飛行

空を飛ぶのは楽しい。2月の冷たい風が顔に突き刺さり、頭がキンキンする。


レモンイエローからの追撃はなく、元来た方向に飛んでいくも日常の街並みが広がっているだけだ。

夕方に差し掛かり、西日は僕の真後ろあたりで地平線に沈んで行っているのだろうと思う。


目の前には雲のほとんどない晴れの空が広がっている。

左の空は赤、右の空は紺。あいまいな灰色を挟んで左右に広がるグラデーションが綺麗だ。

空がこんなに広く見えるのは初めてかもしれない。視界の上8割は空に占領されている。



視線を下げ、街並みを眺める。この高さから見える街並みはマップアプリのような緻密な折れ線の集合だろうと思っていたが、そんなことはない。体のほんのすぐ下にはいまだ、二階建て一軒家の屋根が見える。遠足で行ったマリンタワーより低い視界。

地上とほとんど変わらない高さを飛んでいるのだと理解し、ちょっとがっかりする。


日和駅を跨いで西側に行くことは少ないから、街並みには新鮮味がある。線路と直角に駅から続く商店街は、片側面しか見えないとはいえ、ほとんどの店が営業中で活気がある。埼珠に来る前、僕が住んでいた縦浜の最寄駅の商店街はほとんどの店が一日中シャッターを閉めたままでいて、人もほとんど通らなくなって寂れてしまっていたが、どこの商店街もそうだというわけではないらしい。

商店街の中を歩く一人から視線を感じたので見ると、蘇芳色の能力者だった。あの距離からではただの黒い点にしか見えないはずだが、「黒」色だと気づいたから僕に注目したのだろう。


日和駅にはまだ沢山、僕の知らない能力者がいる。ならば、今回のように敵対してくる人もまた出てくるのだろう。そう考えてしまうと気持ちが浮かない。






駅を飛び越え、マンションがはっきり視認できるところまで戻る。


レモンイエローの能力者は屋上にはいない。灰色の塔も見えないから、坂家がレモンイエローや赤と戦い続けているということも無さそうだ。


元居た道に戻ってくる。左右を見回して、誰もいないことを確認したうえで体に纏った「黒」を急いで吸収する。

18時59分。夕方の田舎道。学生ならばもう帰宅している人が多いだろうし、社会人はまだ帰ってくる時間ではないのか、人が全くいない。

それに、関口少年も坂家もいない。レモンイエローの彼が地上に降りてきて僕を待ち伏せしているということも無かった。


僕の動きに合わせて変な丸い影が動いているので、何かと思って上を見上げると、さっき僕が保険として作っていた「黒」の球体だった。

ずっとこんなものが僕の上に飛んでいたとは。明日の埼珠のトピックニュースの一つは「埼珠にUFO現る!!」とかいう見出しになるだろうなと思う。


来月には、日和は怪奇現象の頻発する街として有名になっているかもしれない。


とりあえず、降幡さんの部屋に戻ることにする。




階段で3階に上がり、石レンガ風の四角いタイルが敷かれた廊下を半ばまで歩いたところで、303号室に着く。


鉄のような生臭い匂いが、部屋の外からでも感じられる。

この匂いは、さっきも嗅いだ。降幡さんが自分を解体していた時に地下室に充満していた……血の匂いだ。


思い切って扉を開くと、外に漏れだしたものよりもずっと濃い血の匂いの中で、こちらを見ている男の人影が一つある。


部屋のライトに照らされる髪と、目の色は見間違いようもない「レモンイエロー」で、僕を待ち構えるように仁王立ちする彼の顔は驚愕の感情を露わにしている。


「中野……」


「高山。」


大学のサークル仲間、高山明日葉あすはが、そこにいた。


「明日葉君?どうしたの?」


部屋の奥から、声が聞こえる。降幡さんの声だ。高山は振り返って返事をする。


「いやあ、「黒」が中野だって知ってたなら教えてくださいよ。」


「え、明日葉って悟の友達だったの?」


「確かに、高山くんと中野くんは同じサークルに入っています。」


奥に入ると、坂家と降幡さんがのんびりお酒を飲みながら肉を焼いている。


「僕と高山が知り合いだとは思わなかったのか。」


「大学2年生であるにもかかわらず髪を染めることも無く、明らかに陰気な性格をしているとしか思えない地味な名前で黒髪メガネの中野悟くんと、見ての通り髪を綺麗な金髪に染めて陽気な雰囲気を醸し出す、名前も陽気な高山明日葉くんを見比べてみて、まさか2人に交流があると考える人がいると思いますか?」


