第8話
土曜日、つぐみは、昼過ぎに葵区にある寮に帰宅した。当直の後はすぐにでも布団に潜り込みたい気分だが、昼夜逆転を避けるため、夕方までは起きているようにしている。いつもはゲームをしたり漫画を読んで時間をつぶすのだが、今日はシャワーを浴びるとすぐにパソコンの画面に向かった。クサヨシは手掛かりとしては薄いかと思われたが、まだ未整理の写真も残っているし、せっかく文献班がまとめてくれた資料にも目を通しておきたい。それに、たくさんの大学生たちに協力してもらったのだ。自分ひとりがこんなに簡単にあきらめてはいけないと思った。
虫処メンバーが集めたクサヨシの写真を整理し、地図を大きく印刷して、縮小印刷したクサヨシの写真を発見場所の横に貼っていく。小さなローテーブルの上で作業していると、紙を置く場所が足りなくなったので、マスキングテープでそれらを壁に貼った。壁がだんだん地図と写真で埋まっていくと、そこだけがまるで、ドラマに出てくる捜査本部のような雰囲気になる。
二時間ほどかけて部屋の壁に大きな地図が完成すると、ちょっとした達成感を覚えた。パソコンの画面では一枚ずつ見ていくしかなかった写真と地図も、一枚にまとめると全体を俯瞰できるようになる。だからと言って情報が増えたり、何か新しいことが判明した訳ではないが、なんだか部屋が格好良くなった気がする。
つぐみは冷たい麦茶をコップに注ぐと、それを飲みながら壁の地図を眺めた。地図を見て考えるというより、自分の作品を鑑賞しているという状態に近い。ぼんやりとしながら、もしかしたら、写真で見ただけでは分からない現場の様子というものがあるかもしれない、と思った。明日の休日を使って、クサヨシ発見地点を回ってみよう。心地よい疲労感と共に、意識は夢の中に吸い込まれていった。
翌日、つぐみは深い眠りから目を覚ました。ベッドに移動した記憶がないが、なぜか起床したときはベッドの中にいた。こういうことはたまにある。
朝食を摂り、まずはクサヨシ発見地点が密集している「観山」地点から訪れてみることにした。クサヨシが分布しているのは、観山の中でも「
原付にまたがり、地図に従って目的地付近に到着すると、脇道の邪魔にならないところに駐車した。夏真っ盛りの今は水遊びにちょうどいい季節だ。休日という事もあり、子供や親子連れの何人かとすれ違った。右手は池、左手は小川になっていて、足許は少しぬかるんでいる所もある。
少し歩くと、地図が示す目的地に到着した。辺りを見回すが、イネ科の植物はつぐみの背丈よりも高く伸びたススキや、猫じゃらしとも呼ばれるエノコログサしか見当たらない。優によると、クサヨシは人の腰くらいの高さの植物らしい。
「おかしいな、確かにこの辺のはずなのに……」
しばらくうろうろしていると、小川を挟んだ向かいに、別の種類のイネ科植物が生えているのに気づいた。クサヨシかもしれないと思って近づき、改めて虫処メンバーが撮影してくれた写真と見比べると、撮影されたのがこの場所であることが確認できた。
もっとよく見ようとして近づいた時、足元に冷たさを感じてとっさに身を引いた。
「うわ、やっちゃった」
草で足許が見えず、小川に足を突っ込んでしまった。川底の土は泥状で、グレーのスニーカーが汚れている。ジーパンの裾にも泥水がはねた。
つぐみはすぐにクサヨシを近くで見るのを諦めた。クサヨシの生えている対岸に渡ったところで、服が泥だらけになるだけだろう。ふと、清水のズボンには泥の汚れがなかったことを思い出した。クサヨシの生えている小川の対岸は、クサヨシ以外の植物や落ち葉が狭いスペースを奪い合うように密集していて、とてもズボンの折り目にクサヨシの種子だけがきれいに入るようには見えなかった。クサヨシの種子が入る前に、ズボンは泥だらけになるはずだ。「ここは違う」と感じる。
