第1話 「カニバル・ハンニバル」01

 昼間はまぶしい太陽と澄んだ空のもと、石造りの街並みは一種の芸術のように美しい。街路樹や鉢植え、建物に這わされた蔦さえ、歴史を思わせる建造物にマッチしていて、計算されたテーマパークのようだ。

 しかしそれは都市の中心部であり、表向きの部分である。

 日が陰り、中心部から離れたもうひとつの都市の人の集まる場所――繁華街は明かりをともし始める。

 芸術的な都市の中心を作ったときに出来た切れっ端と端材で構成されたような、調和など一切感じられない雑多な街並み。植物もろくになく、誰が捨てたかもわからないジャンクフードの包み紙や煙草の吸い殻が転がり、地面にはガムで黒いシミが出来ている。

 中心部と違い、そこに漂う臭いはときおり生ゴミのすえたものが混ざっていた。

 都市の表の中心部で真っ当に過ごす人間は、あまり近寄らないであろう場所であることは、この辺りの者なら知るところだ。

 「ジャック・ポット」という酒場は繁華街のメインストリートから少し外れたところにある。日が沈む頃に店が開き、日の出で閉店する。まあ、あくまでそれは基準で頭を剃り上げ、元殺し屋と噂されるマスターの気分と酒の在庫次第らしい。

 「禁煙」とでかでかと掲げられた「ジャック・ポット」の扉を開ければ、店内はそこそこの客入りだ。

 酒場であるため酷く酒の臭いが充満しているかと思えばよくよく換気がされているようで空気が澱んだ様子はない。

 マスターが完璧と言っていいくらいの球体の氷を削り出す背後には、年代物の酒も並んでいる。酒以外も美味い料理を出すのだがそれがガイドブックに載ることはない。マスターの気分次第というところが大きいからだ。

 メニューにある基本的な酒と料理数種以外を求めるなら、ある程度通い金を落とすか、マスターに気に入られなければならない……というのがもっぱらの噂である。

 もっとも酒場の雰囲気は一見さんには恐ろしく入りにくい。客の多くは山千海千の曲者、といって差し支えのない連中ばかりということも理由のひとつだからだ。見た目からは想像できないくらい、一癖も二癖もありそうな連中ばかりが、この店の客だった。

 誰の紹介もなくひとりで来るならば、それは怖いもの知らずのクソ度胸の持ち主か、物事を知らない人間である。

 そして「ジャック・ポット」が一般人を拒む空気を醸す最たる理由は、店内ドアの直ぐそばにたたずむ用心棒バウンサーの男のためだった。

 頑丈そうな樫の扉の近くにビタリと直立し、微動だにしないこの店のバウンサー。

 彼はクラウディオという。

 二メートルをゆうに超える身長と筋肉で膨れ上がった体躯は恐ろしく鍛え上げられて実践的だ。顔やときおり見え隠れする肌には古傷が多い。特に顔の左側は大きく傷ついており、左耳の上部は欠けていた。彫りの深めの目元のせいで視線が鋭く見えた。あまり愛想のない顔つきと赤い髪。マスターもそうだがこの男の前でオイタするような馬鹿はほぼいないだろう。事実、彼がこの酒場のバウンサーになってから、トラブルが少なかった。

 抑止力が人の形をしているようなものである。

 一般人を拒む空気を漂わせるこの酒場は情報のるつぼである。

 ご近所トラブルから探し猫、そして銃や薬の流通。噂レベルから金を払うに値するものまで。

 要するにこの店は街の中でも「いかがわしい店」の部類なのである。

 そして最近その情報のるつぼで話題の中心になっているのは連続殺人犯「カニバル・ハンニバル」だった。

「なあ、また脳みそが無い死体がでたんだってな」

 店内の隅のテーブルで飲んでいた男の片方が、ピックで刺したチーズを指揮するように振ってみせる。スライスされたチーズを口に運び、噛みしめる表情は渋い。向かいの男はラム酒をグラスの中で氷をまわし、酒で唇を湿らせながらぼやいていた。

「頭の中きれいさっぱりなくなってたらしいぜ? 頭がぱかーって開かれて……」

「化け物がやったんじゃねぇかってもっぱらの噂らしいな」

 チーズを咀嚼する男は途中、ワインでチーズを流し込む。ワインとよくあうこのチーズはいつもであれば大層美味く感じるというのに、どうにも臭みが鼻につくのは気分の問題だろう。

「手の込んだシリアルキラーだろ。そういうこだわりの強い殺し方をするのは自己主張の強いやつだ。捕まるまでそう時間はかからんだろうよ」

「聞いた話じゃ顔役の懇意にしてたやつがやられたとよ。状況によっちゃあ、懸賞金がかけられるかもしれんな」

 ラムを飲む男もちびちびとナッツをつまみ、辛気くさそうな顔をしていた。繁華街は中心部と異なり、まれに「そういうこと」は起こる。しかしそれは痴情のもつれやら強盗の結果であり、連続殺人の結果ではない。

 クラウディオは耳を澄ませる。

 単に客の行儀を観察しているわけではない。そういった情報を拾い集め、街の動向を探るクセがあった。情報のパッチワークで街の火薬の匂いを嗅ぎ取る。今どこにどんな火薬が埋まっているか、考えた。そしてそれもここのバウンサーとしての仕事のひとつである。ただ突っ立っているだけの置物は要らん、というのがマスターの主張である。

