第5話 前編
同日午後七時四十五分、つぐみは食堂「あんと」の店内で、四人の大学生とともにラーメンをすすっていた。
「すいませーん、餃子一つください」
優が元気に女性店員に声を掛けた。
「調子に乗るな」
つぐみは大学生四人と自分の夕食代を計算しながら弟をにらむ。
「いいじゃん、社会人なんだから」
「菊川君のお姉さん、面白ーい」
のほほん、とした雰囲気の女の子に笑われてしまった。「警官なのに威厳がない」思われることを気にしていたので、つぐみは少々傷ついた。
「ええっと、」
「あ、私、農学部三年の
「長泉さんね」
「菊川君のお姉さんって、なんてお呼びしたらいいですか?菊川君と苗字が一緒だから」
「つぐみでいいよ」
「つぐみさんですね。名前かわいーい」
「ほかの皆さんにも自己紹介してもらっても?」
つぐみに促されて、学生たちは顔を見合わせた後、一番背の高い男子学生が口を開いた。
「僕、理学部院生の
「植物とか詳しいの?」
「まあ、一応、大学ではシロイヌナズナを使った研究をしています」
シロイヌナズナと聞いてもツグミにはどんな植物なのか思い浮かばなかった。牧之原はつぐみのぴんと来ない様子を察したらしい。
「白い小さい花の咲く雑草です。日本に帰化しているらしいんですけど、道を歩いてもあまり見ないですね。見たことがあっても記憶にのこらないかもしれないです」
「へー。でも植物を研究している院生だったら、いろんな植物の事知ってそう」
「いやぁ、僕の研究は分子レベルの研究ですので、いろんな植物の事を知っているかと言われるとちょっと」
「え、そうなの?」
つぐみがきょとんとすると、優が、「いやいや、先輩、謙遜やめてくださいよー。で、こっちが伊東ね」と強引に話を遮り、隣の体格のいい男子を示した。
「文学部二年の伊東です」
「文学部?」
昆虫愛好会の会員はみな理系だと勝手に考えていたつぐみは驚いた。
「虫処には文系の会員もいるよ。伊東は俺の同期」
優が補足する。
「植物に詳しいの?」
「いえ、僕のやってるのは主に釣りっすね。国産淡水魚に関してはまあまあ詳しいんじゃないかと」
「……魚?」
つぐみは彼らにこの件を相談することに、少々不安を覚え始めた。
「最初から植物に詳しいひとだけを集めてもなにかを見落とすかもしれないじゃん。オールラウンドに戦力を集めた方がいいんじゃないかっていう俺の配慮。なっ」
「菊川がタダで夕飯たべれるって言ったから来ました」
伊東が正直に言い、つぐみは無言で優の頭にげんこつを食らわせた。
「いてっ」
「す、すみません」
優ではなく伊東が謝罪する。
「あっ、伊東君のせいじゃないから。確かにいろんなジャンルの知識を持ってる人が集まってくれた方が思わぬアイディアが浮かぶかも知れないしねー」
つぐみは慌てて取り繕いながら、優をにらんだ。彼は涼しい顔でラーメンのスープを飲み干している。
全員が食事を終え、どんぶり下げられたところで、つぐみはおしぼりで机の上を拭き、今日の収穫をバッグから取り出して、机の上に置いた。片方のビニール袋には黒い細長い種子が、もう一方には薄い緑のアーモンド形の種子が入っている。四人の視線が机の上のビニール袋に注がれた。
「詳しいことは説明できないんだけど、相談というのは、この植物の種から、これが生えていた場所を特定することができるかどうか、みんなにやってみて欲しいってことなの」
種子を一瞥してすぐに牧之原が言った。
「この黒い細長い種は、コセンダングサです。……正直言って、日本全国どこの道端にも生えている植物です」
「これから場所を特定するのは……」
「難しいですね。それから、もう一個の方は、イネ科の種子ですね。しかもまだ新しい。今八月ですから、早めに実をつける品種のようです」
種子はまだ緑色を保っている。去年に結実したものであればもう茶色くなっているのではないか。
