第9話 私は目を閉じ、クライヴとの距離が縮まり、クライヴの婚約者と会い、異なる未来を夢想する

もし、もしもあの時、クライヴに迫られたあの時に。

私が『目を閉じて』いたら、未来はどうなっていただろうか?


目を閉じた。


「……」


クライヴの唇が、私の唇に触れる。

軽く触れただけで、唇が離れた。


「……逃げないの?」


クライヴが、泣きそうな顔で問い掛ける。


「……」


泣けばいいのに。

泣いたら、美しい顔が歪んで醜く見えるのだろうか。


「クライヴ様」


私はクライブの頬に手を触れ、彼の名を呼ぶ。


「私から、キスしても良いですよ」


「え……?」


「あなたが、婚約者のご令嬢と会ってくださるなら、キスをして差し上げます」


「……っ」


クライヴの顔が、歪む。

彼は、泣くだろうか。

……泣けばいいのに。


だが、クライヴは泣かない。

代わりに、つらそうに微笑んだ。


「君は、ひどい人だ」


そうかもしれない。

……でも、クライヴに言われたくはない。


「令嬢と、会ってくださるのですか?」


「……はい。会いましょう」


クライヴは肯いて、それから私を抱きしめた。


その日から、クライヴは娼館に行くことも、父親からの言いつけを破って仕事の手を抜くこともなくなった。

ノーリッシュ氏は、私の手腕に満足しているようで、クライヴが令嬢と婚礼を挙げた暁には、私を彼自身の秘書にしてくれると言う。

何もかも、私の期待通りに進んでいる。


……クライヴと婚約者の令嬢が、顔を合わせる日が来た。

私はノーリッシュ氏に命じられ、ノーリッシュ氏やクライヴと共に、令嬢を迎える。


「御機嫌よう」


令嬢は、使用人の立場にいる私にも、にこやかに声を掛けてくれた。


「……」


私は令嬢に、恭しく一礼する。

クライヴは令嬢を美しくないと言ったけれど、私には彼女は素敵な女性に見える。


「……」


クライヴは憂鬱な顔をして、ノーリッシュ氏、令嬢と共に食卓へと向かった。


「……」


会食が終わるまでは、何もすることがない。

私は、与えられた自室に戻った。


自室で昼食を澄ませた私は、読書をすることにした。

今、手持無沙汰とはいえ、今日は休日ではない。


「……」


適当に手に取ったのは、学生時代に買った戯曲だった。

ページをめくるが、文字が頭に入ってこない。

私はため息を吐き、本を閉じた。

その直後、扉をノックする音がした。


「……」


誰だろう。

私は扉を開けた。


「クライヴ様……っ!?」


「……」


クライヴの上体が、ぐらりと傾く。


「っ!!」


私は咄嗟に、彼を受け止めた。


「大丈夫ですか!? とりあえず、ベッドに……っ」


私はクライヴを支えながら歩き、彼をベッドに横たえる。


「すぐに医師を……っ」


「行かないでくれ」


クライヴがか細い声で懇願する。


「……」


まさか、仮病……?

一瞬、疑念が過ぎったけれど、青ざめたクライヴが演技をしているようには見えない。

私は、とにかく誰かに知らせなければ、と思った。


「やはり、旦那様にはお知らせします」


「……っ!!」


クライヴが、私の手頸を掴む。


「っ!?」


強い力でベッドに引きずり込まれる。


「クライヴ様……っ。ん……っ!!」


クライヴが強引に、私の唇を唇で塞ぐ。


「ちゅ、ちゅうっ。ん……っ」


騒いだから、人に知られる。

この場面を見られたら、まずい。

今、この屋敷にはクライブの婚約者がいる……!!


