第9話 山賊と来賓と その5 クルツ邸の喧噪

そのまま、クルツ氏は我を忘れたかのように広げられた毛皮に見入っていたが、急に我に帰ったのか、バネ仕掛けの人形のように跳びはねるや慌てて家人を呼ぼうとする。


「おい誰か、ゴッドフリーの母親を呼んで来てくれ!彼女なら昔、怪物を見たと言っていたな」


だが家人が応えるよりも、既に集まり始めていた野次馬が次々に言い合いだす。


「へぇ、あの婆様、まだ達者だったか」


「達者も達者!まだ頭も足腰もしっかりしてやがる。

若かった頃には、よく森を通ってアスカ王国へ出かける物好きだったそうだ」


「怪物を見たというのもその道中と聞いたぞ。あれを見て以来、家に引き籠もるようになって出歩かなくなったとかって聞いてるぞ」


野次馬同士のやり取りは家人が出てくるのを待つまでもなかった。


クルツ氏に同意した誰かがゴッドフリー夫人への連絡を買って出る。


「呼んで来よう。もし足腰が弱っていても連れて来よう。数少ない生き証人に、この毛皮が怪物の正体なのか、見てもらおう」


言い終わらないうちに、何人かの野次馬がゴッドフリー邸に小走りで向かって行った。


「おいおい、俺たちはこれから代官屋敷に向かうんだぞ」と、その様子を見て言いかけるオーガスタをアーキンが押しとどめる。


「オーガスタ、もう急ぐ旅じゃないだろ」


アーキンからこんな風に意見を言われたのも初めてだったので、オーガスタは自分の耳を疑った。


これほど珍しいことが事実なのがオーガスタには信じられない。

アーキンの珍しい意見表明に、オーガスタは自分の予定を諦めた。

アーキンの好きなようにさせよう、と。


さて一方、ゴッドフリーの母親を呼びに出かけた者は道中でも、クルツ邸の前でお披露目されている信じられない光景を合う人ごとに語らずにはいられない。


おかげで出かけてくるのを渋る老婆が屋敷に着く頃には、怪物の噂は村中に広まっていた。

ゴッドフリーの母親に付き従う者の数も膨れ上がり、クルツ邸の玄関には到着する頃には噂を耳にして真っ直ぐクルツ邸に来た者と、ゴッドフリーの母に付いてきた者とが併さり、クルツ邸周辺は大変な人混みになってしまった。


そうなれば巡察隊も何事かと出向いて来る。

指揮を執るのはホスキンである。


誰もがいろいろなこと口々に語らいながらクルツ邸に向かってきたのだった。

そんなカッラもクルツ邸玄関前に広げられた毛皮を目にすると、一様に黙り込む。

「言い伝えは本当だったのだ」

毎年のように行方不明になる者達、見つからなくなる家畜・・・・・・全ての原因がこの毛皮の元の持ち主なのか・・・・・・・?

全てが決着したのか?

それぞれの思いを胸に抱きながら口を閉ざす。


毛皮は様々な無責任な言辞よりも遥かに雄弁だった。

かつて見たことのない巨大な姿、真っ黒な不気味さ・・・・全てにが見る者を圧倒する。


ゴッドフリーの母が道を空けてもらい、毛皮の前に立つと悲鳴を上げた。


「確かに・・・・確かに・・・・・・私が見たのはこれだ」


その老婆の声に驚きの喚声が上がり、どよめきが拡がる。

抑え込まれていた感情が爆発し、一気に誰もが声を上げる。

老婆は放心したように周囲を見渡し、クルツ氏の方へ何かを語ろうとするが、もう聞こえない。

大騒ぎの中をもみくちゃにされながら、老婆はクルツ氏に近づこうとするが、もみくちゃにされてしまう。


怪物の毛皮を前にして呆然としていたホスキンは務めを思い出し、部下に騒ぎを静めるように命ずるが、その声もかき消される。

ホスキンが目にしたのは、興奮の中で義務を忘れ去っている部下の姿であった。


ホスキンは人混みを掻き分け、何人もの男や女を乱暴に押しのけ――丁寧にしていたのでは何も思うようにはいかない程、誰もが喧噪の中で異常な興奮状態だったのだ――何とかゴッドフリーの母親が押しつぶされる前に、そのそばに近づく。


