第2話 「カニバル・ハンニバル」02
「よう、クラウディオ。調子はどうだ?」
にやついた口元、白スーツで宝石がちりばめられた品のない腕時計の男――ローレンが来店した。常連のような仕草をしてみせるが、この男はまだ連れられて二度、ひとりで来たのは三度だ。
Sクラブ、というこの街の一角を担うグループの会員を自称しているが、確認の限り末端会員である。「ジャック・ポット」の常連になれば箔がつくと思っている浅はかな連中はいくらかいるらしく、ローレンもそのひとりらしい。
ローレンは店内を見渡し、案の定カウンターでのんびりアイスを食べる彼女に目を付けた。
今日はただメニューの酒を飲むだけで終わないらしく、襟を直し、ご自慢のごてごてした腕時計が見えるように彼女の隣の席にかけた。
「お嬢さんひとりかい? 酒場で酒飲まずにアイスなんて食べてるのかな?」
色男を真似たいのだろう。
表情を作り彼女に話しかけるローレンは見ていてあまりにもダサい。今時このようなナンパがあるのか、と思うくらいに。少なくともクラウディオは仕事中でなければ顔を手で覆い、大きくため息をつきたくなる程度に。
しかし彼女はローレンには目もくれず、小さなチョコアイスのボールを半分にして口に運ぶ。
店内はそこそこ音が有るものの、隣の人間の声くらい拾える。あれはどう見ても無視だった。しかしローレンはただ聞こえなかったと思ったらしく、脚を見せつけるように組み替えて女を見る。
「酒の飲み方がわからないなら教えてやるぜ? なあ、マスター、お嬢さんにスクリュードライバーを……」
常連を気取ってマスターに指を鳴らす。
あまりにもダサい。
その勘違いをした格好の悪さに寒気がした者はひとりやふたりではなかったらしい。二の腕を擦る者が何名かいる。
ローレンが勝手に酒を注文しようとした時に、ようやく「お嬢さん」が口を開いた。
「結構です」
「あン?」
女は「一応は」笑みを浮かべていた。
しかし不思議なことに笑顔の形をしているはずなのに酷く無関心さを感じさせる。ケバケバしくショッキングなタイトルだけの中身のないブロイドを目にして、記憶に三秒もとどめないくらいの無関心さだ。
「初対面の女にスクリュードライバーすすめる殿方は信用できませんので」
ミントもきれいに食べ終えた女は、手を合わせて「ごちそうさま」と言う。ローレンには視線もくれず、追加注文を考えているらしい彼女は顎に指をやり、うーん、と声を上げている。
今度こそしっかり「拒否」いや「眼中にない」と言う態度をとられたことをローレンは理解し、屈辱に顔が引きつった。女を己の戦利品とするタイプの男が、戦利品に泥をかけられればそうなる。
高すぎるプライドを傷つけられた男がどういった行動に出るかなど、想像に容易い。
「(まずいな)」
そう思いクラウディオは足を踏み出す。
目の前の無礼な女に掴みかかろうと、顔を赤らめたローレンは手を伸ばす。しかしその手は届かず静止した。
「お客さん、そういうのはそういう店でやってくれ」
マスターの警告の声と同時に、クラウディオはローレンを掴む手に力を込め、彼女に触れさせなかったのだ。
クラウディオの万力のような力でつかまれた腕はびくともせず、逃れることは出来ない。クラウディオも視線だけ動かし、黙したままローレンに「遠慮」を願う。しかしローレンは不快そうに顔を歪め、クラウディオに向かって叫んだ。
「はなせデカブツ!」
明らかに己より強い男を前にしても引くに引けないのだろう。自分を大きく見せたい男の悲しい様である。
マスターの数少ない警告も無視し、ローレンは苛立ちからクラウディオに向かってこぶしを突き出す。が、こぶしを引き、ほんの数センチ突き出すよりも早くローレンは顔面を床に押しつけられていた。
衝撃と痛みに襲われ、床を舐めさせられている事実に、ローレンは驚愕する。
「は……はなせはなせはなせ!」
一瞬状況が飲み込めなかったが、今自分が床に押しつけられていることを理解した途端足をばたつかせ、喚く。その見苦しくやかましい様子に、マスターはクラウディオに向かって顎をしゃくった。
次の瞬間、ゴギ、という音とローレンの汚い悲鳴が上がる。他の客たちはその音と声に顔をしかめる。
肩がはずされたのだ。
このように手荒い「遠慮」を受ける客は稀にいる。繁華街の店は最低限の行儀も謙虚さも欠く者を言葉通り丁重に扱うことはしない。そして「ジャック・ポット」であればなおのこと、容赦は一切ない。
ローレンのクラウディオに対する罵詈雑言は濁り聞き取れない有様で、客の多くは眉を寄せた。見苦しく、皆一様に彼を愚物として見た。ローレンは恥をかかされたことにも怒りを露わにしていたのだろう。
ナンパをした彼女にも酷く口汚い言葉を投げていた。
「つまみ出せ」
「アイ・サー」
クラウディオはマスターの言葉に従い、ローレンの襟首をつかみ、ほぼ引きずるようにして「ジャック・ポット」の外へと放り出した。バタバタと転げるように逃げてゆくローレンはあちこちにぶつかり、白スーツを汚してながら繁華街に消えてゆく。
負け犬の様を繁華街に披露している辺り当分ここいらを我が物顔で歩くことは叶わないだろう。
その姿を見送ったクラウディオは店内に戻った。
ローレンに絡まれた人物はというと、どうやら紅茶まで所望したらしく、優雅にマグカップに口を付けていた。
クラウディオはマスターが紅茶を出したことに目を瞬かせていると、飲み終えたマグカップをよく磨かれたカウンターに置く。
女は満足そうな顔をして席を立った。