「ん、ん……っ!!」


私は、なんとかクライヴから腕力を使って逃れようとした。


「……っ!!」


クライヴの唇が、私の唇から離れる。

私は大きく息を吸い、それからクライヴを睨みつけた。


「婚約者を放って、何をしているのですか……っ」


「考えたんだ。ずっと、考えていた」


クライヴは私の問いかけには答えず、熱に浮かされたように語り出す。


「僕に欠けている全てを、僕の婚約者が持っていると父上は考えている」


「ええ。そうです」


私はクライヴに同意することで、彼を落ち着かせようとした。


「婚約者には、聡明さがあると、父上は考えている。容姿が見るに耐えなくても、聡明さと家柄があればいい」


「そう。そうです」


「でも、聡明さなら、君にもある」


「え……?」


「婚約者の手の甲に、キスをしたら吐き気がして、必死に耐えていたら気が遠くなった。その時、閃いた」


クライヴが目を輝かせて、言う。


「考えて、考えて、考え続けていたことの答えが出た」


ああ。彼の「答え」を聞くのが怖い。


「君と僕の子供を作ればいい」


「っ!?」


「そうすれば、家柄はなくとも、君と僕は一緒にいられる」


「待って、待ってください!!」


もはや、人目を気にしている場合ではない。

私は大声でクライヴを制止した。


「まずは、そう、まずは旦那様にお話を!!」


「父上は僕の話など、聞かない」


「でも話して!! それでも、きちんと話してください!!」


「アーシャ」


「あなたの勝手で、あなたの気持ちを押し通して、それで旦那様に見放されたらどうするつもりなのですか!?」


「それは……っ」


「私の子を、あなたの子と認めず、私は追い出されるかもしれない。そのことを、考えたの!?」


「アーシャ。僕は……っ」


「とにかく、旦那様のところに行きましょう。婚約者の令嬢を放っておくわけにもいかないでしょう」


「嫌だ」


「聞き分けてください。クライヴ様。私を、愛しているというのなら……」


「……っ」


クライヴの頬に、赤みが差す。


「父上に、君を愛していると言うよ。婚約を解消したいと……」


「はい。私も一緒に参ります」


ああ。これで私は職を失い、屋敷を出ることになるだろう。

でも、いつ、暴走するかわからないクライヴとこれ以上、一緒にはいられない。


「……」


せめて、退職金か、新しい職場への紹介状のどちらかを貰えるように頑張ろう。


クライヴと共に、食堂に到着した。

クライヴはノーリッシュ氏と二人で話すことになり、私はノーリッシュ氏から令嬢の相手をするようにと命じられる。


「……」


私は令嬢の側に行き、一礼する。


「あなた、わたくしを出迎えてくださった方ですね」


令嬢はにこやかに話しかけて来た。


「アーシャと申します。ノーリッシュ氏の秘書見習いのようなことをしております」


「まあ。そうなのですね」


「旦那様はクライヴ様と少し話すことがあるそうで、その間、ご令嬢のお相手をするように仰せつかりました」


「ありがとう。わたくしは、シャーロットよ。よろしくお願いします」


「お茶を召し上がりますか? シャーロット様」


「いいえ。もう十分にいただいたわ。クライヴ様が戻られるまで、あなたとお話をしたいのだけれど、宜しい?」


「では、中庭にご案内致しましょうか」


「まあ。嬉しいわ。ぜひ、お願いします」


私はシャーロットを先導して、中庭へと向かった。


中庭に到着した。


「美しい庭ですね」


シャーロットはゆったりと歩きながら、笑顔で言う。

それから、心配そうな顔をした。


「クライヴ様の体調はいかがですか? わたくしと会うために、無理をしてくださったとノーリッシュ卿は仰っていましたけれど……」


「たぶん、体調は回復されたと思います」


「そう。では、お会いできるでしょうか。わたくし、クライヴ様ともっとお話がしたいのです」


シャーロットの笑顔を見ていると、胸が痛む。

彼女は、クライヴが自分をひどく嫌っているとは知らないのだ。


「シャーロット様は、クライヴ様のどのようなところが好ましいと思われたのですか?」


思わず、私はそう問い掛けていた。


「軽蔑なさらないでね」


シャーロットは神妙な顔をして、前置きをする。

私は少し、身構えた。


「容姿です。クライヴ様は、とても美しい方なので」


「……性格などは、重要視なさらないのですか?」


「はい」


シャーロットは言い切った。

確かに、クライヴは美しい。

でも、それは、一時の儚い花のようなものではないだろうか。


「やはり、軽蔑なさる?」


「いえ、そのようなことは……」


私は、俯いて否定した。


「美しさが、幸せにつながるとは限らないとわかっています。あなたを見ていると、そう思うわ」


私は、顔を上げてシャーロットを見た。


「あなたはまるで、自分の美しさを覆い隠すように、男装をしている」


「私は、男に生まれた方が楽に生きられたと思うことがあります」


「そう。男性と肩を並べて仕事をしたいと願うのだから、あなたは優秀なのね。……わたくしは、鏡を見るたびに美しい娘に生まれたかったと思うの」


「シャーロット様……」


「わたくしの母は美しい人なのだけれど、わたくしは父に似てしまったの。父はわたくしを可愛がってくれるし、母は、父の娘と一目でわかるから嬉しいと言うのよ。でも……」


シャーロットは俯き、言葉を続ける。


「わたくしは鏡を見るたびに、がっかりするの。自分の子には、特に娘には、そのような思いをさせたくないの」


そう言うシャーロットに、私は複雑な感情を抱いた。

『シャーロットへの同情』と『クライヴへの憐憫』だ。

私が今、大事にすべき感情について考える。

私が大事にすべきなのは『シャーロットへの同情』だ。

そう思いながら、私は口を開いた。


シャーロットを褒めた。


「お嬢様が、そのように割り切った考えの持ち主とは存じませんでした。尊敬致します」


「まあ。ありがとう」


私とシャーロットが笑みを交わした直後、ノーリッシュ氏とクライヴが現れた。

……雑談をしている時に、現れなくて本当によかった。

内心、動揺している私はシャーロットを窺う。

シャーロットは平然とした態度に見えた。

豪胆な令嬢だ。

私は一礼をして三人を見送り、一人、中庭に残る。


「……」


クライヴは、結婚した後、案外幸せに暮らせるのかもしれない。


……三日後。

シャーロットからノーリッシュ氏に連絡があった。

シャーロットが私を世話役として雇用したいと言っていると、ノーリッシュ氏から告げられた。


なかなか良い未来ではないだろうか。

私は自分のたどり着いた結末に満足する。

でも、だけど、棘のような痛みがあった。

だから私は夢想する。


どんな未来を選んでも、選ばなかった選択肢を選んだ未来を想像するのだ……。





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鳥籠の鳥【女主人公編】 庄野真由子 @mayukoshono

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