サイバーパンク短編集

паранойя

1.『新世界、壁の外、銀景色』

 藻掻くような眠りから目覚めると、周囲は静寂に満ちていた。

 包まっていた毛布から出て、割れた窓からこっそり外の様子を窺う。


 延々と続く灰色の荒野は見渡す限り一面の銀世界と化し、空はフェルメールの絵画のように真っ青だった。僕はウインドブレーカーの腕に設けられたポケットから煙草を取り出して一本くわえ、左手に内蔵されたライターで火を付けた。苦く重い煙を、冷たい空気と混ぜて肺に落とし込む。


 壁の外に出て、今日で五日目。そろそろ空調の整った部屋とふかふかのベッドが恋しくなる頃合いだ。一刻も早く壁の内側インナーシティに戻る為にも、今日の計画を立てておきたい――が、まずは紅茶が先だ。オムレツに卵が欠かせないように、朝には濃い紅茶が欠かせない。

 

 僕はコッヘルに水を注ぎ、ポータブルストーブに乗せた。有害物質に満ちた煙を深く吸い込んでから、煙草の火を気化したホワイトガソリンに移す。


 煙草を吸いながら水が沸騰するのを待っていると、部屋の隅に丸まった寝袋がもぞもぞと動き始めた。寝袋はしばらく伸びたり縮んだりを繰り返していたが、やがて観念したのか上体が起き、ファスナーが内側から下げられてゆく。


 デジタル迷彩が施されたマミー型寝袋の頭部がぺらりと捲れ、少女が顔を覗かせた。


「……おはよ」

「おはよう、アンジェ」


 アンジェは寝ぼけ眼を擦り欠伸を一つ、猫のように背筋をくっと伸ばす。白いワイシャツ越しにでも分かる胸の膨らみが、彼女のどこかマニッシュな雰囲気と好対照している。


「……シャワー浴びたい」

「明日には帰れるさ」

「それ昨日も言ってたじゃん……外は?」

「良く晴れてる。昨日の吹雪が嘘みたいだ」


 目覚めの気怠さを隠そうともしない緩慢な動作でアンジェは外を見て、差し込む陽光に目を細めた。穏やかな風が彼女の銀色の長髪を揺らし、月光のように輝かせた。

 

「フェルメールみたいな空だろ」

「ウルトラマリンの蒼はもっと鮮やかだよ……どっちかと言えば、シスレーとかギヨマンみたいな印象派的な感じがするけど」


 ちょっと気の利いた事でも言おうとしたのだが、僕の教養では無理な話だったらしい。幼い頃に受けた教育の差は、思わぬところでこうやって一撃を食らわせてくるものだ。


 印象派――外で絵を描いてる人たち。

 青色――睡眠薬サイレースを溶かした色。


 僕の認識はこの程度でしかない。


「……一服しよっか」


 アンジェは細巻きの煙草を手に、僕をじっと見つめた。その意図を察し、僕は指先に火を灯して差し出す。しかし、彼女はそれをそっと退けて、


「燃料は節約しなきゃ……ほら、じっとして」


 唐突かつ静かに顔を寄せた。ふっと石鹸の香りがして、僕の口先で燻る火が彼女の煙草へと移ってゆく。

 その細い指先で、巻紙にプリントされた『NeverKnowsBest』というメッセージが少しづつ灰へと変わるさまを、僕はぼうっと眺めていた。僕がシガレットキスの衝撃から立ち直ったのは、それからしばらく後の事だ。


「……びっくりした?」

「いや、どきっとした」

「あはっ……キミ可愛いトコあるよねぇ」


 美しい。微笑むアンジェを見て、僕は素直にそう思った。

 出会ってからずっと手玉に取られ続けている気がしないでもないが、それで悪い気はしなかった。彼女の前では、年上の矜持などは愚かで矮小な物だと思わざるを得ない。


「ん、お湯が湧いたみたい。朝ごはん食べよ」

「……ああ、準備するよ」


 僕は我に返り、大量の食料を詰め込んだダッフルバックから、ティーパックと各自好みの――レトルトだが――料理を選ぶ。僕は梅干し入りのお粥に決めた。


 そのままでも食べられるが、冷たいままでは余りに味気ない。幸いにも時間はあるので、当然の帰結としてヒートパックを使って温める事にした。雑事用水のポリタンクから水を注ぐと、猛烈な勢いで中身の発熱体が科学反応を始める。後は食べ物を入れておけば、蒸し料理の要領で温まるという理屈だ。


 とはいえ、熱々になるまで数分かかるので、それまでに僕はスプーン五杯の粉末ミルクと角砂糖四つを入れた紅茶を作り、中断していた煙草を再開した。


「……ねぇ、レイジくん」

「どうした?」

「禁煙だよ」


 アンジェの視線は、僕の指先で燻る煙草に注がれている。スリリングな副流煙を撒き散らすそれが、今この場において健康被害とは別の危険性を孕んでいる事は百も承知だ。


 ヒートパックに用いられる発熱体は、化学反応で水素ガスを発生させる。つまり引火の危険性がある訳だが、ここは隙間風吹き放題の廃墟なので換気は十分だし、そもそも極力火を近づけないようにしているので問題は無いはずだ……多分。