「種類はわかる?」
「うーん。イネ科は……ぱっと見ただけじゃ、僕にはちょっと分からないですね。というか、イネ科の雑草に詳しい人って相当レアですよ」
「俺らで分かんなかったら稲垣先生でも呼んでくるか」
優が横から茶々を入れる。つぐみは稲垣先生を知らなかったが、名前からしてイネにくわしそうではあった。
牧之原の横からビニール袋の中身を凝視していた長泉が言う。
「……でも、これ、特徴がない、って訳じゃないかもです」
「どういう事?」
「
「のぎ?」
「野生のイネは、動物から身を守るために、種から「芒」と呼ばれるひげのようなものが生えていることが多いんです。人に育てられている稲や、
長泉はリュックの中から植物図鑑を取り出した。裏表紙に図書館のバーコードがついている。牧之原は自前らしい分厚い図鑑を取り出し、めくりだした。そんな重そうな図鑑をわざわざ持ってきてくれたとは、頭が下がる。
「確かに、芒がないって結構特徴的かも。その中で花期が早いものをしぼってみよう」
「スズメノテッポウ、は全然形が違いますし……、カニツリグサは長い芒がある……。ネズミムギのなかには芒のない種類もあるみたいです。でも花期がちょっと遅い」
「ホソムギとの交雑種とかだったらもうちょっと芒の有無ではわからないな……」
「
二人の見ている図鑑はイネ科だけで二十数頁にも渡り、その種類も六十種ほどに上った。イネ科の植物がこんなに種類が豊富とは知らなかった。つぐみは、植物に詳しい人なら種から簡単に種が特定できるだろうと甘く考えていたため、その作業が予想以上に難しいものであったことに驚いた。他の三人には理解できない会話がしばし繰り広げられた後、「これじゃないか?」と牧之原が言い、長泉が賛同した。二人は図鑑の一ページを指さす。
イネ科クサヨシ属
クサヨシ
水辺や湿地に長い根茎を伸ばして群生する多年草。和名はヨシに似て、小型で草質であることによる。茎は70~180㌢。葉は幅8~15㍉で平たい。茎の先端にやや紫色を帯びた淡緑色で長さ10~17㌢の円錐花序をだす。小穂は卵形で平たく、長さ約5㌢で1小花からなり、2個の包穎は同じ長さで約5㍉、
花期 5~6月 生育地 水辺、湿地 分布 北、本、四、九
(『山渓カラー名鑑 日本の野草』より)
「ネットで調べると、帰化種のカナリークサヨシってのもあるみたいですね。つぐみさんが持ってきたのが固有種なのか帰化種なのか、あるいはその交雑品種なのか、その辺はもう少し詳しく文献を漁ってみないとわからないです。っていうか文献漁ってもわからないかもだけど」
牧之原がスマートフォンを見ながら言う。
「えっと、つまり……これなんて書いてあるの?」
「つぐみさんが分からないところはおそらく植物の見た目の特徴を文章化した箇所だと思います。今はネットで検索すれば一杯写真が見られますから、そっちを見た方が早いです。分からない単語は読み飛ばしても大丈夫ですよ」
長泉が素人のつぐみに丁寧に説明する。牧之原がスマートフォンを取り出して検索してくれたので、つぐみはその画面をのぞき見ながら訊いた。
「この『クサヨシ』ってどこに生えてるの?」
「水辺や湿地、流れの緩やかな河川……って書いてありますね」
「この辺で生えてるのってどこかわかる?」
「うーん、そこまでは、ちょっと……」
「サークルのみんなに、クサヨシを見た事あるか聞いてみたらいいんじゃない?」
「うーん。虫処メンバーでも誰もクサヨシ判らないんじゃないでしょうか。見た目ただの雑草だし。それに一応昆虫愛好会ですし」
長泉が首をかしげる。それまで黙ってスマートフォンを眺めていた優が言った。
「あー、それが生えてる場所わかるかも」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます