第10話 後編
「撃つぞ。いいな?」
「分かりました」
もはやこれは、発砲が許されるほどの緊急事態という事か。つぐみは吉田の後ろに下がった。カチッと、銃鉄を上げる音が響く。
吉田の発砲と共にびぃん、という音と衝撃が生じ、硝煙の匂いが漂った。
窓は、割れていない。それどころかひびすら入っていない。跳弾した弾が、床の間の壁にめり込んでいた。
「嘘だろ、防弾ガラスかよ」
「サッシの枠の方を狙ってみてはどうでしょう」
「分かってるよ。次はあの鍵のところを狙う」
と言って吉田は立て続けに三発発砲した。あまりに至近距離から撃つと跳弾で怪我をする可能性があるため、三メートルほど離れた地点からの発砲になる。凄腕ガンマンでもない吉田巡査が正確に錠を狙うのは難しい。健闘したものの、一発は防弾ガラスに、残りの二発は窓枠に当たった。窓枠もゆがんで傷がついただけで、開いたようには見えなかった。
「……だめだ、拳銃で百発くらい撃たなきゃ開かねえ」
つぐみと吉田の持っている拳銃の弾数はそれぞれ五発。予備の弾などない。百発は言い過ぎにしても、この方法では弾を全部使い果たしても開かないだろう。
つぐみは少し考えて言った。
「吉田さん、この家のブレーカーを落とすっていうのはどうですか。妨害電波も窓の電流も、電力がなければ作動しないはずです」
「なるほど。それはいけるかもしれねえ。で、ブレーカーはどこにあるんだ?俺のアパートでは玄関にあったが」
「見た所、玄関にはなさそうです。だったら、台所か、浴室かもしれません。私の実家はお風呂の脱衣所にありました」
「風呂はどこだ?」
「……多分、玄関を入ってすぐのところは応接間のような部屋でしょうね。そうすると、廊下の奥の部屋のどこかが浴室だと思います」
ブレーカーが脱衣所にあるという保証はないが、他の部屋に何らかの仕掛けがあるかもしれない。可能性が高い部屋から見ていく必要があった。
「今度は私が先頭を行きます」
つぐみが言うと、吉田は無言で頷いた。彼女も吉田に倣って非常にゆっくりした速度で廊下を歩きだす。恐らく浴室と思われる場所は玄関の反対側、廊下を直進した先だ。三メートル程進み、右手に折れると正面に手洗いが、その右側は脱衣洗面所があった。つぐみは吉田に待つように言い、彼女だけが廊下を右手に折れた。開け放された脱衣所と浴室の中が見える。窓は閉まっている。ブレーカーと思しきものはなかった。つぐみは吉田に見えるように首を振った。
「なかったか。次の部屋を見てみる」
つぐみはうなずく。次は吉田が先頭を行く番である。廊下の途中に居た彼は、すりガラスの嵌った引き戸そっと近づいた。手に張り付いた手袋を使って引き戸を開けると、何の抵抗もなく開いた。部屋の中央には円い食卓、その奥には流しがあった。どうやら台所のようである。
「開いたぞ。だがブレーカーはなさそうだ。……ん、窓があるな」
流しの向こう側にはぎりぎり人が通れそうな大きさの窓があった。つぐみは安全が確保された廊下を通って吉田に追いつく。
「本当ですね。でも、さっきの感じからすると、ここも電流が仕掛けられているんじゃないでしょうか」
「俺もそう思う。窓が開くか試してみるより、ブレーカーを落とす方が先だ」
「次は、私が先頭ですね。次に確かめるべきは、このドアでしょうか」
台所の反対側にはドアノブが付いた扉がある。つぐみは吉田に少し離れるよう言い、すぐ後ろにあったドアのノブを、ハンカチを使ってゆっくりとひねった。
中には二人の想像を絶する光景があった。
昼間だというのに、内部は一切の明かりが無く、暗い。廊下から差し込む薄い光が、おぞましい光景を浮き上がらせた。部屋の中央にはブルーシートが敷かれており、その上には手術台のような金属のベッドが置かれている。その上にはさらに、畳まれたブルーシートが積まれていたが、ベッドにもシートにも赤黒い血の汚れが付着しているのが分かった。部屋の中に家具は一切無く、四方の壁と天井は灰色の吸音材で完全に覆われている。恐らく最初は存在したであろう窓も吸音材で埋められており、それがこの部屋の異常な暗さの理由だった。
最初につぐみが、続いてこの部屋を覗き込んだ吉田が、絶句した。
この部屋で何かが、もしくは誰かが殺されたことは明らかだった。視覚と同時に古くなった血の匂いが嗅覚を刺激する。
「……一体、何が起こってるの?」
やっとのことで絞りだしたつぐみの声は震えていた。吉田も目を見開いている。つかの間の沈黙が訪れた後、吉田が声を荒げて叫んだ。
「くそっ。どういう事だよ。意味が分からねえよ。俺たちは捜査一課の刑事じゃねえんだぞ。普通の巡査だ!なんで普通の民家にこんなものがあるんだよ!」
吉田は壁でも殴りつけたそうな様子だったが、この家の中では下手な行動はできない。全く、吉田の言う通りである。意味が分からない。しかし怒る吉田とは反対に、つぐみの目には恐怖で涙がにじんだ。本当に、どうしてこうなったのだろう。
