第10話 前編
「おい、さすがに遅すぎやしねえか」
老婆が和室を出てから五分は経った頃、吉田が苛立たし気に言った。
「どこかへ出て行ってしまったんでしょうか?玄関の開くような音はしませんでしたが」
「まったく、警察も暇じゃねえんだ。ちょっと見てくるか」
そう言って吉田は立ち上がった。
「そうですね」
と、つぐみも腰を上げる。吉田がすりガラスの嵌った引き戸を開け、廊下に足を踏み出したところでがたん、と大きな音がし、彼が前のめりに倒れた。
「うおおっ⁉」
つぐみが駆け寄ると、通常の民家で目にするはずのない光景があった。先ほど自分たちが歩いてきた床の一部が開いており、吉田がその中でもがいていたのだ。
「なんだこれ、なんか、ベタベタするぞ!」
開いた床板の下には、五十センチほどの高さがあり、床下のコンクリートが見える。普通と違うのはコンクリートの表面に、茶色い飴のようなものが大量に塗りつけられていたことだ。吉田は、穴に落ちてとっさに手を付いたのだろう、膝と両手を地面につけた四つん這いの恰好で、懸命に手を床から引き離そうとしていた。彼の手と地面の間には、納豆の百倍くらい強烈そうな茶色い粘着物が糸を引いていた。
「吉田さん、何があったんですか?」
「それはこっちがききてぇよ!廊下に出たらいきなり床が開いたんだよ!なんだよ、忍者屋敷かよここは!」
「落ち着いてください、吉田さん。いま本部に連絡しますから」
つぐみは警察無線で連絡を取ろうとした。
「吉田さん、つながりません!圏外です」
「はぁ?そんなわけねぇだろ!住宅街のど真ん中だぞ。携帯もか?」
つぐみはスマートフォンを確認したが、こちらも不通になっていた。
「あ、もしかしたら吉田さんのスマホなら通じるかもしれません。ちょっと試してもいいですか?」
「おお、尻ポケットに入ってるから勝手にだしてくれ。他にも変な仕掛けがあるかもしれねぇから、その辺さわんねぇように気をつけろよ」
丁度吉田はつぐみに向かって尻を突き出すような恰好をしている。間抜けな恰好だが、今は笑う気にもならない。つぐみは落とし穴のふちにしゃがみ込み、取ってくれとばかりに吉田のポケットから顔を出している携帯電話を取り出し、画面の電源を入れた。
「だめです、やっぱり圏外みたいです。」
つぐみは廊下に向かって「おばあちゃーん!」と大声で叫んだ。しかし、当然のように返事はない。
「もしかしたら、この位置がたまた通信環境が悪いだけかも。少し移動したらつながるかもしれません」
「ほかにも落とし穴があるかもしれねぇ、むやみに部屋の外に出ない方がいい。もうちょっとで脱出できるからちょっとまってろ」
そう言って吉田は巨大ゴキブリホイホイから逃れようともがく。
「大丈夫、和室の中だけです」
つぐみは和室の中を一周してみたが、携帯電話はずっと圏外のままだった。和室の南側はガラス戸があり、障子を通して柔らかい光が差し込んでいる。北側はふすまが閉まっている。おそらく一つの和室をふすまで仕切っているのだろう。吉田はその辺に触るなといっていたが、つぐみは恐る恐るふすまを開てみた。ふすまの向こうはこちらと同じくらいの大きさの和室となっており、仏壇が置いてあった。しかし、あまり他のものに触れるのは危険だ。つぐみはふすまから手だけ伸ばして電波が届くか確かめたが、結果は同じだった。警察無線も同様につながらない。
「吉田さん、駄目です。きゃあ!」
つぐみが廊下を見ると、落とし穴の中で吉田がズボンを下ろしているところだった。
「何してるんですか、吉田さん!」
「や、布がこの粘着にくっつくと取れねえんだ。ちょっと引っ張ってくれ、抜けれるから!」
吉田が茶色いものが付着した右手をつぐみに向かって差し出した。顔をしかめながらも、彼女は綿の手袋を装着し、吉田の手を引っ張る。こんなところで携帯している手袋が役立つとは思わなかった。ズボンと靴下を穴の中に残して、紺色のトランクス姿になった吉田が脱出した。つぐみは吉田から手を放そうとしたが、茶色い物質が張り付いており、指を開くことが出来ない。このまま握手していても仕方がないので、つぐみも吉田と同じく手袋を脱ぐことで粘着から脱出した。
「サンキュー。電波、通じたか?」
「駄目です、少なくとも、この部屋からは……」
住宅町で携帯電話の電波が通じないはずがない。ということは一時的な電波障害だろうか、あるいは――。
「もしかして、
「一体誰がそんなことすんだよ。この辺に通信オタクでも住んでんのか?」
「ですから、それをやっているのは、あの」
「婆さんだっていうのかよ」
「ええ、それしか考えられません。この落とし穴も、あのお婆さんが仕掛けたもの、としか……。私たちが入ってきた時も、お婆さんが出て行った時も、この廊下は普通でした。でも、吉田さんが出ようとしたら床が落とし穴になっていた、ってことは、おばあちゃんがどこかでトラップのスイッチを入れた……って、事?」
