その陰謀はあったのか? 鹿ケ谷の陰謀

前回は嘉応の強訴が最終的に後白河法皇は延暦寺の強訴を受け入れつつ、裁定をひっくり返したことをまとめた。


 当然ながら比叡山延暦寺はこの決定に恨みを抱いた。


 この後に延暦寺は白山事件という強訴を起こし、加賀守・藤原師高の配流を要求してきたのである。


 原因は後白河の近臣である西光の子・師高が加賀守に就任し、同じく子の藤原師経がその目代となり、師経が白山の末寺を焼いたことに激怒した白山の僧侶が延暦寺に訴えたのである。


 後白河法皇は目代・師経を備後国に流罪にすることで事態を収拾しようとしたが、大衆(僧徒)は納得せず4月12日に神輿を持ち出して内裏に向かう。


 すでに下した判定をひっくり返すような人物の言うことなど彼らは信用してはいなかったのである。


 頭に来た後白河法皇は前回と同じように武士を派遣するが、翌日警備にあたった重盛の兵と大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たって死者も出した。


 大衆たちは激怒して神輿を放置して帰ってしまった。信仰心の強いこの時代にこれを行うのは、ある意味放射性物質を敵対する相手の家に置いていくようなもので、うかつに触れば神の怒りに触れ、祟られてしまうからである。


 師高の尾張国への配流、神輿に矢を射た重盛の家人の拘禁が決定、大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着した。父親の西光については一時配流される羽目になる。


 こうして、後白河法皇は強訴に屈服してしまうのだが、決して恨みを忘れなかった。その後、「太郎焼亡」と称される安元の大火が発生、大極殿および関白松殿基房以下13人の公卿の邸宅が焼失してしまった。


 後白河法皇はこの大火に対して天台座主明雲の逮捕を検非違使に命じ、翌日には座主職を解任、所領を没官すると伊豆国へ配流した。


 これは、西光が流罪になる前に強訴を企んだのは明雲であり、前回の嘉応の強訴も明雲が計画したことだという密告が入ってきた。


 こうして流罪となった明雲の身柄は伊豆の知行国主であった源頼政の兵に護衛されて京都を出発するも、なんと比叡山の大衆二千人が駆け付け、明雲を奪回して比叡山に保護した。


 これに激昂した後白河法皇は平重盛・宗盛に比叡山の門前町であった坂本を封鎖して、延暦寺を攻撃するように命令した。


 つまり、彼らに比叡山を焼き討ちするように命じたのである。


 比叡山は園城寺と違い、三回しか焼き討ちされた記録がない。


 一回目は万人恐怖と恐れられた室町幕府六代目将軍である足利義教。


 二回目は半将軍にして、将軍足利義稙を追放した細川政元。


 そして三回目は御存じ第六天魔王織田信長である。


 もし、ここで比叡山への攻撃を行ったのであれば、歴史は変わっていたのであろうが、この決断を下すにはまだ時代が早すぎたと言える。


 重盛と宗盛は、すでに福原にて隠居していた父清盛の判断を仰ぐことにした。


 事態を知った清盛は慌てて京へ駆けつけ、後白河法皇と会見し、比叡山攻撃を中止するように説得した。


 だが、後白河は聞く耳を持たず、押し切ろうとしたのである。


 ところが事態は一変する。


 平清盛の元に多田行綱が訪れ、西光たちが平家打倒の謀議を行っていたと密告したという。これに激怒した清盛は叡山攻撃を中止し、逆に陰謀の首謀者であった西光と成親を捕縛してしまったのである。


 というのが、平家物語で語られる鹿ケ谷の陰謀なのだが、この事件本当にあったのか極めて疑わしい。


 というのも、史実では謀議を知った清盛は成親を呼び出したのだが、彼は全く警戒することもなく清盛の元にホイホイやってきたのである。


 事件の首謀者であるならば、簡単に出頭するのもおかしな話であり、また、最終的にこの陰謀が暴露されたのは清盛が西光を拷問にかけて無理やり自白させたことにある。


 そして、西光は処刑され、藤原成親も備前に流罪となるが、その道中で崖から突き落とされ、殺害されてしまった。


 鹿ケ谷の陰謀では俊寛・基仲・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼といった後白河法皇の近臣たちが一網打尽にされているのだが、彼らはあくまで後白河法皇の許可を得て処罰はしたが、命を奪っていない。


 これに関しては呉座勇一先生は西光と成親を陰謀の大罪人とし、比叡山攻撃を中止させ、同時に反平家派を一掃させるためのでっち上げと指摘している。


 鹿ケ谷の陰謀は平家物語だけにある記録であり、一応、慈円(九条兼実の弟)の愚管抄にも記載はあるが慈円はもともと天台座主だった。


 いわば、平清盛に助けられた記録をクソ真面目に書けるわけもなく、結果として陰謀があったことを書き記してしまった可能性を呉座先生は指摘している。


 そもそも、比叡山攻撃は言ってしまえば後白河法皇とその近臣たちの不始末による後始末と八つ当たりからきている。


 そして、その不始末を平家がやらされるのは、言ってしまえば防護服もないままに放射性廃棄物を処理させるような行為に近い。


 比叡山は確かに無茶苦茶ではあるが、それでも国家鎮護を担う大寺院である。それを攻撃するのは、仏敵になれと言われるようなものであり、平家一門がその呪いを受ける。


 それに、比叡山と平家の関係は決して悪くはなかった。また、比叡山を攻撃しても得をするのは後白河法皇とその近臣たちであり、平家だけが一方的に損をするのである。


 故に、清盛は鹿ケ谷の陰謀をでっちあげることによって、延暦寺攻撃を中止させ、同時に全ての責任を西光と成親に押し付けるという落としどころを作ったのであった。


 だが、この結果後白河法皇と清盛は険悪な関係になるのだが、その責任はむしろ後白河法皇にある。


 前述したが、比叡山の強訴の原因は後白河法皇とその近臣たちの失態からきている。


 そして、今回比叡山が強硬手段を取ったのは、後白河法皇が嘉応の強訴で一度飲んだ要求を反故にした挙句、それをすべてひっくり返してなかったことにした為である。


 いわば、嘉応の強訴の軽率な行動が、ここまでの事態を悪化させた原因であった。


 だがこの事件は後白河法皇にとっても、平清盛にとっても大きな禍根を残すことになる。


 それは、二人のパイプ役であった清盛の嫡男重盛が、白山事件で家人が矢を神輿に当てる失態を犯したのに加え、妻の兄が配流されて助命を求めたにも関わらず殺害されたことで面目を失ってしまった。


 失意と心労が戦った結果、重盛は1179年9月2日に病死する。それから二か月後、平清盛は後白河法皇に対して完全に見切りをつけ、クーデターを実行し彼を幽閉した。


 のちに言う治承三年の政変が始まったのである。

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