つぐみは警察という組織の一員になってから、死や暴力が案外身近なものであることを知った。現代の日本では、人の死を見る機会が本当に少ない。しかし、それは単に一般の人々が死や暴力が隔離されているからなのである。身内を亡くしたことがない人間はほとんどいないはずだ。二十四歳のつぐみでも、父方の祖父母はすでに二人とも亡くなっている。しかし、その死の瞬間を実際に見たわけではない。ある日病院で亡くなったと聞かされただけだ。死や暴力が隔離されているという事は、それらを一般市民の代わりに一手に引き受けている者が居るという事だ。それを引き受けているのがつぐみたち警察や医療従事者である。
――それにしても、目の前の死が存在しているのは、あまりにも不釣り合いな日常の中だった。
二人はその場から一歩も動くことが出来ずに、ただ慄いたり憤ったりすることしかできないのだった。
「ふざけんなよ!おい、出てこいよババァ!おバァちゃーん、ちょっと戻ってきてくれませんかねえぇぇ!」
気が遠くなりかけていたつぐみの耳に、吉田の罵声が滑り込んできた。
「吉田さん……」
縋るような気持ちで上司を見ると、彼は、トランクスで姿で天井に向かって吠えていた。
「おい!殺人容疑で逮捕だ糞ババァ!降りてこねえとこの家に火ぃ点けんぞ!」
「ぷっ」
怒りを爆発させる吉田がだんだんと滑稽に見えてきた。頭に血が上っていてつぐみがちょっと吹きだしたことに気づかなかったのが幸いである。つぐみはやや平静を取り戻し、ティッシュで涙をぬぐって言う。
「吉田さん、吉田さん!このままここに居ても何も変わりません。ブレーカー、探しましょう。それしか今私たちにできる事は無いですよ」
「あぁ?」
吉田はしばらく焦点の合わない目でつぐみをにらんでいたが、置物のように硬直していたつぐみが話せるようになったことで、新人の相方が居たことを思い出したようだった。
「ああ、そうだな。玄関にも風呂場にも台所にも無いってことは、あとは二階だな。次は俺が先頭の番か」
そう言って吉田は階段の方へ向かった。階段は浴室の扉の隣にある。浴室までの通路はつぐみが歩いて安全が確保されているのでそこまでは普通に歩き、階段からは慎重に一歩づつ登っていく。つぐみは吉田の背中が見える、少し離れた位置で待機した。
ぎしっ
ぎしっ
木が軋る音を立てながら吉田は階段を上る。三段、四段、五段。老朽化しているようなことも無く、大丈夫そうだ。
しかし、八段目に足を掛けた時だった。ダンッという大きな音がして、階段の段が畳まれ、滑り台状になった。
「うわあぁぁぁぁぁ」
吉田の靴下を履いた足はつるりと滑り、ゴン、と顎を斜面にぶつける音が響いて、悲鳴を上げながらものすごいスピードで滑り降りた。彼の体はそのまま階段の向かいの壁にぶつかって跳ね返り、――床に倒れる――と思われたその時、
バコッ
と音を立てて階段の下の床が開いた。
「ぁぁぁあああぁぁ!」
吉田は吸い込まれるように重力に従って穴の中に落ちた。ゴチン、という鈍い音がした。
「吉田さん!」
つぐみはそう叫んで穴の傍にしゃがみ込んだ。だが中が見える前に穴はばね付きのゴミ箱の蓋のように閉じ、穴があった場所を力いっぱい押してももはや全く動かなくなった。
吉田の名前を叫びながら穴のあった床に耳をつけると「ううー」という吉田のうめき声が聞こえてきた。
「うあぁ、いてぇ……」
「吉田さん!大丈夫ですか!」
「いてぇよぉ……」
立って歩いた時は気づかなかったが、顔を近づけてみると床と穴の蓋の間にわずかな隙間があることが分かる。つぐみは携帯していたボールペンの先を隙間にねじ込んだ。
「今助けますから!」
「……血ぃでてんなぁ……見えねぇけど……ああ……いてぇ」
吉田の声がだんだんと小さくなっていく。
「いま開けますから!しっかりして下さい、吉田さん!」
つぐみは必死に床をこじ開けようとするが、床に黒い線がつくだけで、一ミリも持ち上がらない。
「……」
ついに吉田の声が途絶えた。つぐみは懸命に呼びかけたが、それ以降返事はなかった。
つぐみは両手を握ってもう開かない床を何度も叩いて叫んだ。しばしそうしていたが、むろん応答はなく、床に座り込んで肩で息をした。
呼吸を整えながらつぐみは考えた。
このまま待てば、つぐみ達がパトロールに出たきり戻らないということに他の警察官が気づいて、応援が駆け付けるだろう。妨害電波のせいで、身に着けているGPSは現在機能していないと思われるが、登呂遺跡周辺にパトロールへ行くことは伝えてあるし、この家に入るまでの軌跡は記録されているだろう。しかし、そうだとすると、パトロール終了予定時間――最短でも一時間後――まで応援は来ない。その間吉田が持ちこたえるだろうか。落ちた時の音から、穴はかなり深く、コンクリートでできていることが分かる。血が出るほど頭を強打して意識を失ったのであれば、脳出血などが起こっているかもしれない。一時間というのも、希望的な数字だ。助けが来るのは二時間後かもしれないし、もっと遅いかもしれない。そうなれば、生存は絶望的だ。
私がブレーカーを落として、吉田を助けるしかない――。つぐみはそう思った。
一階にブレーカーが無かった以上、それは二階にあるはずだ。
階段は直線状で、登り切ったところに二階の壁が見える。階段の幅は1.3メートルほどで、両手両足で壁と手すりの間に突っ張っれば登っていけそうだ。
つぐみは靴下を脱ぐと、滑り台状になった階段の壁に手を掛けた。
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