3.『新世界、壁の外、銀景色-3』

 時が経つにつれ銃声は散発的になり、やがて消えた。ここらの連中には捕虜を取る習慣も義務も無い。つまり、どちらかが全滅したと見てほぼ間違いないだろう。


 静かだった。


 時折風が廃墟を通り抜ける風切り音以外は、何もない。しかし、僕はそれが偽りだと知っている。奴らは今もどこかに潜んでいて、僕の喉笛に牙を突き立てる時を今か今かと待っているのだ――正に今、瓦礫の陰で此方の様子を窺っているあのグールのように。


 僕はSCAR-Lを構え、引き金を素早く二度引いた。サプレッサーで抑制された重い銃声に、薬莢が地を跳ねる金属音。赤く爛れた人形が制御を失い、小高く積もった瓦礫の山から転がり落ちた。


 頭と胸にM855A1弾の直撃を受けてなお、グロテスクな肉体はまだ生きていた。皮膚を剥がされたような細い四肢をぴくぴくと痙攣させ、白濁した眼で僕を睨んでいる。癒える事のない怒りと飢えが渦巻く空虚な双眸を、僕は同じくらい空虚な義眼でじっと眺めた。


 一発の弾丸が飛んできて、瀕死のグールを終わらせた。頭蓋骨が砕け、ピンクの脳漿が赤い血溜まりに零れ落ちる。もうグールはピクリとも動かない。当然だ。全てを司っていた脳がプディングのように崩れてしまったのだから。


「……大丈夫?」


 アンジェは僕の隣に並び、心配そうに言った。彼女の抱えるL86A2の銃口からは陽炎が上り、周囲の空間を僅かに歪ませている。


「大丈夫、なんでもない」

「ならいいけど……」


 グール――屍肉喰らいとも呼ばれる魔物は、その名の通り死体に寄って来る。サメが海中を漂う血の一滴を嗅ぎ分けるように、グールの嗅覚は死臭に強く反応するのだ。普段は暗い廃墟に隠れている奴が日の元に出てきたという事は、つまり。


「アンジェ、臭うか?」

「ううん、私にはまだ分からない」


 この先、僕らが向かっている方には死体があるのだろう。

 アンジェには捉えられない希薄な死臭でも、グールの脳裏にはごちそうの姿がはっきりと浮かんでいるはずだ。食事の邪魔をされれば誰だって怒るが、僕らはそこに銃を抱えて突っ込まなければならない。


「動く物は全て撃て。僕以外な」

「分かってるよ」


 アンジェは身に纏うミリタリージャケットの襟元、普段は折り曲げられて見えない部分に記された、『BORN T生来O Kill必殺』という一文を僕に見せた。美しいが文法的に間違ったこの言葉は、もちろん彼女の手によるものでは無い。書いたのは他ならぬ僕自身であり、そのジャケットも元は僕の物だ。


 買ったのは、僕がまだ入隊したての十代だった頃。基地の隣にあった軍放出店の奥で眠っていたのを見つけたのだ。当時とある映画の影響を受けていた僕は迷わず買い、そして例のメッセージを書いた。これから経験するであろう戦争のきらめきと魔術的な美を、若く愚かな僕は信じていたからだ。


 それから間もなくして僕は実戦を経験し、チャーチルの正しさを思い知った。ミリタリージャケットは僕の恥となり、手放そうとした結果紆余曲折を経てアンジェの元へ渡った、という訳だ。


「いい加減新しいのを買えよ」

「壊れるまで着るもん」

「じゃあせめてそれ消してくれ。見る度に恥ずかしくなる」

「絶対やだ」


 どうしてアンジェが頑なにそのミリタリージャケットを着続けるのか、僕には分からない。彼女が掛ける執念といったら凄まじく、外れかけたボタンがあれば丁寧に縫い直し、挙句の果てには色褪せたオリーブドラブの布地を古着レストア専門の業者に出して染め直す始末だ。この調子で行けば、近い内にテセウスの船みたいな状態になるんじゃないかと思う。


「ん……血の臭い」


 とアンジェが言って、いよいよ近づいてきたと分かった。ガスマスクを着けている僕の嗅覚が鈍ってしまっている事を別にしても、彼女の血の臭いに対する鋭さは一流だ。それは遺伝子レベルでの差であり、彼女に脈々と受け継がれてきた吸血鬼の血が成せる業なのだ。


