第33話 万緑慈雨・雨後
「戦、ほら! おきんか、戦!」
「うわっ!?」
稲光のような声に叩き起こされ、戦は目を覚ました。目が覚めた時、まず視界に入ったのは、純和風の室内だった。敷布団の向こうから丸い障子窓、左手には枯山水の庭が見える。
(そういや、ここ俺んちだ)
ふかふかの布団からは嗅ぎなれた匂いがした。空を見上げれば、太陽は高くのぼっていた。白い雲はゆったりと流れて消えていく。
「いつまでぼうっとしているつもりだ!」
「いや、だってじいちゃん……」
じいちゃん? と戦は首をかしげた。じいちゃん、とは祖父を指す言葉だ。そんな言葉を使った記憶は一度もない。
じいちゃん、と呼ばれた壮年の男はガハハと大声で笑った。白い髪にぎらぎらと光る金色の瞳が目の前の男が人間ではないことを示していた。大柄な体に紋付き袴、まるでどこかの大親分のようだ。
(初めて会ったのに、懐かしささえ覚える……)
「お父さん、戦を脅かすのは止めてください。毎朝そうやって脅かして、どうするのですか」
「なにをいうか! こやつの丹田を鍛えてやらんでどうする!」
襖の向こうからちょこっとだけ顔を出した40代ほどの男がはぁとため息をついた。その男性に戦は覚えがあった。
「おとう……さん?」
写真で見たその顔より少し老けたようだったけれど、忘れるわけがない。毎日拝んでいた……。
(どこで?)
ザザザ、と耳鳴りがした。
「おはよう戦、今日はいい天気だしたまには遠出してはどうかな?」
「あ、うん……」
「顔を洗っておいで、そのままだとどこかでぶつかってしまうよ」
「わかってるよ、お父さん」
のそのそと布団から這い出ると、その視界に戦は目をしばたかせた。障子の向こうに広がるのは、まるで武家屋敷だったからだ。
山城にいくつもの塀と堀があり、回廊で繋がれた先には楼閣が立っていた。その先にはうっそうとした森が広がっていて、耳をすませば鳥のさえずりが聞こえてくる。
「行って、来ようかな」
ゆっくりと立ち上がればその両手には赤い紋様が浮かんでいる。軽くビルの三階もあるような場所から戦はぴょんと跳び下りた。本来ならそんなことしないのに、ごくごく自然に跳び下りていた。
屋根瓦をつたっていくと、その場所の特異なところがありありと見えてきた。城だというのに、そこから出入りする人の姿が全く見えないのだ。城というのは、交通の要所に立っていることが多いから、高いところから見下ろせば何かしらの町や村が見えるはずなのに。
「なにも、ないな」
そうなのだ。城だけがここにある。あとはすべて森に囲まれていて、どんなに耳を澄ましても人の言葉は聞こえない。
(……そういや、俺はなんでここにいるんだったか)
なにか、大事なことを忘れている気がする。なんだか体が軽い。不自然な軽さだ。何かがあったような気がするのに、それを思い出せない。
心が赴くまま戦は歩き始めた。屋根伝いに歩いて行き、時折若君、と呼ばれて返事をする。彼らの言葉を繋ぎ合わせると、ここは鬼の世界の深淵にある
上へ上へ、と歩いて行くと戦は誰かに呼ばれた気がした。本丸の上から気配を感じ、戦は昇っていった。それは今まで見てきたそれとは一線を画していた。
先程までが実践的で荒々しい世界だとすれば、こちらはまるで勢を凝らした優雅な世界。やわらかな畳の上を歩き、左右には山水画が描かれた襖がずらりと並ぶ。少し上を見上げれば金細工でできた灯籠が揺れていた。
「戦」
短いが、この声には聞き覚えがある。聞こえてきた先はずっと置く。暗闇でよく分からないけれど、その襖の向こうにいる。鈴を転がすような澄んだ声。
「かあ、さん?」
「戦、言ったでしょう。まだ来てはいけない、と」
暗がりからは気配しか感じ取れない。かすかな衣擦れからこぼれる香の匂いが戦の心を駆り立てていく。
「?」
「お父さんも言っていたでしょう」
「お父さんが、言っていた?」
なんて、言っていただろう。なんだろう、大切な事だった気がするのに、何も覚えていない。
ザザザ、耳鳴りが止まない。
「その名の通り、いきなさい」
その言葉、確かに覚えている。是空を初めて呼び出したあの日、意識が薄れていく中で聞こえてきた。
そうだ。俺の名前は戦。
「俺は、戦うために生まれてきたっ―――!」
そうだ、生まれた時そう感じたのだ。戦うのだ、自分は。宿命から逃げないと、そう決めて生まれてきた!
