2.『新世界、壁の外、銀景色-2』
「無線を確認、チェックチェック――聞こえるか?」
「チェック、問題無し」
僕は無線の具合を確認し、ガスマスクを装着してフードを被った。SCAR-Lのセレクターをセミオートへ運び、チャージングハンドルを引いて5.56×45mm弾が薬室に送り込まれる瞬間を見届ける。
銃を構え、一歩一歩踏みしめるようにして出口へ進む。コンバースのスニーカーが捉える地面の感触が固いコンクリートから湿った雪へと変わり、暗所から明所への移動に伴う光量の変化を鋭敏に察知した義眼が瞳孔を絞る。
不穏な死の気配が漂っていた。
ここは既に敵地だ。僕のような普通の人間は生存を許されず、魔術師や吸血鬼、そして魔物が跋扈する
静止したこの世界では死こそが唯一の秩序であり、ありとあらゆる存在が僕の命を狙っている。だから、何が起こってもいいように備えるのだ。まさかの時のスペイン宗教裁判だろうが何だろうが、備え、対応し、生き残る。また明日も備えられるように。
ドットサイト越しの視界に人型を捉えたのは、そんな最中だった。
「十時の方向に人影」
僕はそう言って姿勢を低く、トリガーに指を置き射撃準備。ヘアゴムを唇に挟み長髪をポニーテールに纏めようとしていたアンジェはその手を止め、スリングで肩に吊っていたL86A2に取り付けているスコープを覗き込んだ。
その人影が既に息絶えていると気付いたのは、それから間もなくの事だった。
「……死体だね」
「みたいだな、驚かせて悪かった」
警戒を維持したまま近づくと、凍死体は男であると分かった。驚愕と恐怖に目を見開いたまま凍り付いたその姿は、映画『シャイニング』のジャック・ニコルソンを彷彿とさせる。
昨晩の吹雪の凄まじさから察するに、寒さを凌げる場所を探して彷徨っている内にホワイトアウトに襲われたと考えるのが妥当だろう。つくづく不運な男だ。後もう少し動ける体力があれば、僕たちがいた廃墟に辿り着けたのに。
「……私は嫌だよ。知らない人と同じ部屋だなんて」
アンジェの言葉は、まるで僕の心を見透かしたかのようだった。
そう言うなら仕方がない、この哀れな凍死体には運命だったと諦めて貰おう。彼女が白と言えばカラスでさえ白になる。彼女こそ僕のイデオローグであり、真に忠を尽くすべき存在なのだから。
僕は凍った男を横目に、廃墟の傍へ止めておいた車の方へ向かう。年季の入った3ドアの四輪駆動はすっかり雪を被り、スコップで掘り返さなければドアを開ける事さえ難しかった。クラッチとブレーキを踏んで昔ながらのキーを差し込んで捻ると、1.5Lガソリンエンジンは快音を上げて息を吹き返した。
空気清浄装置と暖房の電源を入れ、瘴気濃度が十分に下がった事を確認してガスマスクを外す。車内は生暖かい空気と煙草の臭いが漂い、田舎のタクシーみたいだった。
ビーコンの信号をアンジェのスマートフォン経由でカーナビへと送る。多少の遅延や誤差はあるが、これでグリフォンを追跡できる……とは言え、空を飛んでいる相手を車で追うのは無理がある。現実的には巣の近くで待ち伏せする形になるだろう。
「さてと、まずは巣の近くまで行くか」
「そうだね……車が壊れなきゃいいけど」
「大丈夫、こいつはタフだし見た目ほどボロくない」
ギアを一速に入れ、ゆっくりと車を発進させる。確かにアンジェが言うようにこの車はあまり速度も出ないし、乗り心地もよろしくない。しかし構造が単純であるが故に頑丈かつ修理も簡単で、ボンネットの中にはスペアタイヤと工具まで備えられているのだ。
しかも安い。休日に趣味として悪路を走りに行くならもっと良い選択肢は山ほどあるが、銃撃戦の真っただ中に突撃したり遮蔽物代わりに使うような生活を送っているのなら、頻繁に買い替える事を前提に価格も考慮する必要がある。選ぶべきは繊細な競走馬では無く、頑強な軍馬なのだから。
凍結した路面を慎重に走りつつ、ちらとカーナビに目をやる。ビーコンは先程廃墟で見た時から変化が無い。
「今日は瘴気が特別濃いのか……とうとうケースが消化されちまったのか」
「それは無いと思うな、ケースはチタンメッキされてるし」
「へぇ、どういう理屈だ?」
「チタンは耐食性が強いんだよ」
もう随分前の話になるが、グリフォンの胃酸を頭から被った男を知っている。黄色いさらさらした液体が僕の数メートル先を歩いていた男に降りかかったかと思うと、次の瞬間には全身から煙を吹きながら聞くに堪えない悲鳴を上げてのたうち回っていた。
