二つの世界線にある君と僕の愛情

成井露丸

🌌

 人生について語ろう。

 分岐点に立った時、何を基準に未来を選択すべきかという話だ。


「――理性を信じるか、第六感を信じるかってこと?」


 白い空間で肌色の君が蠢く。沈み込む十指をたわわな質感が弾く。

 僕は、よく分かったね、と唇を動かした。


「だって、慧、よくそう言ってた。そういう話好きだったし」


 そうだったかな。そうだったかもしれない。

 息を吸うと金木犀の匂いが鼻腔をくすぐる。

 その向こう側に艶めかしくも甘い香り。


「答えは出たの? 慧はその問いに答えを持っていなかったと思のだけど」


 君は白いサイドテーブルに立つワイングラスのステムを摘み、その縁に口を付けた。

 その唇が近づく。口移しのロゼはちょっとだけ君の味がした。

 額を寄せて触れ合わせる。君の体温を感じる。

 だから、きっと、僕は答えに辿り着いたんだよ?


「――じゃあ、聞かせてもらおうかしら? 慧に降った、その託宣オラクルを」


 そして僕らの物語は、過去へと跳躍する。

 君の前で。君と離れて。君と別れる前の、出会いの地点まで。


 *


 僕は有名大学に入学した。地元の親戚や友人にエリートだと言われた。

 だから僕は成功しなければならない。それが僕の人生だから。


 人生最後のモラトリアムとしての大学時代。

 親元から離れて始まった生活。

 そこには何もなかったけれど、何もかもがあった。


「――私、結城紗耶香。あなたは?」


 僕は、宮原慧。

 同じ学部。大学一回生のオリエンテーションで、君と出会った。

 可愛い女性だなと思った。嘘じゃない。単純に顔がタイプだった。

 スタイルだって良かった。会った瞬間、抱きたいと思った。

 高校で憧れのマドンナだった木村さんの記憶を、彼女は一瞬で塗りつぶした。

 すれ違った時に、いい匂いがした。


 *


 僕は君に惹かれた。


「――宮原くんは、私のことが好きなの?」


 真夏の灼熱の太陽に照らされる中、君が突然問いかけた。

 白い空を見上げながら、僕は、好きだよ、と言った。暑さに朦朧とした頭で。


「やっぱり? いつも私のことを、嫌らしい目で見てるよね? 宮原くん」


 悪戯っぽく笑う君に、激しい苛立ちと、狂しい劣情を覚えた。

 だから僕はその唇を奪った。君の舌はナマコみたいな味がした。

 僕は君を抱きしめて。君は僕の肩に頭を乗せた。


 その日の夜に、僕と紗耶香は初めて裸で、身体を重ね合わせた。

 それからの日々、僕ら何度も何度も、飽きることなくお互いを求め続けた。

 大学の授業に出るより頻繁に、僕と紗耶香はお互いの性器を貪りあった。


 *


 自堕落という言葉がある。とても便利な言葉だ。

 僕の大学生活は、結城紗耶香なしには語れない。

 足し算だけじゃなく、引き算の意味でも。


 紗耶香がいなければ僕はもっと授業に出ただろうし、サークル活動にも真面目に取り組んだかもしれないし、インターンシップで自分のキャリアを真面目に考えたかもしれないし、資格試験でも受けて手に職を付けていたかもしれないし、ビジネスプランコンテストに出て多くの起業家と出会っていたかもしれないし、ピースボートに乗って世界を巡っていたかもしれない――

 つまり、大学生活に、セックス以外の思い出が溢れていたのかもしれない。


 彼女はそれほどまでに魅力的だった。

 整った顔立ちと、蕩けそうな瞳。鼓膜を震わせる少し低い声。

 指で触れると変える肌。舌を這わせる触れる塩味。花のような香り。


 だから大学の終わりを迎える頃に、僕は決心したのだ。

 第六感的洞察と理性的思考をもって。君と離れることを。


 君に溺れ続ける僕に未来はないと。

 留年は回避したけれど、このままでは駄目になる。

 そう思ったんだ。


 大学四回生のクリスマス。一級河川に掛かる橋の上。

 僕は紗弥加に自分自身の決心と、別れの言葉を告げた。


 君はコンビニの袋から、ワインボトルを取り出すと手摺の向こうで逆さにした。

 そして橋の上から、その中身を、夜の川へと空っぽになるまで注ぎ続けた。


 *


 男の人生において、二つの大きな決断があるとすれば、それは就職と結婚だろう。

 就職に関しては、僕は勝ち組だったと言っていい。

 いわゆる一流企業の内定を得て、僕は社会人としてのスタートを切った。

 この時代にあって大筋で終身雇用は保証されている大企業。

 成功には様々な形があるとは思う。

 その時の僕にとっては、この会社で出世することが、一番の近道な気がしていた。

 だから僕は真っ直ぐ貪欲に、出世を目指した。


 結婚に関しては、社会人になった僕の前に二つの可能性が現れた。

 二つの世界線。それは、僕との結婚を望んでくれた二人の女性だった。


 大口株主でもある常務の娘――三島佳奈。

 一つ年上の秘書課の新入社員――水戸悠。


 佳奈とは常務派の若手が主催したパーティで知り合った。

 彼女が何故、僕に興味を持ったのかはわからない。

 少し高飛車なところがある女だけど、可愛いところもある。

 いずれにせよ次期社長とも言われる常務の娘。

 彼女と結婚すれば社内での成功は約束されたようなものだ。


 悠は仕事で失敗しているのを助けてあげたことをきっかけに懐かれた。

 年上だけど、放っておけないタイプの女性。

 二人で出掛ける時には、お弁当を作ってきてくれる。そんな女の人。

 そんな彼女に僕は運命めいたものを感じた。

 彼女なら僕を一心に支えて、成功への道を一緒に歩んでくれるだろう。


 でも結婚にあたっては、一人を選ばなければならない。

 その二つの世界線のうちの一つを。


 僕の理性は三島佳奈を選べと言った。

 僕の第六感は水戸悠を選べと言った。


 理性を信じる? それとも、第六感を信じる?


