雨の中 下

「あんた、いつまで居るの?」

「雨が止むまで」

「あっそう」

苛々しているのだろう、片脚が上下に激しく揺れている。だが、そんなことより問題なのは…

「やっぱり寒くない?上着貸そうか?」

雨に濡れて透け始めているワイシャツからカラフルな何かが覗ける。下着ではないことは重々承知だ、だがやはり、さくらんぼには刺激が強すぎる。

「何?しつこいんだけど」

「いや、体を壊すと良くないなって…ごめん」

「…」

「…」

数分間沈黙が続いた。僕は本へと視線を戻すが内容が全く入って来ず、同じ項を何分も見つめ全く進まない。視線を感じた。目線を上げ一時の同居人を見ると、暇を持て余しているのか私を見ていた。

「どうしたの?」

「いや、その本面白い?」

「面白い」

「そう」

「…」

「…」

沈黙

「音無は、何でカラオケ行かなかったの?」

「別に何でも良いだろ」

「いや、この辺りに居るなんて珍しいなぁって。駅の反対だし」

「金がないの」

「でも、カラオケくらいは」

「その金すらないの。家片親だから」

「…そっか」

「駅に向かってる途中で、忘れ物したって言って、逃げてきちゃった」

「バイトとかはしてないの?」

「してるよ!でも、学校と友達とバイト、彼氏、全部両立出来なくて」

「走って逃げてきちゃった」

「…」

「あ、悪いな急に語り始めちゃって。忘れてよ」

何も答えられなかったのは、気まずいからとか、返す言葉が見つからなかったからとかではなく、同じ人間なんだなと感動していたからだ。他の皆んなは生きてる世界が違うと言っていたけど、高橋の言う通りそんなことはないのである。僕の目の前に居るのは、ただ悩み苦しんでいる一人の女の子だ。

「忘れられないよ」

「なんだよ、性格悪いぞ」

「家に来ない?」

「は?」

「さっきから微妙に中の服が透けてて困ってたんだ。急げば直ぐの所にあるから、おいでよ」

「気遣いはやめてくれ!」

「違うよ、俺家で大体独りなんだ。寂しくてさ、良かったら相手してよ?」

「なんだよ…」

私は本を鞄の安全地帯を探し詰め込むと、一人先に駆け出した。後ろを向くこともせず、この悪天候に打ち勝つように強く踏ん張って疾走したのである。

 家に着くと僕は独りだった、周りを見渡し彼女の存在が確認できないことに驚きと少しの落胆を感じた。途端に僕は先ほどの自分の行いを振り返り恥ずかしくなってきた。急に良くわからないことを口走り、強引に家へ誘い、全力で走り始める初対面の男…気持ち悪い。僕は顔が急激に熱くなるのを感じた。

「恥ずかしい…死にたいよぉ」

僕は数分立ち直ることができなかった。

「馬鹿、バカァ、ばかぁ」

「何一人でぶつぶつ喋ってんだよ」

「うわぁ!」

「なんだよ?」

「いや…来たんだ?」

「お前がこいって言ったんだろ?」

「そうだけど…少し前まで見あたらなかったから」

「ああ、お前足速いのな。小走りだと全然追い付かなかった。おかげで服がびしょびしょ」

そう言う彼女は髪もぐっしょり濡れていて化粧がグロテスクなことになっていた。

「僕中学の時バスケ部だったんだ」

僕は家の鍵を取り出し解錠しながらそう言った。

「へー、以外。なんでやめたの?」

「なんとなく。さぁ入って」

僕は家の中に入ると、浴室へ行き体を温められる準備をした。彼女はポツンと玄関で立ち止まっている。

「どうしたの?」

僕は顔だけ脱衣所から出して問いかけた。

「いや…あんたの家広いなって」

「そう…かな?」

私が友人を家へ呼ばない理由だ。丁寧に浴槽を洗いお湯を張り、濡れている彼女を浴室へ案内した。

「あんた見た目よりだいぶ大胆ね?」

「そうかな?」

「普通、女を家に呼んで風呂に入れるなんて、色々勘繰るわよ?」

「あっ!違うんだ、そんなつもりは」

「わかってるよ、さっさと部屋に戻りな」

彼女は堂々と脱衣所の扉を閉めた。濡れた衣類を脱ぐ時の艶かしい音が、扉越しに聞こえてくる。扉一つ隔てた奥に薄着の女性が居る、彼女がつけている香水の甘い香りが私の鼻腔を刺激する、それだけで私は不思議な多幸感に襲われた。

「二階の右端の部屋だから!」

僕はそう叫ぶと自分の部屋に飛び込んだ。危ない、僕の好みは清楚で賢い文学少女か、体育会系の汗が滴る熱血女子のはずだ。こんなはずじゃない。僕は自分の部屋を見回した。散らかっている部屋、男臭い臭いが僕の鼻を痛めつける。掃除だ。僕は彼女がこの部屋に入って来る前に現状を打破せねばならない。先ずは、

「ゴミ箱の中からだな…」

僕は自分のゴミ箱の中身を他の部屋のゴミ箱と一緒にゴミ袋にまとめてリビングへと隠した。掃除機を隅々までかけると、消臭剤を持って来てカーテンやベット、カーペットなどに大量に撒いた。汗が体を湿らせる。布ものほど臭いを吸うものだ、しっかりやらなくては。部屋の中を見回す、大丈夫だ自分を信じろ、落ち着け落ち着くんだ、素数でも数えたい気分だ。

「ト、ト、ト」

軽やかな足取りで階段を登る音が聞こえる。軽いが走っているのではない女の子特有の軽やかな足取りだ。心臓が激しく鼓動する、彼女の足音が近づく度に跳ね上がるのだ。まるで、足踏み式空気入れの様に一段踏み締めるごとに膨れ上がって行く。

「トン」

登り切った様で、僕の部屋に向かい歩み寄って来る。冷や汗が体を流れる。

「カチャッ」

扉に手をかける音がし、ゆっくりと開かれる。

「いらっしゃい!」

「ああ、…ん?」

「どうしたの⁉︎」

彼女が不思議そうに僕を見つめている。体から水が滴り落ちて来る、こんな大粒の冷や汗を掻くのは初めてだ。

「いや、あんた着替えないの?」

「え?」

「ずぶ濡れだけど、あんた着替えなかったの?」

「…あゝ」

先程体から流れていたのは冷や汗ではなく、ただの雨露だった。

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