「行くぞ! 戦!!!」
応、と声が聞こえてきた。とたん、目の前には一振りの刀が現れる。白く輝く刀身に、飾り紐がついている。初めて見た時には白だった飾り紐はイクサが握った途端炎のような深紅に染まっていく。
「俺はすべてを終わらせるために生まれてきた!!!」
声のかぎり叫べば、それに合わせて是空も輝きを増していく。是空の力は魄をあるべき形に戻す力。ならば、澱んだ魄が作り出した幻想など、恐れることは無い。
バキバキ、とガラスが割れたように作り出された幻影が消えていく。その中を戦は走り出し、光を見つけた。
「!!!???」
目を剥いた千紗が目の前に現れた。泥で身を守ろうと手をかざすが、是空の刃先が胸を貫く方が速かった。
「七番傘白波っ! 討ち取ったり!!」
「い、いやぁああああああ!!!」
耳が割れそうなほどの高音が空間に響き渡る。泥で覆われた外角がボロボロと落ちて行き、そして千紗はその場に崩れ落ちた。少し遅れて、戦の足元に色あせた青色の脇差が突き刺さった。
「?」
たしか、篤臣の時はまだ煌々と赤い光を纏っていたのに、今回の脇差は色がない。それどころか、気配が消えていく。ざらざらと乾いた泥が脇差の表面から湧き出てくる。
「お、おい! どうなって!!?」
おろおろとその場で足踏みしたところでイクサにどうしようもない。八尋が駆けつけ、脇差と千紗を見比べていたが小さく首を振った。
「若君、その者はもう……」
「同化が進み過ぎたって事か……」
「私が、水去に気を取られた隙に同化を進めていたようです」
そう言われ、千紗の顔をよくよくのぞき込んでみる。目を閉じ、寝ているようにも見えるがその血色はだんだんと失せていく。
「なにか、何か手はないのか!!」
「そう、いわれても」
今にも泣きだしそうな顔で言われれば、イクサも黙るしかない。ごめん、と言いかけたとたん、脇差が急にその姿を変えた。泥に変化した脇差が千紗の身体に取り巻き、呑み込んだ。
「若君、お下がりを!!」
「いや、あれは……」
べたり、べたり、とそれは巨大なイボガエルのようだった。ぎょろりとした瞳でイクサを見下ろしていた。極彩色の皮からはとめどなく泥があふれ、辺りを満たそうとしてくる。
鼻がねじ曲がりそうな悪臭を放ち、イクサは思わず鼻を抑えた。
「なんだ……これっ!? 七番傘白波の獣は馬じゃなかったのか!?」
「やはり、二重三重に手を打っていたのか!」
「ここから先は通さない!」
「ええ! 若君、今度こそ、討ちます!」
二人が刀を構えたとたん、カエルの背中に巨大な何かが突き刺さった。それは、一見すれば巨大な釘のようだった。釘を打ったそれは空中で静止していた。ふわりふわりと戦の前に降り立つと、膝をつく。
「遅れまして大変申し訳ありません、剣狩り―――
白い肌に赤い紋様なのはイクサと同じ鬼の証。その身にまとうのは大昔の武士の大鎧を連想させた。声も頬面にさえぎられて男か女か判別がしづらい。
背丈はイクサの頭一つ分は抜けていて、見上げるほどに大きい。その姿を認めた八尋が顔を輝かせて声をかける。
「百束! お前も来たのか!」
八尋顔をのぞき込み、はっとしたように息をひそめた。
「あぁ、八尋。お前に伝えなければならないことが―――」
そう言いかけたとたん、背後のイボガエルが慟哭を上げながら百束に手を上げようとしていた。ゆっくりと百束は振り返り、小さな呼吸を繰り返すと右手を延ばした。
「封を破るとは、およそ人の心のみの技ではあるまいよ」
そう言い放つや否や、百束は右手に拳をつくると思いっきり振りかぶった。その拳はイボガエルの指を砕き、そしてその勢いのままイボガエルの身体を貫いた。
「百束、宿主は?」
「…………」
百束は言葉に詰まったように黙ってしまった。
「剣狩り、って言ってたな。お前もこっち側、って事でいいのか?」
「こっち側、というのがいまいち要領を得ませんが、鍛冶師を敵と断ずるのが若君であれば、
当方、代わった一人称だ。こんな一人称、小説でしか見たことない。
「八尋、この鬼なんだか怖いんだけど」
「怖いなど、滅多なことを口にしてはなりませんよ、若君」
こそこそと八尋に耳打ちすると、八尋はあいまいな表情を浮かべた。言葉遣いが八尋よりもっと古くて、硬い。
「百束、何か言いたいことがあったのではないか? お前ほどの使い手がこうも簡単に姿を見せるとは信じがたい」
どうやら顔見知りの様だ。百束は息をひそめるように言った。
「
「それは……穏やかではない話だ。あの女のせいで、封印が解けたのだ」
「……」
巫女、という言葉からして何かしらの力を持った鬼に違いない。封印が解けた、というからには敵で間違いないのだろう。
鬼の世界から戻ってきても、戦の心はもやもやがたまったままだった。そうだ、自分は一つ大きな過ちをした、とズシリと重い物を抱えてしまった。
(仕方のない事だ。同化した魂は元には戻らないと八尋が言っていただろう)
そう、心ではわかっている。分かっているのに、割り切れない。
さぁさぁと雨が戦の顔を濡らしていた。
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