第26話

 「こんばんは?」


 音もなく背後にいた白髪の怪異に話しかけられ、瞬時にクロアから飛び退く幽鬼。

 いや、怪異として、本能的に飛び退いてしまった、というのが正しい。

 そう、彼は逃げてしまったのだ。


 そんな幽鬼に構うことなく、の近くに膝をついたラフォリア。

 ほぼ肉塊と言って良い彼の肉に頬をわずかに染めて、ついた血をチロチロ舐め取る。

 吸血行動。ラフォリアが最も嫌い、この世でたった1人からしか行なわないと決めた行為。


 幽鬼に背を向け、食事にありつくその様は隙だらけ。

 それでも彼は動かない――動けない。


 「ごちそうさま……」


 やがて立ち上がったラフォリアは妖艶に舌なめずり。

 クロアの血で唇に紅が塗られる。


 「眷属の教育に付き合ってくれて、ありがとう」


 いつの間に目の前にいた少女に幽鬼が驚く間もなく。


 「――さようなら?」


 彼の右足が股関節の辺りから後方に吹き飛び、黒いもやとなって消失する。

 ラフォリアが蹴り飛ばしたのだ。

 靴の有無でクロアに同行している事がばれないようにしたため、足は裸足のまま。


 『――ハ?』


 片足を失って体勢を崩し、地面を這うような姿勢になった幽鬼。

 自身の身に起きたことが理解できず、呆けた顔で月と少女を見上げる形になる。

 遅れること少し。肉体を得たからこその痛みが足から喉へと駆けあがり――


 『ギィァ――』


 鬼の絶叫が響く、寸前。



 ぐしゃり。


 「静かに、ね?」


 ラフォリアが喉を踏みつぶす。

 クロアも言っていたように、ラフォリアは人目につくリスクを小さくする必要があった。


 呪いのおかげで、現実に干渉できるまでの力を得た名もなき幽鬼。

 人間が発する負のエネルギーをなるべく多く集め、より長く存在し、より強力になろうとする彼のその行動は、怪異としての本能に近いもの。

 弥生を苦しめ、恐怖させていたのも、クロアを惨殺したのも、快楽を満たすとともに恐怖を得るためだった。


 しかし、今。

 幽鬼は存在としてより上位の鬼――吸血鬼に恐怖させられている。


 そうして、抵抗もせず、怯えるだけ幽鬼を無感情に見下ろしたラフォリアはその細い腕で。

 眷属をいたぶった幽鬼の両腕を。

 次に、残ったもう片方の足を順にもぎ取る。

 醜く膨れた胴体を小さな足で踏み砕き、肩を潰して。

 やがて頭だけになった幽鬼の頭を持ち上げる。


 死にたくない、消えたくないと目で訴えるその顔は、つい先ほど、彼が笑いながら首を絞めていた少女が浮かべていたものとよく似ていた。


 けれども、対照的に。

 その様を見たラフォリアが眠そうな眼を、感情の見えないその顔を、崩すことは無い。


 「……バイバイ」


 言って、頭を足元に転がす。


 ヤ、ヤメロッ――!


 そんな幽鬼の心の叫びなど届くはずもなく。


 まるで散歩でもするように踏み出された小さな素足が頭部に触れる、たったそれだけで。

 黒い靄を夜風に乗せて、哀れな幽鬼はあっけなく消滅した。

 最期のその時まで、悲鳴を上げることすら許されないまま。




 牙で指先に傷をつけ、十分な血を与えたクロアが原型に戻るまでの、少しの時間。

 手持ち無沙汰だったラフォリアは、弥生芽衣やよいめいの様子を見に行く。

 依頼については仔細、クロアから聞いているため、体を張った彼がきちんと報酬を受け取ることが出来そうか、確認したかったのだ。


 「……大丈夫?」


 夜闇に怪しく光る深紅の瞳を向けて問われた弥生。

コクコクと頷いて、声を絞り出す。


 「あ、ありがとうございます」


 腰を抜かしながら言った彼女を一瞥するラフォリア。


 悪い感情は、ある。

 でも、それはきっと、現状と私への恐怖……?

 呪いの気配も無いし、さっさと帰ってあげないと……。


 弥生に背を向けた彼女の、気まぐれ。

 数百年生きた彼女から若輩へ向けた、人生の教訓。


 「……それは、多分、私に言うことじゃない」

 「え……?」

 「言おうとしてた『ごめんなさい』も。今言った『ありがとう』も。相手も、自分も。生きているうちに、言うべき人に、ちゃんと言う」


 ベランダの壁に飛び乗った少女。

吹き抜けた心地よい風に白い髪を泳がせて、月を背にした彼女は。


「分かった?」


 ほんの微かに笑って見せた。






 土曜日。

 いつものように1人、誰よりも早く教室に着いた琴無望ことなしのぞむは机に伏して不貞腐れる。


 今朝。目覚めるとそこは自宅で、就寝前のラフォリアが風呂に入って鼻歌を歌っていた。

 幽鬼の姿もなく、服も新しいものに着替えさせられていた。


 スマホのメッセージアプリを見れば、いつの間にか依頼が終わった旨の文面が送られている。

 恐らく誰かが、幽鬼を倒し、事情を知るその誰かは琴無のスマホを使ってメッセージを送って、丁寧に身柄を送り届けてくれたということ。


 そんなことが出来て、実際にする人物など、琴無が知る限り1人しかいなかった。


 主人に良いところを全て持っていかれたようで何とも言えない気持ち。

 しかし、彼女が居なければ殺されていたため、助けてくれたことへの感謝。

またしても中途半端な形になったため、お金を貰うのかという葛藤、などなど。


 「はぁぁぁ……」


 それら全てがないまぜになった深いため息がこぼれる。


 「おはよ、琴無くん! 依頼のこと話したくて、早めに来ちゃった! 『依頼、終わった』だけじゃよくわからないし……」


 そう言って姿を見せたのは、緋能登夏鈴ひのとかりん。今日も朝から元気な様子。

 琴無はてっきりもう片方の人物が先に来ると思っていたが、当てが外れたようだ。

 あるいは。


 もしかして、ラフォリア、失敗した?


 最悪の事態を考える琴無になど構わず、いつものように単刀直入、真っ直ぐに、真っ先に、緋能登が琴無に聞く。


 「……で、クロアくんはちゃんと芽衣の事、守ってくれたよね?」

 「それが――」


 と、その時。ドサッと何かが落ちる音がした。続いて、


 「夏鈴ちゃん?」


 そんな声が聞こえる。

 教室の黒板側の入り口――琴無に詰め寄ろうとした緋能登の背後に当たる、その入り口に、弥生芽衣その人が立っていた。


 「芽衣……? 芽衣っ――」


 一瞬の困惑。

 のちに満面の笑みを浮かべて駆け寄ろうとした緋能登を、


 「ちょ、ちょっと待って!」


 弥生が手で制する。


 「……?」


 そうして立ち止まった緋能登に対して、弥生は大きく深呼吸したかと思うと、


 「ご、ごめんなさい!」


 それはもう深く頭を下げて、謝罪の言葉を口にした。

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