第14話 代官屋敷の客人 その5 虐殺

屋外に面したガラスの壁は文字通り粉々に吹っ飛んだ。

誰しもが顔を背ける中、黒い巨大な影が飛び込んでくる。

影は辺りを覆ったと認識する暇もなく獰猛な咆哮を上げ、同時に叫び声と衝撃音が響き渡る。

影の正体を見極める余裕もないうちに、その影は部屋から去る。

そこに残されたのは悲鳴と血飛沫、それに散乱した肉片。

辺りに血まみれの死骸や人間が転がっていた。


間違いなく、広間に吊された巨大な獣の生ける姿がそこにあった。


いや、そんなことを確認する間もなく、次の瞬間には影が一旦外に退く。


目を覆うような惨状に恐怖の叫びが沸き起こる。

その声に促されるように、まだ身体を動かせる者は誰しもが我先にと玄関広間へと駆け出す。

誰もが人のことを忘れ、夢中で逃げ出す以外は考えられない。


それでも代官はその人混みに紛れながら「衛兵!衛兵!」と叫ぶ。


十人ほどの衛兵が食堂から出ようとする人々を押し戻しながら入ってきた。


「また襲って来るかも知れん。来たら、仕留めろ。命令だ」と代官は命じながら食堂の出口を後にしようとする。

それを見て、動揺している客人達も一斉に彼を追った。


だがその時、部屋の明かりに照らされた影が、ガラス越しに外で動くのが映る。


悲鳴を上げながら人の波が出口に殺到する。


「衛兵!抑えろ」と代官は叫びながら人の波と共に玄関ホールへと姿を消す。


その時には既に黒い怪物が食堂の中にいた。

命令に忠実に立ち向かった衛兵はあっという間に身体を切り裂かれ、血しぶきが舞い、肉片へと姿を変える。


オーガスタとアーキンは慌てふためく客人と共に玄関ホールに逃れ出ていた。


「アーキン、武器を取ってこい」とオーガスタは隣にいた大男に囁く。


オーガスタの命令にアーキンは嬉しそうだった。

彼は何よりも丸腰でいるのを嫌がる男なのだ。

全身凶器のような危険な男だったが、過信とは無縁であった。


怪物は昼間見たものよりも一回り以上大きかったが、恐ろしく俊敏であった。

衛兵が勇敢にも剣を振るおうとする中を、その剣先に晒されるよりも早く接近し、鋭い牙や爪を使って、信じられない力で切り裂いてしまうのだ。


何の手も打てないうちに衛兵はみるみる人数が減っていく。


「扉を閉めろ!」と、代官が叫ぶ。

その声に玄関ホールにいる者達が挙って手を出して、大扉を閉めようとする。


戸が閉まり出すのを見て、衛兵の一人が扉に駆け込もうとした瞬間に黒い顎に身体ごと持ち去られ、その顎が一振りされると、砕け裂かれた肉体が四散する。


その凄まじい光景には目もくれずに、大広間に逃げおおせた人間が扉を閉ざす。

食堂に取り残された衛兵達にあるのは絶望と恐怖のみ。


既に食堂の外では「閂をしろ!」「家具を持ってこい」と大騒ぎだ。


次々と扉を開かないようにする重たい家具類が積み上げられていく。

二度ほど大きな衝撃がその扉に走ったが、頑丈な扉はそれに耐えていた。


玄関側の扉も同様に荷物が積み上げられ塞がれていた。


必要以上に扉が頑丈な作りであったことに代官も客人も感謝しながらも、これからどうなるのかと震え、呆然としてしまう。


代官は一息つきながら額の汗を拭った。


そこで彼はハタと気づいたように、私邸へと続く渡り廊下を閉ざす扉に見入った。


オーガスタはそんな騒ぎを抜け出して、大階段を昇ると、自室へ向かっていた。

彼には怪物がこの次に何をするのかは興味の範疇にない。

無事に館を抜け出してカムワツレ王国へ向かう最善の手段を考えるのみである。


大広間には今もアーキンが捕らえた獣の毛皮が飾られているが、客達の目にはもはや不気味な装飾でしかなかった。


「この怪物と同種ですな・・・・・」と広間の中空に掲げられたままの毛皮を見上げながら言う者がいた。


「いや、これよりも一回り以上大きい・・・・・」


「仲間の仇に来たとか」


「親子かつがいかも」


「仇と言うよりは復讐ですかな」


実際にはそんな話に興じている者よりも、あっという間に起こった惨劇の衝撃に放心している人達の方が多かった。


すぐ隣りにいた人間が次の瞬間には肉体も魂も切り裂かれたのだ。


同伴者や、夫・妻を失った者も多い。


それでも、復讐という言葉の響きに何人かがアーキンを探すように辺りを見回す様子が窺えた。

それを無視してオーガスタは広間の吹き抜けを取り囲む廊下を静かに進み、そっと自室に入った。


部屋は予想に反して真っ暗であった。

月明かりに目が慣れてくると、部屋の中では夜会服を脱ぎ捨て臨戦態勢を整えたアーキンが荷造りも終えてじっと待っていた。


「なぜ、明かりを点けない」


「しっ」とアーキンがオーガスタを制した。


「下は終わったのですね」とアーキンが囁き声で言った。


「あぁ、生き残った者で食堂の大扉を閉じたのだ。食堂の中にいた者は全滅だろう」


アーキンは窓の外を指し示す。


「つい今し方、窓の外をあの怪物、悠然と歩いていやがった。怪物が来る前に急いで明かりを消したからいいものの、少ししたらどこかの部屋に入り込んだ音が聞こえてきた」


と言った瞬間、窓からの月明かりを遮る大きな影が過ぎっていった。


オーガスタはそっと窓に近寄ると、屋根の上を音もなく歩き去る怪物の後ろ姿がチラリと見えた。

あの巨体にしてなんと静かに動くのか、とオーガスタは驚く。

容易ならざる邪魔物だ、と心の中で毒突く。


オーガスタは部屋の中央で待機するアーキンを振り返る。


「ここから外に出て行く訳にもいかないな」


「ここにいるよりも、広間にいる方が安全かも知れないぜ」


オーガスタはアーキンの返事を吟味するように考え込む風であったが、すぐに答えた。


「だが、あそこには奴の怒りの原因がある。あいつはあそこに入りたがっている。

と言って、窓から抜け出しておさらばするのは今の状況では危険だな」


オーガスタには珍しく迷ったようだが、それでも断を下す。


彼も夜会服を脱いで武装すると、その腰に長剣を吊るした。

このままアスカ王国の宝剣を持ち出して屋敷から脱出するのは一旦諦めることにしたのだ。


「よし、広間に戻るか」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


オーガスタが廊下に出ると、廊下の少し離れたところで一人の男が身を這いつくばるようにして別の部屋から出てきたところだった。


オーガスタが駆け寄ると、男はペドロだった。

代官の護衛官である。


「どうした」とオーガスタが声を掛けると、ペドロは明らかに強い衝撃を受けた顔を向けてきた。

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