つぐみの言葉は尻つぼみになった。これらの装置があの老婆の仕業だとは、つぐみにとってももちろん信じがたいことである。吉田はきょろきょろと室内をみまわした。
「この家はやべぇな。とりあえず外に出よう。そこの戸から出て助けを呼ぼう」
つぐみは「はい」と返事して障子を開けた。窓の外にはブロック塀が見えるのみで、通行者に気づいてもらえる可能性はなさそうだ。つぐみはサッシの半月錠に手を掛けた。と、「バチン」という音と共に彼女の全身に衝撃が走った。なすすべもなく床に倒れる。
「おい、大丈夫か⁉」
吉田が叫んだ。見開いたつぐみの目に、吉田の顔が自分をのぞき込んでいるのが見える。やっとのことで「スタン……ガン……?」と呟いた。
「電気か!サッシに電流ながしてんのかよ、この家、まじでどうなってんだよ!」
吉田が叫ぶ声を聞きながら、つぐみはゆっくりと上体を起こした。心なしか体が静電気に包まれているような感覚がする。目をしばたかせながら、手を握ったり開いたりして自分の体に異常がないことを確認した。
「大丈夫、みたいです」
「そうか、立てるか?」
つぐみは「はい」、と言って立ち上がった。
「この窓、素手で触ったら感電するみたいですね。何か手袋みたいなもので開けたら大丈夫かも……」
「そうだな。俺がやる」
と、吉田は手に張り付いているつぐみの手袋を使って恐る恐る錠に触れた。手袋越しなら感電しない事を確かめ、金属に直接触れないようにしながら、錠の取っ手を下げようとした。しかし、錠は開かない。
「どうなってんだこれ」
吉田は手袋で錠をまさぐる。が、何をしても開かない。悪態を吐きながら、錠と戦っていたが、五分も経たない内にギブアップした。「だめだ、開かねえよ」と言って天井を仰ぐ。
「玄関か、裏口かから出るしかない……ですかね」
つぐみはそう言ったものの、二人は顔を見合わせた。廊下には先ほど吉田が嵌った落とし穴が口を開けている。どこにトラップがあるか分からない家の中など、危なっかしくて歩けるものではない。
「棒みたいなもので床を確かめながら歩けば大丈夫なんじゃないでじょうか?」
「棒なんてどこにあるんだよ」
つぐみは部屋の中を見回した。部屋は六畳ほどで、部屋の真ん中には木でできた低い机がある。床の間には花の生けられていない花瓶やまねきねこ、つるし雛など、雑多なものが置かれているが、頑丈な棒のようなものはない。
「押し入れを開けてみましょうか?何か使えそうなものが見つかるかもしれないですから」
「いや、何か仕掛けがあるかもしれねぇ、むやみにその辺を開けない方がいい。玄関はすぐそこだ。俺が先に歩いて確かめる。」
「吉田さん、それはやっぱり危険です」
つぐみは反射的に言った。しかし、吉田の「じゃあ、どうするよ?」しという問いに対しては、どちらかが先陣を切る以外の方策は思い浮かばなかった。
「……交代で、先頭を行きましょう」
「おう。じゃあ、最初に俺が先頭をやる」
普段はやる気ゼロの吉田だが、この状況下では少し頼もしかった。
吉田は敷居に立ってゆっくりと足を伸ばし、先ほど彼が落ちた穴の脇にゆっくりと右足のつま先を下ろした。徐々に体重移動する。何も起こらない。完全に穴の脇に体重を移動させ、ゆっくりと左足を敷居から放した。「ふぅーっ」と息を吐いて、その左足をそのまま一歩踏み出す。今度も何も起こらない。合計4歩で、吉田は玄関の上がりがまちに到達した。そろりそろりと一段低くなった玄関の床に足をつける。徐々に体重を移動させる。大丈夫だ。吉田は、手に張り付いたままの手袋を使って、玄関の戸に手を掛けた。この扉が開けば、すぐに応援を呼べる。
「ガシャン」という音と共に、二人の願いは打ち砕かれた。扉は微動だにしなかった。吉田はスライド式の鍵をいじって開けようとしていたが、こちらも鍵は開かない。二人が老婆に招き入れられた時、彼女は鍵を閉める素振りを見せなかった。にも拘わらず戸が開かないという事は、二人が和室に通された後、彼女が鍵を掛けたのだ。吉田が低い声で言う。
「駄目だ。鍵が開かないようになってる……。もう、最後の手段しかねえかもしれねえな」
「最後の手段?」
「これでガラスを割る」
吉田は腰に手を掛けた。トランクス一枚の腰を強調したい訳ではない。彼は拳銃を指し示している。
「え」
すべての警察官は警察学校で射撃訓練を受けるため、拳銃の使い方はマスターしている。しかし実務では一度も発砲しないまま警察人生を終える者が大半だ。
「発砲許可とか……」
「無線も電波もつながらないのにどうやって許可を取るんだよ」
それもそうだ。
「全く、報告書が大変だぜ。まあ、こんな家を発見しちまった時点で大変なんだがよぉ」
吉田は、そう言いながら窓ガラスに約四十五度の角度で狙いを定め、拳銃を構えた。
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