僕は水をかけたりしてどうにか救命を試みたが、結局彼がどろどろのシチューになるまで一分と掛からなかった。今思えば、僕はさっさと眉間に弾丸を撃ちこんでやるべきだったのかもしれない。
僕は頭を振り、その光景を振り払った。
「チタンは何かと便利でさ、人体との相性も良いからキミの
「それって僕が胃酸を浴びたら部品だけが残るって事か? それなら綺麗さっぱり溶ける方がマシだぜ」
実際僕の身体は半分近くが
路地裏に店を構えている闇クリニックの連中は、他のサイボーグと同じように僕もリサイクルするのだろうか。かつて僕だった液体をザルで濾し、溶け残った部品を洗浄してタンクへ……なるほど、確かにエコだ。
もし死ぬなら爆薬か何かで木端微塵にならなきゃならない――そう考えていると、ウインドブレーカーのポケットの中でスマートフォンが震えた。発信元にはモニカと表示されている。僕は電話を取らず、アンジェに渡した。
「代わりに出てくれ」
「えぇ、なんで……」
「ご覧の通り運転中なんだ」
これは法律がどうこうでは無く、緊急事態に素早く対応する為だ。片手じゃハンドルとシフトレバーを同時に操作なんて出来ない。しかし、僕はそこでアンジェとモニカの相性の悪さを思い出した。二人の喧嘩を仲裁するくらいなら、ガラスの破片を飲む方がまだマシだ。
「スピーカーでもいい、いやそうしてくれ」
僕は最善の選択肢を選んだ。
〈おはようございます、レイジ……雑音が酷いですね〉
「運転中なんだ。仕事なら必死にやってるぜ」
〈それは結構。そろそろ良い報告を聞きたい所ですが〉
アンジェは不機嫌そうにそっぽを向き、スマートフォンを持つ腕を僕に向けて突き出している。声も聞きたくないらしいが、それはそれで好都合だ。
「催促の電話か? 心配しなくてももうすぐ……」
〈いえ、少々気になる情報が入ったので共有しておこうかと〉
オブラートに包まれた不穏な響きに、流石のアンジェも少しばかり意識を寄越したようだった。モニカが僕に電話を寄越すのは、仕事の話かそれに関連して悪いニュースがある時だけだ。時期と状況からして、ある程度想像がつく。
「
〈その通り、複数の魔術結社に嗅ぎつけられました。一部は既に壁の外へ向かっているとの情報もあります〉
人の口に戸は立てられず、どんな情報も必ずいつかは漏れる。
だから僕たちは大規模な戦闘に備えた準備をしている……けど、だからと言って歓迎すべき状況では無い。恐らく魔術結社と言っても大半は漁夫の利狙いのチンピラ崩れだろうが、どんな馬鹿でも銃を持たせて数を揃えれば大きな脅威になるというのは、歴史上何度も証明されてきた事実だ。
「ねぇ、モニカ。一つ聞いていい?」
〈その声はアンジェさんですか。構いませんが馬鹿が感染るので手短に〉
アンジェの頬が引き攣り、獰猛な八重歯が露わになる。
「ケースの中身は何」
怒りの籠った声音とは裏腹に、それは冷静に核心へと迫る質問だった。
この仕事で求められるのは、自ら進んで無知である事だ。
自分が何を追っているかなど知る必要はない。僕がこの仕事に向いていた理由は、単に隷属の才能があったからだ。理性に傾倒しつつも自由意志を放棄した結果、僕は今日まで生き延びられている。
だがアンジェは僕と違い、常に自由な人間だった。何かに縛られる事を良しとせず、大きな視野で全体を俯瞰しようと努力している。だからこそ、彼女はこの状況が気に入らないのだろう。
〈エリクサーです〉
僕とアンジェは言葉を失った。それはモニカがあっさり白状した事と、ケースの中身の両方から来る驚きだった。
「……随分簡単に教えてくれるんだね」
〈情報が漏れたと言ったでしょう。最早隠す意味がありません〉
エリクサー、万病を癒す奇跡の霊薬。
製造、流通には政府の厳しい規制が課せられており、禁霊薬法が施工された今となってはとんでもない価格で極少数が取引されていると聞く。都市伝説的な逸話は度々耳にするが、ここでその名が出るとは思いもしなかった。
これはいよいよ厄介になってきた。とにかく急がなければ、本当にヘリコプターや飛行機が出張って来ても可笑しくない。幸いにも、グリフォンの巣までもう少しだ。
「増援は寄越せないのか」