 *


「それで正解はどっちだったと思ったの? 慧。それは理性? それとも第六感?」


 君の前で、僕は両手を広げる。右手には理性を。左手には感性を。

 僕がどちらの道を選んだか。それはどっちだっていいじゃないか。

 どっちにしろろくな世界線じゃなかったんだから――


「それじゃわからないし、面白くないわ。ねぇ、話してよ――慧」


 *


 そして、僕の世界線は分岐する。


 *

 

 僕は第六感に従って水戸悠と結婚した。


 結婚式をあげる一ヶ月前に妊娠が発覚した。

 彼女は結婚の後、しばらくして出産に向けて退社した。

 僕は彼女に仕事を続けることを勧めた。でも彼女が強く望んだ。

 幼少の頃、母親があまり家にいなくて寂しかったのだと。

 自分の子供にそういう思いはさせたくないのだと。

 それが君の希望ならば――と僕は了解した。


 一家を支える大黒柱となった僕は、全力で頑張っていこう。成功しようと思った。

 新しく生まれる子供のために、そして内助の功で僕を支えてくれる悠のために。


 この頃、悠を選ぶことにした第六感を、僕は疑ってはいなかった。

 僕は神に導かれるが如く、成功の階段を上っているのだと、信じていた。


 ――でも子供が生まれて、全てが変わった。


 生まれた子供の血液型はAB型だった。

 僕の血液型はO型、悠はA型。AB型の子供が生まれるはずがない。

 生まれてきた子供は僕の子供じゃなかった。


 地面は砕けた。世界は崩壊した。何がなんだか分からなかった。


 やがて悠が、告白した。

 結婚前、昔の彼氏と会ったのだと、お酒の勢いでセックスをしたのだと。

 半ばレイプのようなもので、本意ではなかった、ごめんなさいと。

 そして、悠は泣いた。泣き続けた。――泣きたいのは僕なのに。


 それが本当にレイプだったのか、合意の上での浮気だったのかはわからない。

 ただ――子供に罪はない。

 だから、僕は彼を自分の子供として育てる決心をした。


 それでもどうにもならなかったのは悠だった。

 罪の意識だろうか。徐々に彼女は、彼女自身の精神を崩壊させていった。

 毎日、お酒を飲み、泣いて、時々、手首を切った。


 仕事になんか集中できるはずもない。

 僕はそれから、ただ――深海で息を止めるみたいにして生きている。


 あの時感じた第六感って何だったんだろうな。

 まぁ、そもそも第六感なんて何の根拠もないわけで。

 そんなあやふやなものを信じた僕が、馬鹿だったのかな?


 僕にはもう居場所がない。


 *


 僕は理性に従って三島佳奈と結婚した。


 僕は三島家の婿養子となった。

 仕事上、宮原の姓を使い続けたけれど、僕が三島の者であることは全社員の知るところとなった。

 まるで景色が変わった。会社の中で僕を取り囲む空気が変わった。

 成功までの道がはっきり見える気がした。


 でも、家庭で僕は――異物だった。三島の家に馴染めなかった。世界が違った。

 家の中もまるで会社の延長線みたいで、心が休まらなかった。

 それでも成功のためなら――と僕は仮面をつけて日々を過ごした。


 でも成功への道は、一瞬で絶たれた。

 政治家への贈賄事件。三島常務は刑事告訴され、失脚した。

 残されたのは冷たい家庭と、反常務派で固めらた通行止めの出世街道だけだった。


 あの時僕がした理性的判断って何だったんだろうな。

 そもそも理性で判断できることは、その時点の客観的材料からの合理的判断だけ。

 未来は不確実で絶対なんてないし、そこに僕自身の心なんてないのに。

 大人ぶって理性だけを信じた僕が、馬鹿だったのかな?


 僕にはもう居場所がない。


 *


「――それで今、ここにいるんだ。慧?」


 彼女――結城紗耶香の双丘に僕は顔を埋める。

 その柔らかさ。安らぎ。確かな感触。


「理性も第六感も、慧は信じられなくなったんだね。――じゃあ、慧は、……何を信じて生きるの?」


 皮膚の感覚、鼓膜の振動、網膜に映る光の配列。

 その中に君がいる。その中に僕がいる。

 僕はこの体で、この心でこの世界生きている。

 理性でもない、第六感でもない、僕は僕の――


「『五感』を信じるよ。紗耶香」


 僕は世界を知覚する。

 君の相貌、君の手触り、君の声、君の舌の味、君の香り。

 それがきっと僕が、本当に信じるべきだったもの。


 理性なんかクソくらえ。

 第六感なんかクソくらえ。


 どんな世界線を選んでも、きっと答えは初めから決まってた。

 世界を彩るのは僕の感覚だけ。

 その知覚世界で、君は初めから特別だったから。


「――じゃあ、セックスしようか? 慧」


 そう言って、結城紗耶香は笑った。








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