第39話 現実逃避 ①

 好きな相手を見たとき、のどの渇きや空腹などを感じるときと同じように、腹側被蓋野という部位が活性化する。腹側被蓋野は、爬虫類脳ともいわれる原始的な脳の一部である。

 すなわち、恋が腹側被蓋野の活性化であるということは、恋とは感情ではなくいわば本能であり、好きな相手を見れば本能が枯渇するのはごく自然なことだということができるのだ。

 そして、恋をしているときに分泌される快楽物質はいわば麻薬だ。いうなれば、本能から麻薬に浸るような行為こそ恋である。すなわち、恋は理性的ではないのだ。

 だからこそ、テクノロジーが作る世界は、その恐怖をコントロールすることを選んだ。非合理的で非理性的な感情を捨てたのだ。





            ◇





「シークは友達か?」

「馬鹿いえ。ただの『頻繁に顔を会わせる人』だ」

「ミナやレオについてはどんな認識だ?」

「シークよりましなやつら」

「ふーん。ならアイリスは?」

「護衛対象」

「……シークに友情を感じたりはせんのか?」

「やめろ。気色の悪い」

「とは言ってもおまえがよくつるむのはシークだろう? なんか芽生えたりしないのか?」

「いい加減にしてくれ! つるむのではなく、付き纏われてるんだ!!」


 我慢の限界を超えたキドラが、バンっと机を叩いた。その脳内では、ストレスホルモンが大量に分泌されている。

 何を隠そう、たったいま、キドラは人間王による質問攻めを受けていたのだ。それもメンバーに対する心情についてだ。


「そんなに俺が疑わしいか?」

「当たり前だ。余は、人間というものを信じておらぬ。だから貴様を喚んだというのに、最近人間じみてきているではないか」

「はぁ……。だいたい、俺らは、不要な感情は意図的に操作可能だ。万一アイリスにあらぬ感情を抱いたとしても、無理矢理なかったことにできる」

「それを早よ言え。全く……無駄な時間だったではないか」

「…………」


 ようやく安心感を得られたのだろう。満足した様子の人間王は、さっさと帰れといわんばかりにキドラに手をヒラヒラと振る。それにキドラがさらに負の感情を感知しながら、人間王との謁見の場を後にした。



            ◇



 訓練を終え、キドラがジェルキドのところへ顔を出すと、研究所にはロキだけではなくアイリスもいた。

 アイリスは、脚立に乗って本棚に本を並べているところだった。かなり集中しているのか、いつもはキドラを見かけたら挨拶を寄越すはずのアイリスは、全くキドラには気づいていないようだった。


「何してるんです? あいつ」

「ああ。本の電子化の準備として、本の仕分けを頼んだんじゃ。なにせん、なにかやらせてくれ言うからのぅ」

「全く……せわしいやつだ」


 キドラが溜め息を吐いたときだった。

 ガッシャーンと音を立てて、本が床に落ちる音が響き渡った。


「わ! すみません! え! キドラさん? お疲れさまです! わぁっ!」


 たちまちバランスを崩したアイリスが脚立から落ちる前に、その体をキドラが支える。それにアイリスが申し訳なさそうな顔でお礼を言うが、キドラは内心あきれて仕方がなかった。


「全く世話の焼けるやつだ」

「うぅ。いつもありがとうございます」


 そう言ってアイリスがキドラに笑いかけたときだった。キドラの脳に未知の信号が走った。


「…………」

「キドラさん?」

「…………」

「……あの?」


 じっとキドラがアイリスを見つめる。そんなキドラをアイリスが不思議そうに見つめ返したときだった。


『ヒューヒュー! 春にゃ! ときめきにゃ!』


 ロキが楽しげにキドラとアイリスの回りを飛び回った。慌てて否定するアイリスの真っ赤な顔を見たとき、再びキドラの脳に刺激が走る。すかさず、キドラが必要な脳内処理を施した。


『ご主人! いまどんな感じですかにゃ?』

「なにがだ」

『アイリスに対して、なにか感じましたにゃ?』

「別に?」


 ロキの目には、それは心底どうでも良さそうなキドラの顔が映る。その視覚情報が示すのは、明らかに、キドラのアイリスに対する無関心だった。

 それはまるで、この世界に来たばかりのキドラに戻ったかのようだ。


『ご主人まさか……!』

「?」

『TP厳禁の感情操作をしたにゃ?』

「俺は今はTPじゃないだろ」


 あっさり言ってのけるキドラに、ロキが慌ててジェルキドに報告にいく。それにジェルキドも難しい顔をしてキドラに目線をやるが、当の本人は気にした様子もなく研究所を出ていったのだった。



            ◇



 それから、どことなくキドラは異様な雰囲気を放っていた。違和感は不明瞭なままだが、しかし、どこかがおかしいのだ。

 その日の訓練も、キドラはいつものように参加していた。だが、その日、キドラはいつもより遠慮がなかったのだ。


「いったぁぁぁ!」


 鬼ごっこの訓練にて、キドラから逃げ回っていたミナがバランスを崩して顔面から衝突した。ミナのミスは少なくはなく、そういうとき、たいていキドラは溜め息を吐いてミナが起き上がるのを待つのだ。

 だが、キドラはその日はきつくミナに声をかけた。


「おい。さっさと起きろ。時間の無駄だ」

「ちょっと待ってよ。いま起きるから」

「あと5日なんだぞ。決戦まで時間がない」

「まぁまぁ~無理ない程度でやろーよ」

「無理ない訓練? それはただの鬼ごっこだ。遊びだ」

「うっ。そーだけどー」

「キドラさん機嫌悪いっスか?」


 キドラの変化を感じ取ったのか、レオとシークが宥めに入る。だが、それすらキドラにとっては馬鹿らしく思えて仕方がなかった。


「はぁ。やる気がないなら降りろ」

「ちょちょちょ~キドラ~? 俺たち仲間!」

「シークさんに先越されるとは……ちっ。ま、思いやりは大事っスよ」

「え。 いまディスった?」


 シークがレオを追及すれば、レオはすかさずシークから目線をそらす。そして、キドラに同意を促すようにレオは視線を寄越した。


「それが強さにつながるのか?」


 だが、キドラの返事は冷たいーー。


「キドラ~どうしちゃったのー」

「シークさんストレスで自律神経崩れたっスか?」

「ん? なにそれ~」

「あんたたち、私を無視するんじゃないわよ!」


  ミナがそうキレたときだった。


「おい! キドラ!」

「キドラさん!」


 サラの慌てたような声と、アイリスの心配する声が響き渡った。


「え……」

「あれ~」

「まじっスか……」


 その視界を辿っていけば、そこには気絶したキドラの姿があった。

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