向へ飛ぶ姿が高層ビルの切れ目から見えた。驚いたのは、太い幹のような両脚でジープを掴んでいた事だ。ある種の鷲は鹿を掴んで空を飛ぶそうだが、それが自動車となると一体どれだけの揚力が必要になるのだろう。


「車なんて何に使うのかな」

「巣を補強するんだろう。フレームをバラすくらいの知能はあるからな」


 僕は秋の落ち葉のように舞い降りて来る羽を掴み取った。掌くらいの大きさで、根元が白く先端にかけて茶色がかっている。この辺りでは珍しい、老齢の雌だ。ポータルから迷い込んできたのだろうか。


 それからすぐに連続した銃声を伴って、赤い曳光弾の軌跡が天へ伸びた。弾丸は高度を上げるにつれて散らばり、結局グリフォンに掠りもせず、そのまま消えていった。


 僕は走ってグリフォンの後を追う。到底追いつけないにせよ、巣の詳細な位置を特定する上で大いに役立つ。しかし、そう考えたのは他の連中も同じだったらしい。街が俄かに騒がしくなる。エンジン音や銃声、戦場のカオスが静寂を追い散らす。


「くそっ、連中は以外と近くにいたらしいな!」

「それも大勢ね!」


 バックパックを捨て、滑らないように、一歩一歩を地面に突き刺すようにして走った。氷の砕ける感覚が靴底を通して伝わり、両脚の筋肉が熱を帯びてくる。迸るアドレナリン、戦場の気配。知らず知らずのうちに、僕はガスマスクの下で声もなく笑っていた。


 何度も角を曲がり、通りから通りへ。


 そこらじゅうから聞こえる銃声や爆発音のせいで、エンジン音に気付くのが遅くなった。一つ通りを挟んだ向こうで並走している、ディーゼルエンジンの音に。


 ハッチの上に兵士を満載したBMP-1が走っていた。砲塔にはマーダー・インクのシンボルが描かれており、車体は現代的な灰色を基調とした都市迷彩で塗装されている。


 兵士の一人と目が合った気がした。気の所為であってくれと祈ったが、キャタピラから火花を上げて急制動を掛けるBMP-1を見て、その希望は儚くも霧散した。


 僕はアンジェの腕を掴んでBMP-1とは反対側へ走り、今度は五十口径を積んだテクニカルと鉢合わせた。真正面、およそ百メートル先から全速で向かって来ている。幸いにも、ピックアップトラックの荷台にポン付けしただけのM2重機関銃は、運転席が邪魔になってこちらへ銃口を向ける事が出来ないようだ。


 運転手の動揺が操縦に現れていた。ターンして攻撃しようと迷ったのか、右へ左へとハンドルを切り、アクセルを緩めたかと思えば踏み込み、最終的に僕たちを轢き殺すと決めたようだ。


 僕は立ち止まり、ハンドルを握るスキンヘッド目がけてSCAR-Lを繰り返し、何度も発砲した。ゲームみたいにヒットマーカーが見えれば楽なのだが、生憎そうではないので念入りに撃つ。最初の一撃で頭を撃ち抜いた自信があったが、頭蓋骨を完全に粉砕するくらいの心構えで引き金を引く。


 スキンヘッドは死んでもハンドルを離さなかったようだ。テクニカルは鋭角に曲がり、廃墟の壁に突っ込んで止まった。5.56mmが貫通して無数の罅が入ったフロントガラスが崩れ、ひしゃげたボンネットの下から白煙が立ち上る。


 荷台の男は衝突のショックに打ちひしがれながらも、必死の形相でM2に取りつこうとしていた。すかさず撃ち殺そうとした時、背後で立て続けに銃声が轟いた。アンジェが追って来たBMP-1に銃撃を浴びせている。大人しくグリフォンを追っていればいいものを、どういう訳か僕はマーダー・インクを酷く怒らせたらしい。