 薄まった――混血でこれなら、純血の吸血鬼は一体どれだけの力があるのだろうか。


 プレートキャリアに付けた瘴気検出装置が虫の羽音のような音を立てた。

 僕はドットサイトを覗き、あちらこちらに銃口を向けながら歩く。瓦礫の陰、ビルの窓、どこから敵が飛び出してきてもいいように、人差し指を引き金に乗せたまま。


 角を曲がった先で、死体の腹に顔を突っ込んでいるグールと出くわした。脂肪と筋肉の層を裂き、鮮やかな腸を引きずり出そうとしている頭部目がけて一発。血飛沫が舞い、突っ伏して動かなくなる。


 銃撃戦があったのはここで間違いない。証拠に、ざっと見るだけで十体近い数の死体と数えきれないほどの薬莢が転がっていた。そしてもちろん、それ以上のグールも。

 

 集団で気が大きくなっていたのか、グールは食事を中断して襲い掛かって来た。全身にべっとりと血液を纏い、悲鳴のような声で叫びながら向かってくる奴らを、僕とアンジェは片っ端から殺した。ただ食欲に身を任せるしか能のない奴らと、自動小銃で武装した二人の人間。どちらが勝つかは自明だ。


 空になった弾倉をダンプポーチに落とし、新しい弾倉を挿入する。念の為薬室に一発残しておいたので、それ以上の動作は必要ない。


 一分も経たないうちに死体の数は倍以上に増えた。

 人間もグールも、死んでしまえば大して変わらないように見える。


 僕たちは手掛かりを探そうと、死体の検分を始めた。まずは僕の足元の死体から。性別は……体つきからして男だろう。というのも、首から上を綺麗に吹き飛ばされているのだ。身を守る物はシャツとジーンズ以外に無く、とても戦場に赴く格好とは思えない。


 次の死体、これもやはり男。

 全身をずたずたに切り刻まれ、AKを握り締めたまま眼を見開いて死んでいる。装備はしっかりとしていて、とりあえず銃を持たされただけのチンピラに比べると、ずっと兵士らしい装いだった。


 そこで、僕はある違和感を覚えた。

 この混沌を極める屍山血河の中で、統一された装備だけが際立っている。


 兵士らしい格好の連中は皆AK-104で武装しており、一部は贅沢品の拳銃まで装備していた。口径は7.62×39mmと9mmパラベラムで統一されていて、補給を考慮した形跡が明らかに窺える。

 

 死体の上着を脱がせると、右腕にはタトゥーで姓名と血液型が彫り込まれていた。中でも最も眼を引くのは、髑髏の顎から脳天までを突き刺す短剣のシンボル――殺人株式会社マーダー・インクの証。


「アンジェ、こいつらマーダー・インクだぜ」

「……ふーん」


 悪名高き傭兵連中の名を聞いても、アンジェは極めて冷静だった。


「でも結局、撃てば死ぬでしょう?」


 なるほど、シンプルだが確かな真実だ。

 どちらにせよ、僕は誰が立ちはだかろうと殺して進むしかない。例えそれが高度に統率された機関銃を振り回す傭兵集団だとしても、僕は進むしかない。


「やれやれ、全く……」


 僕の歩みは東洋的な達観によって支持され、すぐに止まった。随分前に放棄されたであろうチャレンジャー2戦車に背を持たせ掛け、ゆっくりと深く呼吸している男の姿を認めたからだ。手で押さえている首元からは血が溢れ出していて、一向に止まる気配が無い。

 

 僕は男の前にしゃがみ、顔を覗き込んだ。男はもう目も満足に見えないらしく、虚ろな瞳を何度か彷徨わせ、ようやく僕を捉え、怯えの色を滲ませた。僕をお迎えだと勘違いしているのか、それともガスマスクが怖いのか。


「煙草吸うかい?」


 男は小さく口を開け、口笛のような音を出した。それが言葉になれなかった声だと気付いたのは、男の喉から流れ出る血が泡立っていたからだ。気管が破れ、そこから空気が漏れていた。


