第9話


 翌月曜日の朝、つぐみは朝礼を終えるとすぐに吉田を捕まえて交渉した。


「吉田さん、今日のパトロールでは登呂遺跡の方へ行きましょう」

「登呂遺跡?なんでまた?」


 吉田は怪訝な顔をする。つぐみたちが勤務している静岡駅前交番よりも、小鹿おしか交番やまがりかね交番の方が登呂遺跡にはずっと近いからだ。


「この間捜索願が出て一緒に自宅を訪ねた清水さん、覚えていますか?清水さんの行方について、あの後個人的に気になって調べてみたんです。すべての事に確証があるわけではなくて、私の妄想かもしれないのですが……」


 つぐみはそう断り、清水のズボンから見つけた種子がクサヨシであると特定した、というきっかけから、総てを吉田に説明した。吉田は最初は面倒臭そうにつぐみの話を聞いていたが、だんだんと真剣な表情になり、最後には呆れ顔になった。


「……お前なぁ、そんなことまでしたの?一般家出人の捜索願のために?」


 つぐみが「はい」と答えると、吉田はしばらく天井を見上げていたが、ため息を吐いて言った。


「全く、しょうがねえなぁ」

「……じゃあ」

「登呂遺跡周辺に清水佳彦さんの失踪に関する聞き込みに行こう」

「ありがとうございます」

「お礼を言うようなことじゃねぇよ」


 つぐみはそれでも頭を下げた――。





 


「吉田さん、やっぱり無茶だったんですかねぇ」


 六件目の「心当たりはない」という返事を聞いた後、つぐみは弱気になって訊ねた。午後四時代という時間のせいもあるが、チャイムを押して家を回っても対応してくれる家と不在の家は半々だった。二人は汗だくになりながら清水の写真を見せて回った。


「俺は最初から清水さんが見つかるなんて期待してないぜ」


 そもそも、話を持ち掛けたつぐみでさえ半信半疑、駄目で元々の聞き込みだった。それでもやはり本当になんの収穫もないとなると落ち込む。体力を奪っていく八月の太陽もそれに追い打ちをかけた。


「すみません、確証も無いのに無茶言って……」

「いやそういう意味じゃねえ。見つからなくても、俺は別に怒りゃしねえってことさ。だが、これ以上清水さんの捜索に時間を掛けることはできない。今日一通り聞きまわって何もなければそれで終わり。いいな?」


 つぐみはうなずいた。


「次行くか。溝浦さんね」


 つぐみが表札の名前をメモし終わるのを待って吉田がチャイムを押す。しかし反応はない。


「おっ、開いてんじゃねぇか。不用心だな」


 よく見ると扉が五ミリほど空いている。吉田が扉をスライドさせると、施錠されておらず、スムーズに開いた。家の中から強い芳香剤の香りが漏れてきて鼻を突いた。吉田は再度チャイムを押し、「すいませーん」とやや大きめの声で言う。返事がないので引き戸を閉めた。


「いねぇのかな。こりゃ防犯指導した方がいいな」


 防犯意識が低い住民に施錠を呼びかけることも、地方警察の仕事の一つである。


「本当にいないんですかね?外出中だとしたら不用心すぎますよ。中で倒れてるって事ないでしょうか」


 その時、こちらにやってこようとする一人の老婆の姿が見えた。


「あ、吉田さん、誰か来ました」


 老婆は制服姿の二人を見て一瞬びくりと硬直し、一瞬逃げるような素振りをみせたが、思い直すようにしてこちらにやってきた。老婆は頭を手押し車に沈めるような恰好で歩いてくる。吉田が、顎をしゃくってつぐみに声かけするように促す。


「おばあちゃん、ここの家の方?ちょっといいですかー?」


 家の門を通ろうとする老婆に、つぐみは努めて優しく声を掛けた。老婆は驚いたようにこちらを見て固まった。不審そうな顔をしている。


「あのね、おばあちゃん、私たち、この辺をパトロールしてるんです。それでね、おばあちゃんのおうちにも声掛けさせてもらおうと思って、お邪魔したんですけどね、おばあちゃん出かけてたでしょ。でもね、玄関の戸が開いてたんですよ。危ないですからね、きちんとしめてくださいね」


 老婆は自宅の玄関を見、そしてしわがれた声で言った。


「ああ、はい、はい、気を付けますよぅ」


 老婆はよちよちと玄関に向かう。


「あ、待ってください」


 つぐみは慌てて清水の写真をポケットから取り出し、老婆に見やすいようにかがむ。


「おばあちゃん、もう一つお話聞かせてください。この人に見おぼえある?」


 老婆はつぐみの取り出した写真を暫し眺め、


「さあねえ、見た事ないねぇ」


 と言った。


「おばあちゃん、本当に見覚えない?」


 吉田が少し強めに聞く。


「ああー。そうさねぇ、そう言われると、なんだか見た事あるような、ないような」


 家の前の道路を歩行者が歩き、こちらをちらりと見ていった。老婆は何度か首を傾げてから、


「ああ、思い出した。思い出しましたよ」


 と言った。


「いつ、どこで見かけましたか?」

「それはねぇ、ちょっとすっと出てこないねぇ。ちょっと待って下さいね。歳ょー取るとなんでも思い出すのに時間が掛かってねぇ」


 老婆は道路の方にちらちら目をやる。


「あのぅ、こんな田舎の事ですからね、家の前にお巡りさんがずっといるのもちょっと世間体が良くないんですわ。それに、ここは暑いですし、ちょっとなぎゃぁ話になりそうですから、家の中で話しませんかねぇ。わしも暑くて倒れそうです」


 そう言われては仕方がない。つぐみと吉田は玄関に入った。芳香剤の匂いが一層強くなる。老婆はどんどん室内に上がり、入ってすぐの和室に引っ込むとすぐ出てきた。ピッという電子音が聞こえたので、冷房を入れたらしい。老婆は二人に和室に入るように言い、それを一度は断ったものの、「西日が当たって玄関も外と変わらんほど暑いんですよ」などと言われて、半ば強引に和室に通されてしまった。


 そして老婆は、つぐみたちが「勤務中ですから」と断ろうとしたのを聞かず、お茶を持ってくると言って勝手に部屋を出て行った。こちらも「わしが飲みたいんですよ。外が暑かったで、何か飲まないと熱中症で倒れますわい」などと言われては断れなかったのだ。


 老婆が出ていき、つぐみと吉田は和室に残された。断ろうとはしたものの、炎天下に散々聞き込みを行った体には、室内の冷房が染み渡る。


「はぁー涼しい」


 つぐみはそう言ってハンカチで汗をぬぐった。しかし反対に、吉田は眉をしかめている。


「おい、菊川、あの婆さんなんか挙動不審だったの、分かったか?」


 吉田が小声で訊ねる。


「清水さんについて何か知っているのを隠してそうってことですか?」


 つぐみも小声で答えた。


「いや、俺たちが清水さんの写真を見せる前からだ。やましいことがある人間は警察を見ると反射的に逃げようとするんだ。あの婆さん、全然俺たちと目を合わせようとしないし、門のところで一瞬逃げようとしただろ」

「あ、ちょっとそんな素振りがあった……かもしれません。でも誰だって家の前に制服着た警官が居たら驚きますし、そんなに不自然とは感じませんでした」

「経験を積むうち不審人物とそうじゃない人の違いが判るようになる。ああいうのは挙動不審だ。覚えとけ」


 つぐみは、「はい」と答えて背筋を伸ばした。しかし、心中ではあの小柄な老婆に吉田は何を警戒しているのだろう、と思っていた。

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