 当然ながら、アンジェのL86A2から放たれる弾丸は正面装甲で悉く弾かれてしまう。前門のテクニカル、後門のBMP-1、言うまでもなく不味い状況だ。


 僕はアンジェの腕を取り、一番近い廃墟に飛び込んだ。先程まで僕らが立っていた場所を、BMP-1の同軸機銃の集中砲火が舐めていった。東側兵器でよく見る緑色の曳光弾の行き着く先を僕は知らない。けれど、あの荷台の男を引き裂いていてくれたらと、心の底から思う。


 二階へと続く階段は完全に崩壊していたので、僕がアンジェを抱え、ニンジャのように壁を蹴って上った。五十口径の銃声が外から響き、重く響く砲撃音を最後にぱたりと止んだ。通りに面した窓から覗けば、テクニカルは完全に破壊され炎上していた。


 マーダー・インクの兵士たちが廃墟に雪崩れ込んできたのが、階下から届く知性を感じさせない怒鳴り声から窺えた。口汚く僕らを罵り、降伏しろだの諦めろだのとほざいている。降伏しろだって? 冗談じゃない、どうせ待ち受けているのは拷問と銃殺刑だ。


「アンジェ、手榴弾を投げ込んでやれ。上に登るぞ」


 高所に陣取れば、あまり仰角が取れないBMP-1は手出しできなくなる。経年劣化甚だしい廃墟を破壊されるかもしれないと思ったが、上に逃げる以外の選択肢は考えられない。一階の階段は崩れていたが、上階へ続く階段は大規模な崩壊を免れていた事も決断を後押しした。


 手榴弾の炸裂音が一向に聞こえないので振り向くと、アンジェはミリタリージャケットの下に着込んだハーネスから手榴弾を外すのに手間取っているようだった。手は小刻みに震え、縦に長い瞳孔が興奮で開いている。ビビッているだけならまだしも、彼女は酷く緊張しているようだ。


「おい、落ち着けよ」


 僕は代わりに自分の手榴弾を投擲し、言った。


「この程度なんでもない、そうだろ?」


 気休め程度の言葉だったが、多少の安心を与えられたらしい。アンジェは深呼吸して、幾らかの落ち着きを取り戻した。


 階下で手榴弾が爆発した。衝撃が駆け巡り、血煙と肉片が舞い上がる。連中は階段を昇ろうと密集していたところに爆発を喰らったようで、沢山の呻き声が重なって聞こえた。たった一発の手榴弾としては上々の戦果に満足して、僕とアンジェは更に上へと走る。


 途中崩壊した壁から覗いた地上では、BMP-1が73mm低圧滑腔砲の砲口を廃墟に向けて後退していた。仰角が取れない分を機動で補おうというつもりだろう。まだ僕の姿を発見できていないようなので、その隙に更に上る。


 それからもう五階上がって、行く手を瓦礫に阻まれた。僕の力なら道を作る事も不可能ではなさそうだが、そんな時間は無い。


 マーダー・インクの兵士たちが階段を駆け上がってくる。


 さあ、どうする。


 僕は崩れて開放的になった壁から外を見渡し、活路を求めた。ここから少し離れた所に、半ばから真っ二つに折れたビルが見えた。歪な切断面には木材やら鉄骨やらが積み重なっていて、どうやらあそこがグリフォンの巣と見て間違いなさそうだ。


 あとちょっと、あと少しの距離。それが絶望的に遠い。


「レイジくん、下!」


 踊り場から飛び出した兵士に三発の弾丸をお見舞いし、僕は再び手榴弾を投げた。炸裂、土埃、銃声。敵の姿を目視できないが、僕は撃ち続ける。


発煙手榴弾スモークを!」


 円柱形の発煙手榴弾がアンジェの手を離れ、階段の踊り場に転がり、白煙で満たした。三十発の弾丸を打ち切ったSCAR-Lのボルトが止まる。制圧射撃をアンジェに任せ、一歩下がって弾倉交換。




 絶え間ない弾丸の雨あられの狭間に、僕は不吉な音を聞き取った。ボルトリリースレバーを叩く一方、外へと目を向ける。


 無人機が尖った機首をグリフォンの巣に向け、翼端に飛行雲を引いて急降下していた。金属板を切り抜いただけに見えるシンプルなテーパー翼に、大量の爆弾を吊り下げていると気付いた時には、既に無人機は投下を済ませていた。


