第8話 怪物 その2 格闘
これほど長く、その正体を察知させぬまま二人を尾けてくる相手は記憶になかった。
その異様さは二人に緊張を強いて来る。
傍目には二人とも普段と変わらぬ様子のまま周囲に注意を張り巡らし、以前と変わらぬ速度で歩みを続けていた。
一行の他の者達は、そんな二人の緊張には気づいてもいない。
だが、静寂は前触れなく破られるもの。
変化は突然に訪れる。
その瞬間、何ものかの息づかいをオーガスタは感じ取ったような気がした。
彼が剣の柄に手を掛けようとした途端、森から黒い疾風が少し前に出ていたアーキンに襲いかかった。
ひとたまりもなくアーキンは馬から転げ落ち、それを見たオーガスタの馬は驚きに棒立ちになった。
「どうどう」とオーガスタが必死に馬をなだめようとするが、それどころではない。
恐怖に囚われた馬が言うことを聞くはずもなかった。
荷車を引く馬も暴れだし、御者がそれを抑えようとしたのも束の間、黒い影に腰を抜かし、暴れ馬に引きずられていく。
荷物を運んでいた従者達も、それらを放り出して道脇の藪に飛び込もうとしていた。
オーガスタが必死に馬を制御しようとしながら相棒の方を見ると、アーキンは馬よりも大きな黒い獣に襲いかかられ、街道脇の荒れ地をごろごろと転がっていた。
並の男なら苦もなく押さえ込まれてしまっていただろうが、怪力の持ち主であるアーキンは微妙に相手の力の方向をずらしながら、その鋭い牙を避けつつ組み合っていた。
それでも黒い猛獣が足を踏ん張ると、アーキンの力を以てしても乗りかかられ原野に押さえ込まれた格好になってしまった。
その巨体の重さと、凄まじい力に身動きも叶わぬほどの圧力がかかっていたが、そんな中をアーキンは必死で腕を伸ばし、怪物の身体を掴もうとしているのが見えた。
だが、怪物は体躯も大きく、その伸ばした腕は虚しく宙を彷徨うばかり。
オーガスタはその凄まじい巨大な姿に、神話の中の怪物という言葉を思い浮かべた。
途方もない現実――彼は生まれて初めてどうしようもない圧倒的な恐怖を感じた。
アーキンを上から見下ろす怪物は、その大きな顎からよだれを垂らさんばかりに喉を鳴らした。
それでもアーキンは諦めていなかった。
一方のオーガスタは、跳ね回る馬から飛び降りると、「アーキン!」と叫びながら駆け寄る。
彼は走りながら剣の鞘を払った。
怪物がアーキンの顔面に囓り付こうと延ばした首を何度か避けながら、アーキンはついに懐に隠した短剣を抜き出し、それをもう一度相手が噛みつこうと頭が近づいてきた一瞬を捉えて、その広げた口の中に深々と突っ込んだ。
短剣は舌と下あごを貫き通した。
怪物は口の中に突っ込まれた腕にかぶりつこうとしたが、短剣の柄にそれを阻まれ、その隙にアーキンは腕を抜いた。
もだえ苦しむ怪物がかけてくる圧力が弱まった隙を突いて、素早く体勢を変えて回り込み、その背に馬乗りの格好で乗りかかる。
アーキンは自分の長剣を抜くや、怪物の首筋に人間離れした怪力で骨も砕けよと突き立てた。文
字通り骨の砕ける音がして、剣が深々と突き立てられるのと「ギャン」と怪物が断末魔の声を上げるのとが同時だった。
もう、それは怪物ではなく、巨大な猛獣でしかなかった。
猛獣はその巨躯を痙攣したように震わせると、地響きと共に原野に倒れ込んだ。
オーガスタが駆け寄った時には、アーキンは激しく痙攣する猛獣の背中から立ち上がるところだった。
「アーキン、大丈夫か」
「あぁ、この通りだ」
驚いたことにアーキンは大した怪我もしていなかった。
所々に浅いひっかき傷や擦り傷があるだけだった。
こんな凶暴な相手と格闘をした後とは思えない程だった。
「今回ばかりは危ないと思ったぜ」とオーガスタはため息をついた。
「あぁ、運が良かった」とアーキンも同意を示した。
最早、巨大な肉の塊と化しつつある黒い怪物を眺めながら「何ものだ」とアーキンは呟いた。
オーガスタは考え深げに巨大な獣を眺めながら答えた。
「オレが見たところ、噂に聞く大山猫の一種じゃないかと思う。だが、こんなに大きな獣だとは聞いていないな。毛もこんなに長くて真っ黒で、かつて見たことのある山猫の毛皮とも全然様子が違っている。
もしかすると、文字通りの怪物かも知れないな。
しかし、こうやって倒すことが出来た以上は、怪物ではなく猛獣の類いと言って良いのか・・・・・・・・・」
そう答えながら突然としてオーガスタは思い当たる。
「そうか、これが噂に聞く『イズノの伝説の怪物』か」
人伝に聞いた噂を思い出したのだ。
だが、それは伝説を教えてくれるだけの話で、情報としてはそれ以上でも以下でもなかった。
それにオーガスタ自身は与太話と受け止め、少しも信じていなかったのだ。
