side A


 雨が降っていた。やわらかく。


 秋吉は、雨の匂いが好きだ。雨が降って、土が湿気たときのあの特有な匂い。もっとも、最近はコンクリートの道ばかりで、土の匂いなんて感じることは滅多にできなかったが。

 右手に携帯電話を持ったまま、秋吉は部屋の窓を開ける。雨の匂いが少しだけした。なんとなくすがすがしい気分になったが、いかんせん雨が降り込んでくるのはいただけない。結局また、すぐに閉めた。


 昔から雨の日が好きだった。

 雨が降った日に、傘をわざとささずに歩いて、びしょぬれになるのが好きだった。長靴の中に水がたまってがっぽがっぽと音を立てるのがまた面白くて、何度も何度もびしょぬれになった。毎回、母親に怒られながら。

 静江と話していると、怒られていた自分を思い出す。静江の話し方がそうさせるのかもしれない。

 冷たそうで、でもやわらかい、話し方。


 テレビの時報が十二時を知らせる。秋吉は煙草に火をつけて換気扇の下に移動した。電話の向こうで、静江が煙草に火をつける感じがした。かすかに、かち、とライターの音。


「明日も雨が降っているかな」


 テレビで天気予報が始まっていた。

 明日、晴れていたらどこかにでかけよう、と誘うつもりだった。雨の中、デートをしたがる女性はあまりいない。秋吉は雨の日こそデート日和だと思ってはいたが、それを口にしては女性に微妙な顔をされてきた。髪やら服やら、いろいろな問題があるらしい。

 けれど、天気予報はやはり、雨だった。

 全国的に雨でしょう。

 梅雨の到来か。

 秋吉は少し、落ち込んだ。ついてない。明日を逃せばいつ誘えるかもわからない。せっかく相手は何の予定もないと言っているのに。


 少しだけ、ねばってみることにした。


「静江さんは、雨が好き?」


 ほんの少しの期待をこめて、訊ねた。


 そうね。きらいじゃないわ。特に、霧雨なら、好きよ。


 静江の返答に、やった、と心の中で呟く。なるべく平静を保って、そうか、と答えた。


「明日、もし雨がやんだら、会おう、と言おうと思っていたんだけど、逆に、雨が降ったら、会おう、って言おうかな」


 そう、一息に続けた。

 静江が電話の向こうでくすくす笑い出す。

 何に笑われているのかはよくわからなかったが、とりあえず静江は上機嫌ではあるらしい。


 いいわよ。雨だったら、会いましょう。


「よかった」


 そう答えて、秋吉は、明日の待ち合わせ時間を告げた。一方的に告げただけだったにも関わらず、静江は、いいわ、の一言で承諾した。くすくす笑いながら、快く。そして、楽しみにしているわ、と、静江は電話を切った。


 脈ありだ、と秋吉は心の中で快哉を叫んだ。

 霧雨が降っていたら、明日は、夜景を見に行こう。

 きっと、雨で滲んだ夜景は、いつもより美しく目にうつるだろう。

 それを知っている自分を、静江は少し、認めてくれるかもしれない。


 霧雨が降ればいい。


 半ば本気で、てるてる坊主を逆さに吊るそうか、と秋吉は考えたが、さすがに、思いとどまる。

 はやく眠らなければ。


 霧雨が降ればいい。

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塚崎亜也子 @ayatsukakosaki

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