亀が鳴く。そのあと。
@frofrofrog
亀が鳴く。そのあと。
半年前に仕事を辞めた。
いや、五か月前だったか。もしかしたら九か月前だったかもしれない。
その辺りが、さだかではない。
いつの頃からか、ぼう、とすることが増えた。
炊事や洗濯、家事を完璧にこなすことができなくなった。お米を炊く前に水につけておいたはずが、気が付けば炊かずに寝ていたり、
回し終わった洗濯物を濡れたままにして、何日か後に気づいたりする。ぼう、とばかりしていて、自分が何をしているのか、何をするつもりだったかさだかでなくなる。
仕事に関しても、なんで辞めたのだったか、いつ辞めたのかさだかではなかったし、あの日のことも、彼女に仕事を辞めることを伝えた日のことも曖昧である。
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「ごめん。沢山相談にのってもらってたのに申し訳ないんだけど。」
「はい」
「仕事、やめようと思う。」
「はい」
「ごめんなさい」
「なんで先輩が謝るんですか?」
彼女が私を見つめる。青くて、綺麗な目だった。
彼女とは大学生の頃からの付き合いで、卒業後、上京した私についてくるように彼女も同じ土地に住み始めた。
理由はさだかではなかったが、当時、まだ色んなことをこなすことができた私に対して
「先輩は私の憧れなんです。」
と言っていたことは覚えている。その時に私を見つめていた目は同じように青くて、綺麗で、真っ直ぐで、そして私は、まだ色んなことがさだかだったように思う。
「先輩は、これからどうするんですか?」
「どうするんだろう。地元に帰るか、すぐに新しい仕事でも探すか。ううん、わかんないな。考えてない。」
彼女の目が、ほんの少しだけキッと厳しさを孕んだことを感じて、思わず目を逸らしてしまった。
「いや、でも、大丈夫だから。色々あったけど、一応キャリアは積めたし、再就職だってすぐに…」
「先輩。」
「はい」
「じゃあ結婚しましょう。私と。」
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目が覚めた。
窓からはもうお昼の突き刺すような日が入ってきていて、またやってしまったと枕元からスマホを取り出す。
しかしスマホの電池は切れていて、時間の確認すらできない。
仕方なく、もぞもぞと起き上がってリビングへ出る。リビングでは彼女が忙しなくPCを叩いてはどこかへ電話をかけている。
「おはよう」
声がガラガラだ。バツの悪さもあいまって、蚊の鳴く音より小さく出た声は彼女に届いたかどうかもさだかではない、情けない朝の挨拶だった。
「先輩、おはようございます! お仕事、落ち着いたらお昼の用意するんでちょっと待っててくださいね」
頷いて、PCの前に向かう。
時間を確認するためにそれを立ち上げると、
"3/10(木) 20:00~ 定例MTG"
とデカデカと表示される。
会社にいた時の名残だ。年間で入れておいたスケジュールが、未だに残っている。こんなもの、すぐに消してしまえばいいのに、これが私と社会を取り次ぐ最後の糸のように感じて、
未だに消せずにいる。
「今日のお昼はパスタセットですよ」
振り向くと、彼女が机上に、丁寧にお皿を並べている。
パスタと、スープと、サラダだ。かけているドレッシングは彼女の自家製だろう。
この家にきてすぐ、作り方を彼女が教えてくれた。
オリーブオイルにアップルビネガーを混ぜたものを塩コショウで味を調整する。
家事まで彼女に任せてしまっては悪いと私がやってみたところ、何故か涙が止まらなくなって、最後まで作ることができなかった。
それからは、料理も洗濯も、掃除も、全て彼女が行う。
彼女が手招きして、私が席につく。
美味しい。彼女に料理を教えていた時のことを思い出す。
学生時代、彼女を始めて自宅へ誘った時に料理を振舞うと、彼女はいたく感激して
「料理、教えて下さい!」
と懇願してきた。特に仲が深まったのはそれからだっただろうか。
また、涙が出てきてしまった。
情けない声が出るほど泣いた。彼女が私の背中をさする。
「大丈夫、大丈夫。ゆっくり治しましょうね。私がついてますから」
料理は半分しか食べられなかった。
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「お散歩行きませんか?」
「もう夜だよ。危ないよ」
「先輩がついてるから大丈夫ですよ! それに、ちょっとそこのコンビニにいくだけです。」
「私がいても何の役にも立たないよ」
「もう、いいから行きますよ!」
家を出る。
風が気持ち良い。
少しだけ肌寒いけれど、春の香りもする。
「あ!」
「先輩! 先輩!」
後ろを歩いていた彼女の方を振り向くと、彼女が何かを掬うような手をして、こちらに見せてくる。暗くて良く見えない。何か生き物だろうか。
「亀ですよ!亀!」
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私の好きな短編集の中に「亀が鳴く」という話がある。
男女の別れの話だ。今の私のように、ぼう、とした女が、男に別れを告げられる。
別れ話のさなか、時折亀が鳴く。きゅう、という声で亀が鳴く。