「水素なら心配ないよ。それに君も吸ってるじゃないか」

「いや、違くて……あれ」


 あれ。

 アンジェの指差す先には、色あせて朽ちた一枚のポスターが貼られている。


 眼の冴えるような黄色を背景に、煙草を吸う人のピクトグラムの上から大きくバツ印が描かれている。それは社会のあらゆる所で紙媒体が用いられていた時代、煙草の購入が月一箱に制限される前の代物だ。恐らく、この建物が朽ちるずっと前に貼られたのだろう。


 三次元空間を物理的に占有しないホログラム広告が主流となった現代では、紙に描かれた広告なんぞ殆ど見かけない。そうした過去の遺物が残っているのは、壁の外側アウターシティに広がる茫漠とした廃墟群だけだ。


 ここが『静止した世界』と呼ばれるのには、歴とした理由がある。


「衛生局のドローンが飛んで来る訳でもないしさ、誰も気にしやしないだろ」


 三枚の静音ローターで音もなく忍び寄り、スピーカーで口喧しく健康を呼びかける国家衛生局のドローン。あれを見る度に、僕はこの手で撃ち落としてやりたくなる。


 ここの持ち主には悪いが、僕は煙草を吸わせて貰うと決めた。明日どころか五分後の命さえ定かではない身としては、見逃して頂きたいというのが正直な所だ。


 煙草をふかし、枕元に丸めておいたデューティベルトのポーチから地図を出して広げた。紙の地図と紅茶があれば、いつでも司令官の気分になれる。唯一残念な点を挙げるとすれば、ここは物憂い事務室なんかじゃなく最前線で、それも崩れかけた廃墟であるという事だ。


 ふと感じた酸味のある爽やかな香りに目を向けると、いつの間にか煙草を吸い終えたアンジェがレトルトパウチに使い捨てスプーンを突っ込んでいた。ラベルには『キューカンバースープ』と記載されている――その名の通りピクルスを用いた冷製スープだ。現在の気温を考えると、それは全く信じ難い事だった。


「寒そうだ」

「全然へーき。キミも体温調節くらいできるでしょ」

「冷製スープの為に? 冗談だろ」


 確かに生体サーモスタットをフル稼働すればそのような事も可能ではあるが、それはもっと差し迫った状況の為に用意された機能であって、こういう使い方は意図されていない――そもそも僕に埋め込まれた代替部品オルタナを設計したのはアンジェなのだから、その辺は承知のはずだが。


 八重歯を覗かせて、アンジェはスープを美味しそうに口に運ぶ。混ざり血バスタードに特有の高体温が関係しているとしても、見ているだけで寒くなる光景だ。

 

「一口あげようか?」

「いや、お粥あるし……それ嫌いなんだ」


 キューカンバースープを構成する重要な要素はシャキシャキとした歯ごたえだと思うのだが、それには新鮮なピクルスが必要不可欠だ。ところがレトルトの製造過程で加熱されたピクルスはすっかりクタクタになり、旨みという旨みを全て奪われた挙句に乱暴な味付けのスープで溺死させられ、最終的にキューカンバースープっぽい何かに仕立て上げられる、という訳だ。


 その点、お粥のような柔らかい食べ物はレトルトにしても味を損なわない……しっかりと温めさえすれば。


 さて、いよいよ空腹を煙草で誤魔化すのも限界だ。

 そろそろ食べ時かと温度を確かめるが、まだ物足りない。仕方なく、僕はすっかり温くなった紅茶片手に再び地図へ向き合った。


「さあ、考えろ……」


 僕は独り言を呟いて、思考を整理しようとした。


 地図に書き込んだ点は、過去四日間でキャッチしたビーコンの痕跡。

 ビーコンは途切れ途切れに発されており、北へ向かったかと思えば南へ消え、次の日には東へと現れる。それは電波を妨害する瘴気の影響を考慮しても、あまりに規則性が欠けていた。


 荷物を奪った奴の思考が、目的地が見えない。


 人から人へと渡る過程である程度ランダムな痕跡にはなるが、全体として見れば目的地へと伸びる一本の線になる場合が殆どだ。国内に買い手がいるならそいつの元へ。国外に持ち出すなら空港なり港なりへと、痕跡はある種のを映し出す。


 そもそも、普通なら荷物を奪った時点でビーコンを破壊するだろう。

 荷物を輸送していた連中の話では、襲撃を掛けてきたのは統率のとれた部隊――恐らく魔術結社――だったと聞いている。


 これらの話を総括すると、つまり。

 敵は計画的な攻撃を実行する能力がありながら、当然あって然るべきビーコンの存在に気付かず、挙句に荷物を持ったまま右往左往する間抜けという事になる。何もかも噛み合わない、奇妙な話だ。