つぐみは発見場所をリストアップした紙の『観山(麻機)』の項目に二重線を引いた。
麻機の次は、足久保口組、幸庵新田、と他の場所も回っていった。クサヨシは、普通に歩いているだけでは見過ごしてしまうか、そもそも普通なら人が近づかないような場所にも生えていた。午後になってくると、だんだんクサヨシ探しに慣れてきて、クサヨシを見つけるスピードが格段に上がった。これは今日以降使うことのない無駄なスキルなのだろうが。
クサヨシ発見地点を巡って行くうち、汗だくになり、服と靴が泥だらけになっていった。だが、そのおかげで、「服を汚さずにクサヨシに接触できる」という条件が重要かもしれないと気づいた。虫処メンバーが集めた写真を交番で見ていた時には、クサヨシの生息域が案外広いことに落胆した。しかし、「服を汚さない」という条件を加えれば、さらに絞り込める。それに、そもそもつぐみがこうして効率よく調査出来ているのは、彼らが先に現地を見回ってくれたおかげなのだ。この作業をつぐみ一人で行おうと思ったら何日もかかったことだろう。休日を使ってさっと巡ることなど不可能だったに違いない。つぐみは再び心の中で感謝した。
空がオレンジ色に染まり始めた頃、静岡大学の近くまで来た。つぐみの母校。そして、弟の通っている大学である。ガードレールに囲まれた川に沿って走りながらスピードを落とす。原付を停めて降り、川の中を見下ろすと、ススキや名前の分からない植物に混じって、ここにも確かにクサヨシが生えていた。
川の両側はコンクリートで固められ、ほぼ垂直な壁になっている。道具なしでは上り下りできないだろう。また、その壁には部分的にコケが固まって生えている。今の川の水位はおそらくくるぶしくらいまでだが、仮に水が干上がっている時でも服を汚さずに上り下りできるとは思えない。川に生えているクサヨシはこれ以外も二か所見たが、どこも同じような状態だった。
服を汚さないという制約を抜きにしてもこの川の中にどうやったら入れるのか見当がつかない。はしご等を使えば入れるだろうが、非常に目立つ。そんなことをすればつぐみ自身が通報されかねない。「ここも違う」と心の中でつぶやきその場を後にした。
つぐみは最後に、登呂遺跡に向かった。登呂遺跡は、その川を遡るように走行して、五分ほどの場所にある。原付から降りて公園に入ると、土の香りがした。登呂遺跡の真ん中を縦断するように小川が作られている。遺跡と言っても、古代の水田跡なので、建造物がある訳ではない。水田のように一段下がった四角い区画が集まって構成された、公園のような場所である。所々にベンチが置いてあり、散歩をしている人もいる。幼稚園や小学校の遠足の定番の場所の一つで、静岡県で生まれ育った人なら、一度は来たことがあるのではないだろうか。
ある一画では古代の稲作が再現され、古代米の栽培が行われている。また、他の一画は畑にされ、近隣の幼稚園によって野菜が栽培されていた。しかし、ほとんどの区画では草が伸びっぱなしである。その草の中に、クサヨシが混じっているのをつぐみはすぐに見つけることができた。
これまで見てきたクサヨシ発見地点に比べて、登呂遺跡だけ他の場所と趣が違うと感じた。他の場所は人の手があまり入っていないが、ここはほどんど公園のような場所なのだ。
クサヨシに近づく。
それに、ここならズボンに泥をつけることなく、クサヨシに接触できる。
そうか、田んぼか、と思った。田んぼには人が歩くための
――清水が、失踪の少し前に訪れたのは、この場所かもしれない。
つまり、この場所では清水が目撃されている可能性があるのだ。
根拠は非常に薄いが、この場所で聞き込みをすべきだという声がつぐみの中でこだました。
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