後白河法皇誕生 そして、最初のしくじりの始まり
二条天皇は若くして崩御した。この崩御は後白河法皇が名実ともに治天の君として君臨するための契機となった。
だが二条天皇は無くなる前に、息子である順仁親王に譲位し、死してなお後白河法皇による院政を阻もうとしたのである。
こうして六条天皇は即位したが、二条天皇という英明な君主の死は旧二条派にとっては大きな痛手となり、後白河法皇とも親しかった平清盛は後白河法皇に急接近していった。
六条天皇は現在に至るまで歴代最年少での即位した天皇である。即位した時は、数え2歳(満7か月と11日)であり、彼は在位2年8か月で叔父の高倉天皇に譲位し、同時に歴代最年少の上皇となった。
そして彼は13歳で崩御した。父である二条天皇の願いは全く叶わなかったのだ。
こうして、やっと後白河法皇は二条天皇によって追い出されたかつての部下たちを呼び戻し、平清盛を内大臣とした。
武家としては大破格、しかも近衛大将も兼ねずに大臣となり、院近臣の限界であった大納言以上の地位を得たのは、後白河法皇が彼を高く評価していたのかが分かる。
何度か後白河法皇は自分のお気に入りを取り立てると述べたが、この時のお気に入りは清盛だったのであり、その恩恵を盛大に清盛は受けていたのであった。
お気に入りだったのは清盛だけではない。後白河法皇の警護を担当していた清盛の嫡男である平重盛もまた、東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を下すなど、かなりの権力を移譲されていた。
平家一門が名実ともに繁栄していくのは、平治の乱ではなく、二条天皇死後の高倉天皇が即位し、後白河法皇が治天の君として君臨したこのタイミングであったのである。
そして、清盛と後白河法皇は共に出家をする。ここで、後白河法皇は正式に法皇となり、この世の春を満喫していた。
だが、そんな後白河法皇の院政に一つの問題が生まれた。
比叡山延暦寺との対立である。
後白河法皇の祖父である白河法皇も悩ましていた比叡山延暦寺はもともと、平安京の鬼門を守る国家鎮護の道場であった。
だが、次第に延暦寺はそれを傘に来て傲慢になっており、寺院がヤクザなことをやっているという生易しい表現ではなく、ヤクザそのものが寺院を経営しているかのごとき、無茶苦茶な行動を取るようになっていった。
その一つが強訴である。強訴とは比叡山や興福寺といった、自社勢力が行う政治要求のことである。
比叡山は全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である日吉大社と神仏習合するようになり、この時代にはすでに比叡山が実質的に日吉大社を運営していた。
その日吉大社の神輿を延暦寺の僧兵たちが担ぎ出し、洛中内裏に押しかけて要求を行うのである。
たかが神輿と思う人もいるだろうが、信心深い時代の中で神輿は神そのものである。それに逆らうのは、神に逆らう行為そのものである。そんな神輿を担いで「神仏の威」を借りて政治要求を行うのだからたまったものではない。
しまいにはその神輿をその場において、神罰をあてようとするのだから非常に始末が悪い。
現代の右翼の街宣車よりもたちが悪いことをやっているわけだが、延暦寺は僧兵という独自の戦力、そして寄進された多くの荘園を有しており、一つの独立国家とも言うべき勢力を築いていた。
これは延暦寺だけではなく、中世の寺社勢力共通のことだが、その中でも延暦寺は奈良の興福寺と合わせて南都北嶺として恐れられていた。
だが、延暦寺には強力なライバルがいた。三井寺こと園城寺である。
園城寺と延暦寺はもともと、同じ天台宗の寺院であるが、誕生の経緯は延暦寺内部での派閥抗争であった。
円仁派と円珍派に分かれ、両者は激しい抗争を繰り広げ、円珍派は延暦寺の別院であった園城寺に入り、延暦寺から独立した。
彼らは何度も激しい抗争を繰り広げており、それはまさに仁義なき戦いであったと言える。
延暦寺は何度も園城寺を焼き討ちしており、そのたびに園城寺は再建し、中世末期までに大規模な焼き討ちを含めて10回も焼き討ちされたという記録が残っているほどである。
