第3話 前編

「捜索願のあった清水しみず佳彦きよひこは、四十六歳、六年前に逮捕歴あり。住居侵入罪で捕まって実刑を受けています。現在、魚の加工工場でパートの仕事をして暮らしているようです」


 パトカーを運転している吉田巡査に向かって、助手席の菊川つぐみ巡査は通報の要点をかいつまんで説明した。彼らの目的は、一週間ほど無断欠勤が続いていると警察に通報のあった男の自宅を訪ねて、安否を確認することである。


 つぐみは去年静岡県の警察学校を卒業したばかりの新米巡査だ。静岡大学人文社会学部法学科を卒業し、警察官採用試験にストレートで合格した。それから約一年の警察学校での訓練期間と七か月の実習生期間を終え、やっと交番勤務の生活にも慣れてきたところである。夏の眩しい日差しが、警察官としての第一歩を歩み始めた彼女を輝かせるように車内に差し込んでいる。


「通報は勤め先の工場長からです。清水さんが一週間無断欠勤したことで、犯罪に巻き込まれた可能性、もしくは急病で倒れている可能性を考え通報したとのことです。電話をかけてもまったくつながらないそうです」

「一週間も経ってから通報してくるなよ」


 吉田は、面倒くさそうに答えた。というより、面倒くさそうにしていない吉田をつぐみは見たことがない。彼は三十代半ば。この道十年の先輩ではあったが、つぐみとは対照的に、まったくやる気がなかった。そのために昇進もずいぶん遅れているのだが、当人には少しも焦りが見られない。


「仕方ないですよ。捜索願なんて、出したことがある人の方が少ないんですから」


 つぐみは通報内容について再確認するためにこの工場長と電話で話したが、彼に対して悪い印象は抱かなかった。きっと、出勤せず、連絡もつかない従業員に対してどうしていいか分からず、一週間悩みあぐねてから「通報」という手段が存在していることを思い出したのだろう。


 捜索願の対象は、子供や老人など、一人で生きていくことが困難で、いち早くの発見が望まれる「特異行方不明者」と、そうではない「一般家出人」に分けられる。大人の行方不明者で、今のところ事件性がない清水の場合は、「一般家出人」であり、警察が特別な捜査をすることはない。今回も、工場長が、万が一のことを考えて清水の自宅を確認して欲しい、と言わなければつぐみたちが彼の家を訪問することもなかったかもしれない。



 パトカーは、清水の住むアパートに到着した。建物の前には、立ち合いを依頼した管理者の中年女性がすでに立って待ってくれている。二人は大家に挨拶し、302号室に向かった。


「じゃ、開けますね」


 大家が鍵を開け、つぐみたちは部屋の中に足を踏み入れる。


「こんにちはー、清水さーん?」


 言いながらつぐみは部屋の中を見回した。部屋はよくあるワンルームのアパートで、入ってすぐの短い廊下の右手にキッチンがあり、その向かいが風呂と手洗い、正面がリビングになっていた。リビングと廊下の間には扉があったが、一人暮らしの部屋にはよくあるように、開けっぱなしになっていた。そのため、玄関からすでに部屋の中にだれもいないのが一目でわかる。孤独死のような最悪の事態も想定していたため、つぐみは少し拍子抜けした。


「失礼します」


 一応声を掛けてから靴を脱いで部屋に入り、部屋を覗いた。六畳ほどの部屋はフローリングで、部屋の中央に小さなテーブルがあり、横倒しにした本棚の上にテレビが置いてあった。ベッドがないところを見ると、布団を敷いて寝ているのだろう。部屋はきれいに片付いて、いつでも客を呼べそうだ。部屋を片付けてから連絡が途絶えたとすれば、計画的な失踪である可能性がある。


「だれもいませんね。一応浴室も開けさせて頂きます」


 と言ってつぐみは浴室の戸も開けた。誰もいない。浴室は乾いており、最近使われた形跡はない。手洗いも覗いてみたが、そこにも誰も居なかった。


「多分いないと思いますが、念のため、押し入れ開けさせていただきます」


 吉田は先ほどまでとは打って変わって生真面目な調子で言い、「失礼しまーす」と言いながら押し入れを開けた。上の段には布団が押し込まれており、下の段には引き出しの付いた収納箱が置いてあったが、人の入れるスペースはなかった。


「清水さん居られないようですね……」


 吉田がそう言ったことで、場の緊張が少し緩んだ。


「あー、よかった」


 大家の女性が大げさな溜息をついた。


「あたし清水さんが家の中で死んでるんじゃないかって思ってたので、安心しましたわ」


 彼女もつぐみと同じことを考えていたらしい。


「ええ、少なくとも自宅で亡くなっている訳ではないことが確認できました。最後に、玄関をもう一度確認させていただきます」


 吉田は玄関の脇にある靴箱を開ける。中には、靴を入れるボール紙の箱と、ビンや缶など、ごみの日を待っている資源ごみらしきものが入っていた。


「どうして靴箱を?」

「いや、靴を見れば不在か在宅かわかることが多いんだ。この靴箱、靴以外にも物がぎっしり入ってて隙間がないだろ」

「はい」

「そんで玄関の床にも靴は置いてない」


 吉田に言われてつぐみも床を見る。そこにあるのは自分たちが履いてきた三足の靴だけだ。


「と、いうことは、清水さんは普段使いの靴は一足で、それを靴箱には入れずに使っていた。今その靴がないということは、清水さんがこの部屋を出たのは、少なくとも自分の靴で、自分の意思だった、ということだ」


 なるほど、とつぐみは納得してうなづく。普段からやる気の無さそうにしている吉田だが、一応ちゃんと「ベテラン」として新人とペアを組まされるだけの知恵と経験を持っているのだ。と、思うや否や、


「では、ご協力ありがとうございました。お時間取らせてしまってすみませんでしたね」


 吉田は大家に頭を下げ、早々に帰ろうとする。ドアノブに手を掛けている吉田を、つぐみは慌てて遮った。


「ちょっとまってください。それでは清水さんはどこにおられるのでしょうか」

「知らね、いや、今の段階では分からない」


 吉田は大家に対する態度と打って変わって嫌そうな顔をした。「この新人、何か面倒くさそうな事を言い出したぞ」と顔に書いてある。


「手がかりがあるかも知れません。部屋をすこし捜査してみませんか」

「事件性があると決まった訳じゃあるまいし、勝手に人の家を荒らすのはよくない」

「でも、部屋がきれいに片付き過ぎじゃないですか?部屋を片付けて、失踪した可能性があります」

「きれい好きな人だったんじゃないのか」

「最初の捜査がその後の展開を分けることがあるんです。心配している職場の方々のためにも、もう少しちゃんと調べてみましょう」

「捜査ってお前、清水さんになにかあったと決まった訳じゃないし……」


 言い合っている二人を心配そうに見ていた大家がおずおずといった。


「あのぅ、何かあった可能性もありますから、私としても、もう少し調べていって頂きたいですねぇ」


 大家の加勢を受けてつぐみは内心でガッツポーズをとった。


「そうですよね。大家さんは家の中のものに手を触れず待っていてください」


 ここに大家という部外者が居なかったら吉田は舌打ちをしていたであろう。


 

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