それだけだ。何か劇的な展開がある話ではなかった。
わくわくもしなければ、ドキドキもしない。
ただ、私はそのお話が大好きで、何度も何度も、それこそ穴が開くほど読んだ。
霧の中を彷徨うような話だと思った。少しじめっとしていて、ほんのりと肌寒い。
なんだか心地よい霧の中だ。
その感覚が好きで、私は何度も何度もそれを読み返した。
亀は、私たちの家で飼うことになった。
彼女は私に接するように、いつもの笑顔で亀に餌をやる。
亀はいつもじっとり、のんびりとした様でそれをたべる。
そしてのそのそと、ゆっくり水槽を徘徊する。
彼女が外で仕事をする時、私と亀は二人きりだった。
彼女がいない家の中はとても静かで、何故か時折、ありもしない掛け時計の針の音が聞こえる。
カチリ、カチリと時間を刻む音が聞こえる。
亀はまだ、一度も鳴かない。
時限爆弾みたいだ、と思った。
この亀が鳴いた時、お話のように彼女が私に別れ話を切り出すところを想像する。
この亀は、その瞬間を告げに来たに違いなかった。
ありもしない時計の音を聞きながら、じっとりとした亀の歩みを眺める。
私は、一度も亀に餌をやらなかった。
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「もう少しだけお休みして、様子を見ましょう」
と先生が言った。
彼女の勧めで通い始めた病院でのことだ。
「最近はどうですか?」
から始まるいつもの診察に、私もいつものように口ごもってしまう。
ここに来る前からその質問がくることはわかっていて、いざとなると何と答えるべきか、さだかではなくなってしまう。
そうすると彼女がかわりにテキパキと私の日頃の様子を答える。
私って、亀みたいだ、と思った。
のっそりとしていて、どんより湿気ている。
「突然、涙が出てきてしまうみたいなんです」
「はあ、他には? ご飯は食べられていますか?」
「少しですが、以前よりは食べられるようになってきたみたいです」
「薬はちゃんと飲めていますか?」
「それは私が責任をもって、毎日飲んでもらってます」
先生と彼女のやりとりが続く。私は俯くばかりだ。
涙が出るのは、よくある症状らしい。そして、それはとても良いことでもあると。
良いわけあるか、とじんわりとした苛立ちが体の中に広がる。
好きでこんな風になったわけじゃない。こんなはずじゃなかった。
彼女が慕ってくれた、私のままでいたかった。
わかったかのような口を利く先生が、この男が、憎くて憎くてたまらなくなる。
苛立ちが怒りに代わる。何故か亀が頭を過る。あの亀が悪いんだ。何を考えているか、私自身でもさだかではなくなっていく。
怒りに任せて顔をあげる。
彼女の心配そうな顔を視界に入って、また泣きそうになってしまった。
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彼女が亀に餌をやっている。
窓を見ると、もう夜になっていた。
「ごめんなさい」
「急にどうしたんですか?」
きょとんとした顔で彼女がこちらに向きなおした。
「今日、病院で何も話せなかったから。また全部話させてしまって。」
「いいんですよ。何度も言ってるじゃないですか。ゆっくりでいいですよって。それより先輩、こっちに来て、一緒にご飯あげませんか? 亀、可愛いですよ」
彼女が小さくを手招きをする。思わず、顔をしかめてしまう。
「先輩、もしかして、亀苦手ですか?」
「そんなことは……。」
「先輩、知ってましたか? 亀って鳴くんですよ」
心臓の奥が冷える感覚がした。勿論知っている。そしてその亀が鳴くとき、私は彼女を失うのだ。
ついにその時が来たのだ。
「亀にはね、声帯がないんですって。それでも時折、吐き出す空気の音が小さな鳴き声みたいに聞こえることがあるそうなんです」
彼女が再度手招きをして、改めて私にくるように促した。
「私ね、この亀が鳴く時に、あなたが私のところからいなくなる、そんな気がするの」
「はい? え、何を言っているんですか?」
心底驚いた顔をして、彼女がこちらを見ている。
「昔読んだ小説でね、亀が鳴くの。その時、男女が別れ話をしているの。それでね」
言いかけたところで、彼女が私を手を強く握った。ひんやりとしていて、少しだけ全身の感覚が明瞭になった気持ちになる。
「いなくなりませんよ」
「うん」
「いなくなりません。私はあなたの隣にいます。この亀がいなくなるより先の未来でも、私はあなたの隣にいます。」
「でも今の私はなんにも」
「関係ありません。あなたが拒否しても、私はあなたの隣にいます。だから、安心してください。」
視界の隅に移る亀が、水槽の中の岩を懸命に上っている。多分、もう少し上ったところでズルリと滑り落ちるのだろう。
そして、また登り始めるのだ。のんびりと。
「あの時の返事、はぐらかしてごめん」
「また急ですね。いいですよ、のんびり待ってます。」
それから数日後。
亀が鳴いた。きゅう、と、綺麗な音だった。
彼女はまだ、私の隣にいる。
亀には数回、餌をやった。
亀が鳴く。そのあと。 @frofrofrog
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