「こんな場所にこんな猛獣が住みつけば、怪物と言われるようになるのも仕方あるまい」
それを聞くとアーキンは猛獣の口の中に突き立てた短剣を抜き取った。
「どうする気だ」
「時間はあるのだろう。こいつの毛皮を剥いで、村人共に見せてやる」
オーガスタは呆れたように相棒の顔を覗き込んだ。
「物好きな・・・・・・まぁ、アーキンの手柄だ。好きなようにしろ」
アーキンは器用な手つきで短剣を操り、漆黒を思わせる色合いで、油で塗り固められたようにゴワゴワとした長い毛を生やす獣の固い皮と、それの持ち主の肉体との間に剣を走らせ始めた。
大型の獣であったが、引き裂くようにしてアーキンが剣を動かしていくと、みるみるうちに全身の毛皮が剥がされていく。
その間にオーガスタは藪に逃げ込んだ従者達に出てくるように怒鳴りつけ、さらに走り去っていった馬たちを探しに行くように命じた。
馬達は離れた場所で怯えたように震えていたが、見知った人間達が近づくと警戒を緩めて戻ってきた。
オーガスタは早速自分の馬の元に行き、特に大事な荷物が無事なのを確かめた。
それから従者にお湯を沸かすように命じた。
「ここで野営ですか」男はあんな怪物が出て来た場所は真っ平御免というように、言った。
「もうイズノ村はすぐそこだ。数刻も進めば辿り着けるであろう。今夜は野宿ではない。
怪物との格闘で汚れてしまったから、身なりを整え直さねくてはならないだろう。
イズノの村は初めてだから、綺麗にして訪れたいのだ」
いくつかのことを命じ終えてからオーガスタがアーキンの作業していた場所に向かうと、彼は既に皮を畳んで丸めて運べるように準備していた。
「そいつは大きくて重過ぎる」とオーガスタは咎めるようにその毛皮に視線を向けた。
折りたたんでも大きな皮の塊は、脂で汚れているし、綺麗な荷車に乗せる場所なんかない。
だが、アーキンは首を振った。
「こいつをオレの馬に乗せて、オレが手綱を取って歩く」
こんなにオーガスタに対して自分の意見を通そうとするアーキンは珍しかった。
それでもオーガスタは了解して見せた。
それだけこの獣が手強い相手だったのだろう。
アーキンにとってはこいつを仕留めたことが、今までにないくらい誇らしい手柄なのだろう、と。
過去に遭遇したいかなる手練れよりも、この怪物の方が厳しい敵だったのだ。
「確かに、お前でなければ仕留めるのは無理だったろうな。オレが襲われていたら、アーキンに助けられる前に、致命傷を負っていたか、あの世行きだったろう。
せっかく獲物をアスカ王国から運んできたのも無駄になるところだ」
アーキンは珍しいオーガスタの賞賛に、これまた珍しい笑顔を見せた。
ずっと一緒にいるオーガスタでさえ、そんな彼の顔を見るのは年に何回もなかった。
彼の笑顔にオーガスタは愉快に続けた「こいつがお前を襲ったのは、オレの幸運でこいつの不運だな。自分より強い相手を見抜けなかったのだから、未熟だったということだな」
オーガスタの言葉にアーキンは笑ったが、オーガスタの方は発したばかりの自分の言葉で嫌な気分になった。
野生動物は本能的に相手の強さを見抜く・・・・・・・成熟した狩人であるほど、正確に相手の実力を悟るのだ。
そうだ、こいつは未熟な奴で、本当の「イズノの怪物」はまだ森の中から、それこそ全く気取られることもなく、こっちを見つめているのかも知れない。
考えたくないことだった。
急に、彼はアーキンに皮を剥ぐことを許したのに後悔し始めた。
こんなことをしている場合では無かったかも知れない。
その時間が幸運を生かす機会を逸することになる場合だってある。
森の中をよくよく眺め回してみたが、何の気配も感じられなかった。
そのことがいっそうオーガスタの気分を重苦しくしていった。
ほんの少し先のことも人間には分からない・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一刻ほどが過ぎて、ようやく綺麗さっぱりと洒落者の姿に戻った二人は出発を命じた。
隊列は、怪物の出現前と同じ状態に戻り、二人は村に入る時のために用意した訪問着に着替えていた。
あの格闘を忍ばせるものは服装や装備には見られなかった。
ただし、アーキンが手綱を取る馬の背には折りたたまれた毛皮が載せられていた。
紛う事なき怪物との遭遇の証だ。
先を行くのは荷を載せた馬を引くアーキンで、その後を騎乗のオーガスタは進んでいた。
更にその後を荷車が続き、その後ろには荷を背負った従者達。
オーガスタは嫌な予感と不安で渋面を作り続けていた。
街道から東へ折れたイズノ村への道を進み出したところで、オーガスタの愁眉はようやく開かれた。
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