 降下のエネルギーを使って再び上昇する無人機の陰から、二つの点が分離する。無誘導の1000ポンド爆弾二発が、高速で地に突っ込み、爆発した。


 手榴弾とは比べものにはならない衝撃がビルを貫き、砂嵐のような砂塵が押し寄せる。僕が立っているコンクリートの床を、稲妻のようなクラックが走り抜けた。


 廃墟が崩れる。


 考えるより早く身体が動いていた。アンジェを抱え、策もなしに外へ飛び出す。万物は重力に引かれ加速するという、単純な法則に支配される。


 僕はスタビライザーを起動し、体勢を整えようと試みる。しかし邪魔な人体を乗せていない無人機が鋭く切り返し、再び爆弾を投下した事で僕の目論見は破綻した。


 制御を失って落ち、背中から叩きつけられた。

 意識が飛びかけるも、アンジェは離さなかった。滅茶苦茶に転がり、何か固い物にぶつかって止まる。全身が酷く痛んだが、まだ僕は生きていて、まだ戦える。


 スリングに掛けていたはずのSCAR-Lが見当たらず、僕はウェブリーMk VIを抜いた。意識を失ったアンジェを横たえ、砂塵に覆われた人影に撃ち、弾が尽きると脇差と手裏剣を握り締めて突撃する。僕の味方はアンジェだけなので、見かけた人間は全て殺せば良い。


 血潮が熱く湧き上がる。

 歓喜が脳に満ちる。


 僕は理性を手放し殺し続ける。状況を把握できていない敵の真ん中に突っ込み、右手の脇差で敵を突き刺し、左手の手裏剣で敵の首筋を切り裂く。僕は獣のように戦う。手で、足で殺す。撃たれて、殴られて、刺される。僕は――


「レイジくん!」


 ――僕は生きていた。

 身体を揺さぶられて、名前を呼ばれて初めて気を失っていた事に気付く。アンジェは僕を引き摺り、どうにか離脱しようとしている最中だった。


 僕の手には何も残っていない。ウェブリーも脇差も手裏剣も、どこにもない。


「銃、銃を……」


 全てが死にゆく中、BMP-1が僕を見ていた。あちらも弾が尽きたのか同軸機銃を撃ってこないが、仰角を上げた砲口をゆっくりと下げて僕を狙おうとしている。


 ポケットに隠していたデリンジャーを取り出して、銃口を向けた。もしBMP-1の方向に弾を飛び込ませる事ができれば、弾薬を爆発させる事ができないだろうか――愚かな思考が過る。


 重い引き金を引く。乾いた銃声を残して小さな弾丸が飛び、BMP-1が炎上した。レーザービームのような集中砲火で天板を撃ち抜いた無人機が、銀翼を輝かせて旋回して次の得物を探している。


 絹を裂いたような憤怒の絶叫を上げ、子を失ったグリフォンが未だ収まらぬ砂塵から奇襲を掛けた。フラップを全開に下げた無人機との間で短い格闘戦があり、圧倒的なエネルギー差の前に為す術もなく、背面から機関砲に引き裂かれた。


 臓物を撒き散らし、木の葉のようにしてグリフォンが落ちる。


 殺すだけ殺して満足したのか、あるいは弾が尽きたのか。無人機は一度ぐるりと旋回して地を睥睨したのち、水平線ぎりぎりに飛び去った。


「……終わったよ、レイジくん」

「ああ、信じられないが……生き残ったな」


 アンジェの肩を借りて立ち、辺りに転がる死体を見渡した。

 僕らだけが生き残っていた。知らない所で全てが始まって知らないうちに終わったような、釈然としない気分だった。


「半年分は殺したかもな」

「うん、早く仕事を終わらせて……帰ろう」


 その意見には完全に同意するが、まずはグリフォンの胃から探さなければ。

 僕は瘴気も構わずにガスマスクを外し、煙草を吸った。


 冷たい空気と重い煙に、傷ついた肺が咽る。

 口に溜まった血液を吐き出して、僕は一人呟いた。


 これぞ、この世で最高の仕事だと。

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