「美味しゅうございました。ありがとうございます」
取り出した財布から紙幣を出し、カップのそばに置く。マスターはそれが高額紙幣であったことに眉を持ち上げた。
「お客さん、多過ぎだ」
たしかにアイスと紅茶の分にしては多すぎる額だった。チップを含んでも、だ。それでも女は目を細めて笑顔を向ける。
「迷惑料も込みということで、とっておいてください。また来ます」
猫のように歩む女はクラウディオの目を見て微笑む。マイペースな猫がしっぽを振るように、軽く手を振り店を出ていった。
「(妙な女だ)」
なんとも言えない、あまりにもこの店――いや、この繁華街に馴染まない奇妙な女は、クラウディオの頭の片隅に足跡を付けていった。
空が白み始めたころ、マスターは「帰れ。そしてクソして寝ろ」と客を全て追い出し閉店とした。クラウディオは軽く掃除を手伝ってから店を出る。
そろそろ週末の朝市の時間だ。
食材をいくつか購入しようとマルシェへ向かう。繁華街と違う、健康的で活気のある明るい人々の声がクラウディオの頭ふたつ下で飛び交っていた。
マルシェには食材以外に布や食器類、服も売っている。
地元民から観光客まで訪れるこの週末の朝市の賑わいは、夜の繁華街とは正反対で健全だ。様々な色に朝日が降り注ぐ様は美しい。クラウディオは繁華街でバウンサーをするようになって以来、仕事終わりに週末の朝市へよることが習慣になっていた。
新鮮な果物や野菜が、テントの下で山積みになっている。コンフィチュール用のひしゃげた桃などは手頃だ。アスパラも太くてやわらかそうなものが多い。
クラウディオはタマネギとトマトといくつかの葉野菜、形の歪なナスとズッキーニもあわせて購入する。さらに隣の店で山羊のチーズとハムを買えば、予定の物が大体そろう。
数日分の献立を考えつつあとはパンを買えばいい、とパン屋へ向かった。
クラウディオが持つと片腕に収まっているが、すでに相当な量を購入している。それを人混みだというのにぶつかることもなく進む。
ふとクラウディオの視線の先に、猫を見つけた。
やわらかな長毛の猫は緩やかにしっぽをゆらし、のんびりと塀の上を歩いている。野良には見えない、けれど飼いならされた風にも見えない。猫の横顔に昨日の不思議な女のことを思い出した。
――あの女は何者なのだろう。
ふと浮かんだ疑問。ついでに「また来ます」という彼女の言葉を思い出す。
――またストロベリーサンデーを求めるだろうか。
クラウディオはパン屋のテントの直ぐ隣に並べられたジャムやスプレッドの中にチョコシロップを見つける。ひとつ手に取り、気付けば購入していた。
腰に本をぶら下げた彼女が「ジャック・ポット」に来店することを、ほんの少し期待していたことに気付いたのは、冷蔵庫に食材をつめているときだ。
使う分以外の野菜を冷蔵庫、パンは棚に入れ、小さなテーブルに道具と調味料を置く。
缶入りのオニオンスープをとりだし、クラウディオの体格からすると小鍋にしか見えないそれに少しばかり野菜を切って放り込む。飴色のタマネギがつまったそれに水を加えて火をかけた。
スープが温まる間に、購入した長めのパンを真ん中で切り分け、もう半分は包んで棚へ。上下で半分に切り、マスタードと瓶入りのマヨネーズを塗り、野菜をカットして乗せていく。チーズとハムも乗せて上半分のパンで挟んでできあがったサンドイッチはボリュームがある。小食な一般人の三食分は有りそうな大きさのそれは、クラウディオにとっては軽めの部類である。
温まったオニオンスープをカップに移し、サンドイッチを削り取るように噛みつきながら、その大きな体躯には狭すぎるキッチンでぼんやりと考えた。
「(もう少し広いといいのだがな……)」
いくつかある菓子作りの道具もなかなか活躍するタイミングがない。最後に作った甘味は先週のひしゃげた桃で作ったコンフィチュールだった気がする。
残念なことにタルト型は半年は使っていない。
なにせこの狭いキッチンではささやかな調理しかできない。スケールさえも埃を被りそうだった。
少々不満げにサンドイッチを平らげたクラウディオは手早く食器と道具を洗い、シャワーを浴びに浴室へ行く。熱いシャワーを浴び、これから活動を始める街とは逆に、一日の活動を終えるのだ。
傷だらけのからだにシャワーの熱い湯が伝って落ちる。幸い、マスターが禁煙主義なため、からだには臭いがあまりついていない。
身体の表面が温まるまで、シャワーを浴び続けた。
赤い髪がたっぷり水分を含み、重たくなる。前髪が湯をしたたらせながら目元を隠した。
表情はうかがえない。
手に取った洗髪剤で汚れを落とし、石けんでからだを泡で覆う。充分に洗い流してしまえば終いだ。
この安アパルトマンでシャワーを浴びるならこの時間帯がいい。タイミングによってシャワーの水量も温度も酷い有様になる。
下着のみ履いて髪を乾かし、ベッドに腰掛けた。狭いベッドはクラウディオの体重を受け軋んで沈む。寝心地に関しては野宿より何倍もマシというだけの代物は彼の体格にはあまりにも不釣り合いだった。
日が昇り、街が昼間の顔になっているところを見下ろせば、クラウディオの一日が終わる。
クラウディオは厚めのカーテンで日を遮り、ベッドに横たわる。脚がはみ出そうな狭いベッドであっても、どんなに寝心地の悪い場所でも充分に睡眠がとれるのはクラウディオの特技だ。
クラウディオの意識がまどろみに沈むまで、そう時間は掛からなかった。
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