「アンジェ、彼を救えるか?」

「無理。理由もないし」

「命を救えと言ってる訳じゃない、少しだけ元気にしてやれないか」


 この男は奈落の淵に立ち、死神に両足を掴まれている。アンジェに治せないのないのなら、ドクター・ストレンジでも無理だろう。


「放っておけばいいんじゃないの」

「話が聞きたいんだ……喋れるようにするだけでいい」


 百聞は一見に如かず。死人に口無し。

 何か聞くのなら、死人より生者に聞く方がずっといい。


 という訳で、渋るアンジェを説得して男を治して貰う事にした。

 彼女の細い指先から、金色に輝く糸が伸びる。それは男の喉にするりと潜り込み、内と外から傷を素早く丁寧に縫合していった。出血が穏やかになり、悲し気な犬のような音が止まる。意識から消えていた痛みが戻ってきたのか、男が苦痛に顔を歪めた。


「モルヒネを打ってやろうか?」

「水……水を……」

「割れた器に水を注ぐようなもんだと思うけどな」


 仕方なく僕は水筒を開けた。魔法瓶の水は今朝沸かしたばかりでまだ温かく、白い湯気が立っている。直接男が口を付けて血が混じるのが嫌だったので、使い捨ての紙コップに注いで渡す。


 男は奪うように勢いよく飲み、案の定むせ返った。喉の傷が開き、薄まった血が噴き出す。それを目の当たりにしたアンジェは舌打ちをして、


「ちょ……人が折角治してあげたのにさぁ」


 苛立ちを隠そうともせず、もう一度男の傷を縫い合わせた。気の短い彼女が爆発する前に用事を済ませなければならない。僕は男の顎を掴み、目を合わせて言った。


「あんたも誰かに雇われたんだろ。ここで何があった」

「あいつら……マーダー・インクの連中、戦車を持ってたんだ……簡単な仕事だと聞いてた……」

「簡単なら金払って人に頼んだりしないだろうよ」


 ともかく、これで兵士らしき男の死因が分かった。榴弾の巻き添えを喰らったのだ。超高速で飛翔する金属片相手では、いくらトラウマプレートを着込んでいても分が悪いだろう。


「で、奴らの規模は? どっちに行った」

「あっちだ……多分、三十人はいたと思う……」


 男は通りの奥を指し、咳き込んだ。あえぐような浅い呼吸の度に喉の奥でごろごろと音が鳴っている。延命もこの辺りが限界だろう。

 僕は男の顎から手を放し、両の瞼を閉じさせてやろうとした。しかし男は拒み、緩慢だが首を振って僕の手から逃れようともがく。これではまるで僕が死神だ。


「死にたくない……」

「残念だが、手の施しようが無いんだ」

「魔術で……そこの姉ちゃんだ、助けてくれ……」


 アンジェの魔術は、傷を治し、人体に備わった生命力を活発化させる能力だ。だがそれは実のところ生命力の前借りとも言える代物であり、大きな傷を負った人間に対しては逆に負担となる。

 今この男が話せているのは、最後に残った生命力を無理やり奮い立たせたからに過ぎない。寿命という観点から見れば、確実に一時間は縮んだはずだ。


「何度でも言うが、無理なんだ。諦めてくれ」


 言い聞かせるように僕は言った。納得しようとしまいとこれが現実、どうしようもない事だってある。

 用事を済ませた僕は立ち去ろうとして、か細い声に引き留められた。


「なんだ、最後にハイクでも詠む気か? SNSに上げろよ」

「殺してくれ……」


 理由は聞くまでも無かった。

 腹を空かせたグールが来る前に死ねるかどうか、それは完全な賭けだ。死体を喰われるのならまだしも、運が悪ければグールの牙で生涯に幕を下ろす羽目になる。それならさくっと死ねるうちに死にたいと考えるのは、人間の心の動きとしては自然に思えた。


 一発の弾丸も無駄にはしたくないが、放っておくのも少し気が咎める。

 僕はホルスターからウェブリーMk VIを抜き、銃口を男に眉間に向けた。


「やめるなら今のうちだぜ」


 男の意思は変わらなかった。

 僕は撃鉄を起こし、引き金を引いた。


 至近距離で.455ウェブリー弾が額に直撃し、頭が水風船のように破裂した。ガスマスクのレンズに付着した肉片を拭い、僕は思わず呟かずにはいられなかった。


「やれやれ、全く……」

 

 全く、なんて酷い一日だろう。

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