山法師こと、比叡山の僧兵はこうした抗争の中で自然に生まれて行ったのだが、後白河法皇は比叡山延暦寺のライバルである園城寺に味方した。
後白河法皇は園城寺に帰信しており、また延暦寺をけん制するために、後白河法皇は園城寺を支援していたのだが、延暦寺は当然ながら不満を抱いた。
そして、各地で院近臣であった国司たちは延暦寺の荘園整理を行っており、延暦寺の神人達と抗争していた。
二条天皇も荘園整理令を行う上で、こうした悪僧とその部下である神人達の取り締まりを行っていた。
特に美濃では延暦寺の勢力が非常に強かったのだが、尾張国知行国主・藤原成親の目代が延暦寺領・美濃国平野荘の神人を凌礫(あなどって踏みにじる)するという事件が起きた。
決して大きな事件ではないが、延暦寺はここぞとばかりに知行国主・藤原成親の遠流と目代・政友の禁獄を訴えた。
藤原成親は、後白河法皇の寵臣であった院近臣であるが、実は平治の乱の首謀者であった藤原信頼とは義兄弟の関係にあった。彼の妹が信頼に嫁いでおり、彼もまた平治の乱に積極的にかかわっていたのだが、妹が平重盛の妻であったことから助命された。
そして、平治の乱の後、二条天皇と対立していた後白河法皇は彼を取り立てていたのだが、二条天皇は平時忠と共に高倉天皇を皇太子にようとする陰謀に加担したとして解官されてしまった。
だが、二条天皇が崩御し、後白河法皇が復権すると彼もまた復権したのであった。
そんな寵臣を延暦寺は排除要求したのである。当然飲めるわけがないためにこの要求を拒否して使者を追い返した。
そして延暦寺は強訴の準備を始めたのだが、後白河法皇は負けじとばかりに検非違使と武士に動員令を出した。平重盛が200騎、平宗盛が130騎、平頼盛が150騎を率いて集まり、「その数、雲霞の如し」「帯箭の輩、院中に満つ」と称されるほどの軍勢が集まったのである。
彼らは仙洞御所を警護したが、強訴を行った大衆(多くの仏僧の集まり、また僧侶。のちに主として僧兵のことを指す)はなんと内裏に向かってしまった。
手薄な内裏を強訴され、彼らは天台座主である明雲の説得にすら耳を貸さなかった。
なんとか彼らを追い出そうとするが、武士であり実質的な指揮官だった平重盛は三回も出動命令を拒否してしまった。
というのも、平家一門と延暦寺は非常に親しい関係にあり、また神輿を壊した場合の責任を取るのは彼らだからである。
仕方なく、成親解官と備中国配流、政友の禁獄を認める羽目になったのである。
これに対して九条兼実は一切要求を認めないとしながら、大衆がやってきた途端に要求を認めるのは「朝政に似ぬ」もので、武士を招集しながら派遣しなかったことは「有れども亡きがごとき沙汰」と自分の日記である玉葉に批判を書き記していた
そして騒動が収まったとたん、後白河法皇は、明雲を「大衆を制止せず、肩入れした」という理由で、高倉天皇護持僧の役から解任した。
その翌日、裁定が逆転し、成親が召還され、事件処理に当たった時忠・信範が「奏事不実(奏上に事実でない点があった)」(『百錬抄』)の罪により解官・配流される。
つまり、裁定をひっくり返したのである。
あまりにも無茶苦茶な展開に兼実は「天魔の所為なり」と書き記した。
これは、後に頼朝討伐の院宣を義経に出しながら、頼朝に詰問されたら「天魔の所為」という言い訳をして、無かったことにしたことにも通じている。
後白河法皇はこういうその場しのぎの裁定をやり、土壇場でそれをひっくり返してなかったことにする悪癖がある。
「けれども、後白河の行動を細かく検討してみると、長期的視野に基づく戦略的な思考を見出すことは全然できない。判断が常に場当たり的で、ほとんどが裏目に出ている」
呉座勇一先生の指摘の通り、長期的視野に基づく戦略的思考が欠けた、この場当たり的な行動は後白河法皇を再び幽閉する事件の原因となったのである。
そう、鹿ケ谷の陰謀とそれに伴って平清盛が起こしたクーデター、治承三年の政変の火種となったのだ。
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