彼女はよろめいて、今にも押しつぶされ、踏みつけられそうになっていた。

間一髪で彼女を抱き上げると、ホスキンが彼女の耳元で怒鳴る。


「とにかく、ここを離れましょう!」


老婆は何かを語ろうとするが、騒音の中では聞き取ることは出来ない。

ホスキンは半ば強引に彼女を抱きかかえるようにして人混みを抜け出した。


「私は、・・・・・私は・・・・・」

喘ぐ彼女をホスキンは押しとどめる。


「婆さん、家まで送ってやるから、話はそこで私が聞いてやろう」


クルツ邸の前の興奮の渦は続いていた。

なにしろ長年に渡り語り続けられながら、その正体をほとんどの者は見たことがない怪物の証が、目の前にあるのだから。


それを倒したという豪傑の存在は、その場に居合わせた誰にも畏敬の念さえも与えていた。


「どんな具合に倒したのか、教えてくれよ」という村人の声にアーキンはたどたどしくではあったが、先ほどの格闘の様子を語って聞かせようとした。


大騒ぎの村人達であったが、アーキンが口を開いた瞬間だけは息を呑むように静まり返る。


その中をアーキンがポツポツとだが、話す。


元々が雄弁な男ではない。

そうしたことは長年、オーガスタの役割だったからだ。


だが、そんな訥々とした語り口が、この場では良かった。

言葉が途切れる度に溜め息が漏れ、簡単の言葉が口を突く。


一同は話を聞くほどに感心するばかり。

アーキンの怪力ぶりに驚きの声が上がりもしたが、彼の人並み外れた体格に備わる太い腕に厚い胸板を見れば、それにも納得がいくのだった。


少し離れたところでは、オーガスタがこの光景をまったく違う気持ちで眺めていた。

長年連れ添った相棒の初めて見せる面は、これからのアーキンの扱い方を考え直させるものだった。

二人で悪の道に入ってから何年も経っていたが、アーキンは自分の手柄話をするような場面に遭遇するのは初めてだった。

自慢やそうした類いの吹聴を嫌がる男だった。

つい先ほどまでだったら、こんな状況を予言されても信じなかっただろう。


アーキンとの接し方を変えるべきなのだろうか?


それまでオーガスタはアーキンには何の気も遣わずに接してきた。

オーガスタが計画を練り、見込みのある作戦を立てれば、成功はアーキンにとって当たり前だったのだ。

オーガスタが自分の計画を説明し、アーキンは実務的な質問をする。

それだけで済んできた。

結果について誉めたり、評価をする必要はなかった。


考えを誉めたり、結果に対しての褒美を渡したりすることもなかった。


それで何も問題にならなかった。


アーキンは何の文句や不平を言うこともなく、ある意味では嬉々としてオーガスタに従っていた。


少なくともオーガスタはそう信じてきた。


この仕事が片付いたらジックリ考えてみるべき課題だろうか、と自分に問い掛けてみるのだが、「変える必要はない」という結論に達しそうな予感もあった。


アーキンが話し終わった後も、クルツ邸には続々と噂を聞きつけた村人が集まってきていた。

毛皮ばかりでなく、それを倒した二人もまた衆目を集める存在となっていた。


実際に倒したのはアーキンであったが、そのアーキンもさすがに手柄話を繰り返そうとはしなかった。

それに、どちらが退治したかなんていうことは村人にはどうでも良かった。


見るからに強そうな豪傑の二人が、森の怪物を退治して毛皮を剥いで運んできたというだけで、彼らを夢中にさせるには十分だった。


近隣諸国に大悪党として名を馳せる二人としては、衆目を集めるというのは奇妙な状況だった。

だが、オーガスタはここでそれを気にする必要はあるまい、と覚悟を決めていた。

なるようにしかならないと諦めたのである。


そうこうするうちにクルツ邸の前に豪勢な馬車が止まった。

何日も前にも同じ馬車がクルツ邸を訪れていた。

あれから一ヶ月近くも経つであろうか。

噂を聞いた代官が自ら出かけてきたのだ。


「これはこれは代官様」


馬車の扉が開くと恭しくクルツ氏が迎え出た。


「伝説の怪物を退治した豪傑が貴殿の家に客人として訪問していると聞き及んだのでな」と、ゼレベンゾ代官は村人が集まっているのをやや面白くなさそうに眺め回し、仰々しい素振りで馬車を降りてきた。


馬車を降り立った代官は、公務の時に着る飾りっ気のない服装を着ていたが、それだけではなく、その上からは派手な赤い色で襟の大きく立った上着を羽織っていた。


おかげで人混みの中でも代官の姿は人目を引いた。

確かに目立っているのは衣装の方で、小柄な代官は派手な衣装の中にぶら下がっている小男のようにも見えたが。


それでもゼレベンゾ代官が進み出ると、毛皮の前に群がっていた人だかりが左右に開いた。


その開いた隙間を代官は進む。

その先には真っ黒で巨大な毛皮が広げられている。


その巨大な毛皮を目にすると代官は恐怖を覚えずにはいられない。


伝説でしか聞いてこなかった怪物の姿を、実際に自分の目で確かめると、代官であっても全身から感嘆のため息が漏れた。


それから近くにいるガッチリした体つきの大男に尋ねた。


「これを討ち果たしたのは、そなたか」と代官は眩しいものでも見るかのように目を細めた。

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