突っ込みどころが多すぎてどうリアクションすればいいのか分からないが、まずはこの話を端に除けて、気になったことを聞こうか。


「青天目さんは?」


「関口くんを送っていきました。」


なるほど。どこかのタイミングで、みんなは関口君と会っているのか。


「関口君は、僕について何か言ってた?」


「……可哀想に。私が関口君を保護したときはもう泣きじゃくってしまっていて、彼はほとんど碌に話も出来なかったのです。中野くんのことをとっても怖がっていました。中学生にトラウマを植え付けて、中野君は楽しいですか?」


いやな言い方をするなあ。


「その中学生に躊躇なく、当たったら致命傷になりそうな不意打ちをしてた人がそれを言います?」


坂家はにまっと笑う。


「あのとき当たってれば、関口くんがトラウマを持つことなんてなかったんですよ?」


降幡さんは、缶ビールを飲みながら微笑ましそうに僕らの会話を見ている。こんな風に歪んで成長してしまった若者を見て、降幡さんは何も思わないのだろうか。


「肉しか食べないって言ってたのに、酒は飲むんですね。」


「私、飲み物については気にしないのよ。それに、お酒は私の主なエネルギー源だからね、飲まないと死んじゃうのよ。」


きっと、この人はアルクホリックなんだろうな。


高山は僕の席に座り、ホルモンの様な何かをかじりながら俯いて考えこんでいる。


「高山、どうした。考え事か?」


「善悪ってなんだと思う?善と悪ってどう見分ければいい。」


善悪?……善悪。僕に対して申し訳ないと思っているという話だろうか。


「分からないけど、僕の怪我については気にしなくていいよ。多分、すぐ治るし。」


「人間の体はそんなに簡単に治癒しません。中野くんの手首の穴は明日あたりに化膿して痛み始めると思います。」


「高山の気持ちとか考えたことあります?」


今はそういうことを言う流れじゃないだろう。


「別に、中野の傷のことはどうでもいいんだ。」


そうか。いや、どうでもよくはないが。高山が良いというならまあ今は置いておこう。


「俺の能力の、『レモンイエロー』の発動条件なんだけど……」


「うん。」


「『レモンイエロー』は『悪』を憎む気持ちをトリガーにして発現するものらしい。俺は結構、俺自身も改善したいと思っているんだが、変な正義感が強いだろ。だから、勘違いとかでついカッとなって悪くない人を怒ってしまったりすることがある。」


確かに、良くないことをした人を怒っているようなところは何度か見たことがある。

「悪を憎む気持ち」というのは、高山に向いているトリガーだなと思ったが、それの何の問題があるのだろう。

勘違いなら誰にでもあることだし、「悪」とまではいかなくても、良くないことをした人に対して、憎しみの感情が浮かぶのは良くあることだろう。


「中野は『悪』ではないだろう。」


「いえ、中野くんは『悪』です。」


うん。堂々と肯定したくはないが、坂家の言うとおりだ。


「いや、『悪』ではないんだ。『悪ではないが、悪いことをしてしまった人』なんだよ。中野は。」


「いえ、中野くんは『悪』です。」


そう連呼しなくてもいいだろうと思う。しかし確かに、ちゃんとした「悪」の定義が僕の中にあるわけではないが、僕なりの定義からすれば僕は「悪」の部類に入るような気がする。


「坂家も知ってると思うけど、中野は悪い奴じゃないんだ。」


「はあ?」


そんな顔で僕を見ないでくれ。坂家。


目を見開き、唖然としたように口を開けて坂家は僕の方を向き、いかにも、何を言っているのか分からないといった風に極端に首を傾ける。


「明日葉。例えば、こんな考え方はどうかな。……某国民的アニメで、毎回の最後に主人公にパンチされて星になる『悪』がいるだろう。」


酔っているのか、やや顔を赤らめ、演説調な喋り方で降幡さんが話し始める。


「どんなに『悪いヤツ』じゃなくても、『悪』にはなり得る。明日葉が言いたいのは、『悪』というものが何なのかということだろう。その答えを、私が出すなら、それは明日葉が誰かを『悪』ということにすればその人は『悪』だということだ。相手を『悪』と決めつけることに躊躇するべきではない。『悪』というのは言わば善に対する敵だ。つまり、おそらく君自身は『善』だろうから、きみの敵は『悪』ということにしてしまえばいい。」