 繁華街で夜明けを路上で迎える阿呆は少なからずいる。しかしその中に頭を割られ、きれいに脳だけがなくなった死体が、ここ三ヶ月で七体もあったらしい。

 暴行された様子もなく、財布や貴重品も奪われていない。きれいに脳だけがなくなっている。

 まるで頭蓋の中身を「完食」したかのような有様だったらしく、かの有名な小説にあやかり「カニバル・ハンニバル」と――聞く者が聞けば憤慨しそうなあだ名である。プロフェッサーが食したのは脳ばかりではないと言うのに――その手の好事家があだ名を付けていた。

 ターゲットは一見一貫性がなく、男女問わず被害に遭っている。しかも一般人だけでなくヤクザものにまで手を出しているらしい。

 見境のない様子に中心部の住人は戦々恐々としている。幸い、日中の犯行はないようで、順調に客を減らしているのは夜を主体とする繁華街のほうだ。

 「まったくもって商売あがったりだぜ」とぼやくマスターの愚痴をここ半月ほど、クラウディオは聞かされていた。

 無言で思考を巡らせていると、からん、とドアの上部に吊されたベルがやわらかい音を奏でる。扉の横に立っていたクラウディオは、客に視線を落とした。

「こんばんは」

 穏やかな擦弦楽器を思わせる声がクラウディオに向けられる。

 女だった。

 クラウディオはほんの少し、眉を持ちあげるが、彼女を店内へ迎え入れる。かすかに香ったのはジャスミンに似た優しい甘さ。

 猫のような横顔の女だった。

 連れはいない。

 この酒場は女がひとりで来ることのほぼ無い、そして向かない場所だ。

 少なくともクラウディオに見覚えはない。紹介もなく、突然現れたこの女はクソ度胸の持ち主か、世間知らずかどちらだろう。パンツスタイルを選択していることに関しては賢明であることは間違いない。

 店内の者はチラチラともしくは不躾に視線を投げる。

 彼女は背丈はクラウディオの胸の高さほどで、猫か羊を思わせる頭髪をゆるく編んでいた。年齢は若くも見えるし、それなりの年齢の雰囲気もある。

 しかもこの酒場にはとてもではないが相応しくない。シックな装いで、ダブルブレストのテーラードジャケットに飾りのついた襟のシャツを着ている。甲を靴紐で結んだ革靴はよく磨かれていた。

 その場違い過ぎる姿にクラウディオは瞬きしたが、それ以上に目に留まったのはその腰に下がっているものだった。

「(本……?)」

 人によるが腰の左のホルスターに収められているべきは銃、またはナイフか警棒である。それが彼女のホルスターには、古く豪奢な本がはいっている。革張りの装丁でアンティークのように見えた。

 彼女は興味深げに店内を見渡し、空いている席を探している。やはり初来店らしい。

 本の彼女はカウンターの空席に気付き、まっすぐ歩みそれにかける。店内のものは誰もが一瞬は彼女を注視した。

「いらっしゃい。ご注文は」

 低く巨大な車が走り抜けるような地を震わせる声でマスターは彼女を迎える。上品でクラシカルな女と元・殺し屋と噂されるマスター。そのあまりにも属性のかけ離れた組み合わせに多くの視線が注がれた。

「ストロベリー・サンデー、ございます?」

 丁寧で流れるような声が、ずれた言葉を奏でる。酒場の、しかも「ジャック・ポット」で、ストロベリー・サンデーを頼んだことに、客の一部は凍り付いた。

「メニューにはないね」

「残念。作ってはいただけないですか?」

 スパ、とよく切れるナイフのように返答したマスターに、笑みを浮かべたまま女は問いかける。

 マスターは品定めするように女を見た。彼女の意図を探るように端的な返事を返すマスターに対して、彼女は終始笑顔だ。

「今チョコレートシロップは切らしてる」

 「そうですか~」とのんびりと首をかたむけた女は、頬を指で撫でほんの少し考える仕草をする。暢気なのか、それとも世間知らずなのか空気が読めないのか。

 そのやりとりが客の一部には何故かマフィアの腹の探り合いに見えていた。ただのメニューの交渉だけだというのに。

 クラウディオもマスター相手に初手でそんなことを言い出すところに少々驚き、視線だけ女とマスターに向けていた。

「アイスはありますか?」

「バニラとチョコがある」

「それではそれをお願いします」

「はいよ」

 アイスで妥協したらしい女はカウンターの高めの椅子でつま先を少し揺らしにこにこしている。マスターは苺をスライスし、カクテルに添えるための小さなアイスクリームスクーパーでころころとしたボールを作ってゆく。

 手早くアイスをすくってミントと共に苺を盛り付ける。丸く、カクテルグラスに盛られたアイスはなんとも可愛らしい。

「素敵」

 いかついマスターのゴツゴツした指先が器用に作り出したそれは繊細だ。女はアイスクリームスプーンでアイスボールを半分、口に運ぶ。

 にっこり笑ってバニラアイスから口にする。幸せそうにアイスを口に運ぶ女の横顔をクラウディオはじ、と見てしまった。

 視線に気付いたらしい彼女が、スプーンをつまんだ手をゆるく振ってみせ、クラウディオは気まずさから視線を別の酔っ払いに移す。するとそのタイミングで再びベルがやわらかな音をたてた。

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