〈手配していますが、恐らく到着する頃には手遅れかと。そう言えば先程、もうすぐとおっしゃいましたね。何か目処が付いたのですか?〉
「ああ、多分グリフォンの――」
僕が言葉を最後まで紡げなかったのは、突如襲った強烈な衝撃の所為だった。腹の底から響くような、空気を震わせるそれは間違いなく爆轟であり、僕たちがとてつもなく不味い状況に突入しつつある事を示している。
助手席に座るアンジェが滑り落ちないよう左手で抑え、アクセルを踏み込み急加速。不意打ちを受けたら考えるより前に離脱し、それから状況の把握に努める。僕は教科書通りの戦術に従った。
急激なアドレナリン分泌を検知した恒常性監視システムが活動を開始し、介入を受けた副腎がノルアドレナリンを放出した事で、僕の精神は不自然に平静を取り戻してゆく。
今の攻撃は僕たちを狙ったものではなかった。であれば一旦身を隠し、それから状況を確認して体制を立て直すのが取るべき行動だ。
視野狭窄から解放された僕は車を入れられそうな廃墟を発見した。それなりに頑丈に見え、ちょっとやそっとの攻撃で崩壊する心配はなさそうだ。
ドリフト気味に曲がり、速度を保ったまま廃墟に突っ込む。窓枠だけのエントランスをぶち破り、打ち捨てられていたテーブルや椅子を粉砕して車は停止した。
エンジンを切って耳を澄ませる。
散発的な銃声に爆発音が混ざり、さながら調子外れのマーチング・バンドだ。
「これは手榴弾なんかじゃないな、もっとデカい」
「迫撃砲かな……どうしようか?」
「降りよう。二十四時間分の食料と武器弾薬を揃えるんだ」
車内に留まっていれば安全そうに思えるが、装甲はせいぜいライフル弾を耐えるのがやっとで五十口径を撃ち込まれれば車ごとバラバラだ。迫撃砲では言わずもがな。
「くそっ、またガスマスクを着けなきゃな」
「いいじゃん、似合ってる」
「そりゃどうも」
もし僕がまだ魔術師でいられたのなら、瘴気を吸ったって平気だったのに。こういう時ばかりはアンジェが羨ましくなる。彼女は賢く、優れた魔術師で――いや、過去に思いを馳せるのはよそう。
車をここに隠し、グリフォンの巣へは徒歩で向かうと決めた。
僕とアンジェはバックパックを背負い、銃を撃てるよう準備する……が、そこで問題に気付いた。
「アンジェ、僕のスマホどうした?」
「あっ……やべ」
アンジェが咄嗟に手放したスマートフォンは、座席の下に滑り込んでいた。
通話はまだ続いていたようで、モニカの鼓膜を痛めつけた事に疑いの余地は無い。
「モニカ、聞こえてるか?」
〈……ええ、状況は把握しています。もう切って結構〉
「理解が早くて助かる」
お言葉に甘えて通話を終え、僕たちは外へと出た。銃声はまだ続いている。更に悪い事は続くもので、戦闘は目的地のグリフォンの巣の方向で起きているらしい。
僕は腹立たしいほど晴れ渡った空を見上げた。
立ち上る黒煙はやがて薄くなり、淡い青空との境界を曖昧にして終いには同化する。それは水に垂らしたインクにも似て、この地に縛られた死者の魂が解放されているようでもあった。
その時、薄い煙の幕がふっと散り、小さな黒い点が空に現れた。
「伏せろ!」
僕が叫ぶと同時、その点は引き裂かれる空気の悲鳴を伴い目にも留まらぬ速さで頭上を通り過ぎていった。ジェットエンジンの轟音が轟いたかと思えば、屹立する高層ビル群に遮られてあっという間に霧散する。
粉雪が一斉に舞い上がり、ひび割れたアスファルトから覗く奇妙な植物が揺れた。
僕は右手で銃を構えたまま、左手でガスマスクのレンズに付着した細かな雪を拭い、背後で伏せたままのアンジェに声を掛ける。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫……おぇ、なんか口に入った」
アンジェは水筒の水で口を濯ぎ、ミリタリージャケットの埃を払った。
「ミサイルかと思った」
「さっきのは無人機だ……似たようなものだけどな」
視界に捉えたのは一瞬だったが、直線的なテーパー翼と尾翼は見て取れた。現代の戦闘機が人工筋肉を用いた生物的な流線型である事を踏まえると、無人機だとみてほぼ間違いない。
問題は、誰が何の為に飛ばしたかだ。
僕は再び空を見上げ、混沌を極める状況と己の不運を呪った。
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