「なるほど。素晴らしい考え方です。」


坂家が感動したように、胸の前で手を組んで頷いている。ふざけているのか、本気なのかは分からない。


「悪い人でない人を『悪』としてしまって本当に良いんでしょうか。」


高山は椅子から身を乗り出し、すがるように訊く。なんかの宗教みたいな空気になってきた気がする。


「問題ない。」


高山は無理やり自分を納得させようとしているのか、しきりに頷いている。


降幡さんが何を言っているのか僕にはよく分からないが、とりあえず高山が納得しようとしているなら、無理やりにでも納得させてしまえばいい。


「いったん、これ呑めよ。」


近くにおいてあった甘い炭酸で焼酎を割って、高山に渡す。

大学2年生の2月だ。8割以上の確率で、こいつは成人している。酒を飲ませても法律的には問題ないだろう。

ちなみに僕は2月の後半の生まれで、法律的にはまだ酒を飲めない。


「坂家って何月生まれ?」


「先程もその話題になったのですが、私は高山くんと同じく、3月生まれです。しかしまさか、人口の8パーセントしかいない3月生まれがこの場に2人もいると思わず、間違って未成年に飲酒させてしまったとしても私は咎めませんよ。中野くんもまだ未成年ですからね。」


高山から受け取ったコップに口を付けながら、坂家は言う。今の断定的の口調からして、坂家は僕の誕生日を知っているらしい。高山にも話したことはないような情報を坂家がいつ知ったのかは気になるところだが、今はそれどころではない。


「法律ぇ……」


「大量殺人犯が、今更法律を気にするんですか?」


あの時は悪意が無かったし、過失致死ということにならないだろうか。


「間接キスは感染症のリスクが高まるそうです。」


そう言いながら、坂家が手に持ったコップを僕に渡してくる。色々なことを考えて飲もうかどうか迷ったが、僕はコップを床に置く。この部屋にテーブルはないので。


ちょっと冷静にならないと不味い気がする。


「僕、帰るわ。」


今、酒に酔って冷静さを失えば、僕は「黒」を制御できなくなる。そうなったとき、酔った僕が何をしでかすか分からない。強すぎる能力というのは怖い。考えてみると、高山も彼が、彼の意図しないところで「悪を憎んで」しまうのが怖いのかもしれない。だから、今の質問をしたのかもしれないな。


「坂家は、自分の能力が暴走してしまうのが、怖かったりしないか?」


「私は、せっかく手に入れた能力を使えなくなることの方が怖いです。」


今、僕の手を掴んでいるのは、僕を引き留めようとしているのだろうか。


「常に、能力を使えるようにしておきたい。だから、いつも私は中野くんの近くにいるんです。中野くんは、帰るんですか?」


「帰る。」


多分、坂家の能力を使うためのトリガーに僕が何かしらの手助けをしているのだろうと思う。

確かに突然「黒」の能力を使えないと言われたら辛いだろうが、それが元の僕らなんだから、それも受け入れるしかないことだろうと思うし、本来使えない能力であれば、使えない方が良いのかもしれないとも思う。


悲しそうに手を離す坂家を意図的に見ないようにしながら、部屋を出る。





「能力、無い生活なんて考えられなくなりますよ。すぐに。」


坂家のつぶやきに、降幡さんが頷く。


「足首から『黒』が出てんの、私が気付かないと思ったのかしらね。」


「今、何か言いましたか?」


坂家は、何の話をしているのか分からないという風な顔で首を傾げた。


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「蘇芳色」#AA0000

無限に増殖し、自在に結合する群体生物。宿主の手のひらから噴出し、あらゆる形を作り出すが、噴出速度に欠け、時間当たりに宿主の外に出てくる数は多くない。宿主が手のひらを傷つけることにより発現し、宿主が必要としなくなった瞬間に霧散する。能力使用後の空気中に微量だが漂い続け、異世界では冒険を生業とする者の一部が稀に感染することがあった。

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