「なぁに難しい顔してんの……ほら、温まったから食べな」

「食べたいけど、考えが纏まらなくてさ」

「じゃあ尚更、ね?」


 隣で一緒に地図を覗き込んでいたアンジェの手には、お粥のレトルトパウチが握られていた。一言礼を述べて受け取ると、もう充分に熱くなっている。思考に没頭しすぎるのは、僕の悪い癖だ。


「お腹空かせて頭使うなんて、時間の無駄だよ」


 迷わず僕はアンジェに従った。彼女は、いつだって正しいのだから。


 短くなった煙草を携帯灰皿に落とし、お粥を一口。米の甘みと梅干の酸味。ここは僕の祖国ではないけれど、どこか安心する懐かしい香りだ。


「これ見て」


 と、一足早く食事を終えていたアンジェが僕に見せたのは、地図の上にオーバーレイ表示したホログラムだった。それは彼女のスマートフォンから投影された無数の点であり、僕が手書きしたものよりずっと詳細かつ緻密で、それぞれに座標軸と日時がタグ付けされている……断続的に発されるビーコンを全てマークしたのだろう。


 続いて液晶をタップすると、一筋の線が現れて点と点を結んだ。古い信号から新しい信号へ、時系列を辿って線は重なり、無茶苦茶な図形を描き出す。


「……これが?」

「あー、説明足りなかったね」


 今ので理解できれば良かったのだが、僕は殺しの腕だけで生きてきた人間だ。


「頭脳労働は君の役割だろ……」

「キミも偶にはアタマ使いなよ」

「使える頭があれば使ってるさ」

「屁理屈はいいから……ほら、一緒に考えよう?」

 

 アンジェの甘く穏やかな声に、出来の悪い生徒に向けるような慈しみが混じった。

 今度は速度を落とし、ホログラムがもう一度最初から再生される。


 瘴気に切断された信号が北へ、東へと点滅し、遅れて線が追いかける。さっき見た光景だ。


「同じ所を通過してるの、分かるかな」

「あぁ、ここか?」


 全体で見ると重なった五芒星のようだが、時系列を追うと確かに五芒星の中心付近を何度も通っている――というか、往復しているようにも見える。


 だが、そこには半端に崩れかかった高層ビルと無数の残骸が広がる荒野だ。瘴気も濃く危険な場所に、一体何の用があるというのか。


「空でも飛んでなきゃ理屈が合わないな」

「うん、私はそう思う」


 僕は冗談のつもりで言ったのだが、アンジェは至極真面目だった。

 しかし流石に筋の通らない話だ。確かに高価な代物ではあるらしいが、たかがアタッシュケース一つの為にヘリコプターや飛行機を飛ばしていてはとてもじゃないが採算が取れない。恐らく燃料代も賄えないだろう。


「さっきのは冗談だぜ」

「今は何の時期なのか、よく考えてみてよ」


 アンジェは本気らしい。促されて、鈍い頭を巡らせる。


 今は三月……三月といえば、まず思い当たるのが聖デイヴィッド 。

 季節的には春の兆しが感じられる頃合いだ。北部の雪が溶け、猫が床で寝るようになり、水仙が可愛らしい黄色の花を咲かす。


 そして何よりも、パンケーキ・デイが始まる時期だ。

 僕は復活祭や大斎とは縁のない人間だが、出来立てのパンケーキは心が躍る。


「パンケーキかな、教会には行かないが」

「……分かった、ヒントあげる。生き物の話ね」

「ズアオアトリが飛ぶと寒さがぶり返すって聞いた事があるな」

「もう答え言っちゃうけど、グリフォンの雛が孵る時期だよね?」


 どうやらアンジェは僕の深刻な頭脳を本気で心配しているようだと、その態度からはっきり読み取れた。


 なるほど、言われてみれば確かにそうだ。

 グリフォンは厳しい冬の間身動き一つせずに卵を温め、温かくなって孵化を迎えると小さな雛の為に――雛ですらスクーターくらいの大きさだが――飛び回って餌を集める。基本的に巣から遠く離れる事は無く、その軌跡を辿れば巣を中心とした放射図形になるだろう。


 つまり、彼女が言いたいのは。


「荷物は……グリフォンの腹の中に?」

「ビーコンを追う限りだと、その可能性が高いかな。アポフェニア的かもだけど」


 作戦通りに荷物を奪ったは良いものの、その帰路グリフォンに襲われた……なるほど、ありえなくはない話だ。


「だとすれば厄介だな。子育て中はクソ凶暴だし、デカい銃がない」

「でも、そろそろ片付けないとあの女が煩いから」

「……取り敢えず現地に行って、それから考えるか」


 アドリブ、即興、インプロヴィゼーション。

 特に冴えてはいないが、これが僕たちのやり方。


 僕は荷物を纏め、壁に立てかけていたSCAR-Lを手に取った。

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