第24話
今朝からだ。
部屋の隅に、電柱の影に、下足室の柱に、運動場の木の影に、体育倉庫に。
教室、トイレ、机の中、中庭……日常生活、ありとあらゆるところに、黒い霧のようなものが見える。
声も聞こえる。
その身を焼かれたらしい子供の助けを呼ぶ声が。車の下敷きになった中学生の叫びが。飛び降りたものの即死できなかった高校生の恨みが。元恋人と無理心中させられた女性の嘆きが。ストーカーに殺された男性の問いかけが。
場所も、時間も、耳を塞いでも、一切関係ない。
四六時中、時間も場所も関係なく。
何かの視線に晒され、誰かの声が聞こえてくる。
どうにかなりそうだった。
駆けこんだ保健室で布団をかぶり、世界と自分とを隔てる。
それでも変わらず、声は脳内に響いている。
理由は、わかっていた。
丑の刻参りを見られたこと。
アイツの不幸と苦しみを。
アイツがどうすれば怖がるのか、苦しむのか、知っていた。
噂だって流した。アイツには付き合っている人が居ると。
あの人が、諦めてくれることを祈って。
あわよくば、勘違いしている誰かが、行動に移すことを狙って。
日に日に顔色が悪くなるアイツ。
流布した噂と呪いには確かに、効果があったのだろう。
それでもなお、アイツは笑っていた。
「先輩が早く諦めれてくれれば良かったのに……」
しばらくしてやってきた養護教諭の指示で、午後の授業を待たずに、私は家に帰ることになった。
住宅団地の一室。
気づけば私は、自宅リビングのソファで眠っていた。
1畳ほどの狭いベランダに続く窓から見える外は暗い。
ここ最近、ろくに眠れていない。
今朝は怨嗟の声のせいで一睡も出来なかった。
そのせいで家に帰るなり、気を失うように眠ってしまったのだろう。
私が高校生になる頃に母親に逃げられ、家族は父親だけ。
お金に余裕なんてなく、遠征にだって行けなくなって、陸上は辞めた。
――才能も、無かったから。
父は帰らないことが多くなり、ここ最近は週に1度帰れば良い方。
一体、どこでナニをしているのか。
そこでふと、私は気づく。
朝から耳鳴りのように聞こえていた声が、聞こえない。
それだけではない。
いつもは嫌でも聞こえてくるご近所さんの生活音だって聴こえない。
明かりを点けるのも忘れてベランダに出てみても、道路を走る車の走行音も、風の音一つ聞こえなかった。
あり得ないほどの、静けさ。
だからこそ、
『
背後。
私の名前を呼ぶ声がやけにはっきりと聞こえた。
それは、憎くて憎くて仕方ないアイツの声。
「
振り向けば、真っ暗なリビングに、真っ白なロング丈のワンピースを着た親友が立っていた。
『芽衣、どうして私なの?』
その問いかけに、ずきりと私の胸の奥が痛む。
『どうして私の事を、呪ったりしたの?』
続けて聞いてくる夏鈴ちゃんに、どう言い訳をしようか頭を巡らせる。
「……だ、だって、夏鈴ちゃんが、霧島先輩を――」
『振ったから、何? 芽衣が霧島先輩を好きだから、何?』
「何って……。私は霧島先輩がどれだけ苦しんだのか、夏鈴ちゃんにも教えようと思って――」
『違うよね?』
私を見つめる夏鈴ちゃんの目。全てを見透かされているようで、いつも怖くなる。
早まる心臓の音。浅くなる息。
『霧島先輩のため? 違うよね? 芽衣は、私が羨ましいの。陸上もできて、みんなに好かれる人気者の私が』
「ち、違うよ? 確かに夏鈴ちゃんのこと、すごいと思ってる。けど……。私は……」
言葉では否定しながらも、内心、否定しきれない自分がいる。
そんな私を見透かすように。
『違わないよ、芽衣。高校に入って髪も染めて、話し方も変えて。変わろうとしたけど、ダメだったよね? 前みたいに、卑怯で卑屈なまま。私を呪ったもう1つの理由も、あなた自身のため』
「私、自身……?」
『そう。芽衣は霧島先輩に、見て欲しかったの。私を諦めて、あなたを好きになる可能性を作ろうとした。だから、私を呪った。私の醜態を、先輩に見せようとしたんでしょ?』
もう言葉で否定することもできない。
私の言い訳など、顔も、頭も、性格も良い夏鈴ちゃんならすべて見抜いてしまう。
『全部、ぜーんぶ。芽衣の我がまま。私に醜く嫉妬した芽衣の、浅はかで、自分勝手な、ね』
糾弾は全て、的を得ていた。
それこそ、私の心を全部知っているようで――。
そこで私は、違和感に気付いた。
私はリビングの電気を点けていない。月明かりだって、ほとんどない。にもかかわらず、夏鈴ちゃんの姿が良く見える。
いや、そもそも。
どうやって夏鈴ちゃんは家の中に入ってきたのだろう?
『許せない。……許さない!』
叫びながら、ベランダにいる私にゆっくりと近づいて来る夏鈴ちゃん。
フローリングを踏みしめる足音さえも聞こえない。
顔を上下させることもなく、滑るように移動してくる。
本当に、夏鈴ちゃん?
身長は弥生と同じ150㎝ほど。全身は獄卒のようにボロボロの布に覆われている。
細い手足や首には筋が浮き、対照的に腹は異様に膨らんでいる。
水分を失った茶色い顔。後退した生え際からまばらに生える髪は白く長い。
鼻は潰れ、目を今にも飛び出そうなほど見開き、黄ばんだ白目と歯で笑う。
極めつけは、側頭部から生えた白い2本の角。それはまるで鬼のようで――
「あなた、誰?!」
夏鈴ちゃんじゃない!
これを、どうして夏鈴ちゃんだと思っていたの?!
逃げようにもここは狭いベランダ。
鬼が鋭い爪の生えた手を突き出したかと思うと――
気づけば私はベランダの壁を背に、首を絞められていた。
「ぁ、ぐぅ……」
空気を求めて、私の全身が暴れる。
必死に腕を引きはがそうとしても、びくともしない。
『死ネ、死ネ、死ネ、死ネ……』
狂笑を浮かべながら首を絞める鬼。
怖い、怖い!
嫌だ、死にたくない!
私もこんな風に、醜い化け物に見えていたのだろうか?
ほんの軽い気持ちで始めた呪い。
それはいつの間にか、取り返しのつかないところまで来てしまっていたようだ。
それでも。
親友に嫉妬して、裏切った私には相応しい最期かもしれない。
抵抗を止め、月の見えない夜空を見上げる。
「
本当に今更な、言葉にならない謝罪と後悔を残して、私は――。
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