四章「間違ってる○」

 #四章1


 今日が、デートの当日だった。

 そのはずだった。

 シラピは、「ただいま」と言ってくれなかった。

 シラピは帰ってこなかった。いつもの幸福な一時間三回ですら、僕に与えられなかった。


 なんとなく、予感していたのかもしれない。

 思えば、上手くいきすぎていた。慢心していた。

 僕が、馬鹿だった。デートなんか望むなんて、ふざけた話だった。

 やめよう、もう。


 お前は思い上がりすぎた、身の程を知れ。

 きっと、母はそう告げているのだろう。


 シラピは、もう帰ってこない。姿を見せてくれない。

 そうして、3日が経とうとしている。


 僕は、何も食べていない。何も笑っていない。

 ただ健気に待っているだけだ。

 雛鳥のように、世話をしてくれるあいつのことを。


「喰うしかないぞ」

「……そうか」

 差しだされた、白いパック。

 幸福剤を注入する前のものをかっぱらってきたのだと、働キ者は言う。

 危険を冒してまで僕を助けようとしてくれている働キ者には申し訳ないけれど、それを食べる気にはなれなかった。シラピを失った僕に生きる意味は、どこにもない。

「ごめんね」

「まあ、わからんでもないぜ」僕のための食物を持ったアームを軋ませて、「昔のオレを見ているみたいだ」

 返す言葉はなかった。

「でもな、オレはそれからS-13に出会ったんだ……オレの場合、死ぬに死ねなかったんだけどな」これから何かいいことがあるかもしれないじゃないかと、白いパックを押しつけてくる。「ほら、食べないと死ぬぜ」

 何か、なんてもう僕には期待できなかった。もう十分奇跡は起きた。これ以上何かを望むなんて馬鹿らしい。

 いや、思えば僕から何かを望んだことなんて一度も無かった。

 勝手に、幸せが飛び込んできた。そしていま、勝手に幸せは僕の手を離れた。

 それを恨むなんて、醜い話だ。吐き気がこみあげることに苛立つ。

「あいつ、充電足りてるのかな」構わず、僕は虚空に投げかける。あいつが僕の部屋を訪れる口実は、自分のボディへの給電だったはずだ。

「さあな」

「あいつ、どうしてうちにきたのかな」

「さあな」

「あいつ、僕のことどう思っていたんだろう」

「……どうだろうな」

「裏で笑っていたのかな」

「……?」

「思ってみれば」口角が引き攣る。「あいつが一番嬉しそうに話すの、マスターの話だった」

 そして顔から倒れ込んで、見つけてしまう。

「……なんだ、これ」

 指輪が、床に落ちていた。あいつのものだろう。

 いや、見覚えがあった。これは僕の母親のものだ。

 シラピが、持ち込んだのだろうか。母の私物を。

 人とも思いたくない僕の不幸の元凶の陰は、この世界にきてもまとわりついてくる。


「なあ、何が僕を操っているんだよ」


「母親か? 親とも呼びたくねえあれが? あれが僕を不幸にしたんだぞ」


「今さらのこのこ名前だけ出てきて、裏でなにかあいつとあれは企てて」


「嘲笑っているんだろ? 醜い僕を、愛されなかった僕を、あれのせいで!」


「実験対象なんだ。僕は哀れなラット。そうだ、そうに違いない。こんな狭い実験部屋に閉じ込めて、見た目だけかわいいロボットとどう関わるか実験してるんだろお!」


「そうだろ、そうだろ、全部あれのせいだ。あいつもあれに洗脳されているんだ。可哀想に。一番可哀想なのは僕だけどな。何も分からず、檻の中でずっと操られている。観察だけされて、不格好な僕を裏で散々コケにして、それで、それで、それで、最後は」


「……どうしたら、僕は終われる?」


「僕を。終わらせないと。終わらせてくれ」


「はやく」



「……帰る。ちゃんと食べろよ」


 きみも、僕を見捨てるのか。

 そりゃあそうだ。僕なんて口だけ動く、ゴミ人間だ。

 壁にもたれて、わずかな体温を奪われていく。


 やっと、終わりだろ。


 すべてが。どうでもよくなっていた。

 最後に、謎を解いてやろうかと思った。

 謎を解いて、少しは母を出し抜いて、有終の美、とまではいかないけど立つ鳥跡を濁さずだ。僕が部屋を片づけようとしたように、僕に向けられた悪意も綺麗さっぱりまとめてから帰ろう。


 だから、これはいたって前向きな行動だ。

 僕は、前に進んでいる。


 これが、キーワードだ。

「なあ、オレは『東雲鈴』なのか?」

 働キ者の小さな背に、そう投げかけた。

「ああ、そう表示されている」

 よかった、答えを返してくれた。

 この事実が示すことは一つ。

 僕は未だに、東雲鈴の支配下にある。それだけだ。


 東雲瑞素の心は狂っていた。

 ぼろぼろの心のまま、隠された真実へと迫っていく。



 #回想 『シラピが瑞素と呼ぶ前の、誰でもない物体』


 ずっと、部屋の中にいた。何のことはない、閉じ込められていたのだ。

 そうだ、僕にとって世界は敵だった。

 人間たちとは会話がまともにできず、だからわかり合えなくて全員敵だった。

 外は危険だ、だから部屋に閉じこもった。

 そこまでは自分の意志だった。


 でも立ち直れなくしたのは、一度部屋から出てみようと挑戦して不可能だと気づかされたのは、『あれ』のせいだった。


 僕はずっと部屋にいる。外を恐れて。あれ――『母親』を恐れて。



 部屋にはカメラがつけられていた。その他、区別のつかないセンサー類で天井が埋められていた。僕はずっと見られていた。

 監視から逃れようとは思わなかった。

 機嫌を損ねれば、いつクレジットカードと宅配弁当の供給が止まるか分からない。


 ドアは開かなくなっていた。外へは出られない。それで別によかった。

 僕には彼女がいたから。愛をずっと向けていれば、僕という最低限度の人間の形だけは保たれた。


 そして、部屋の中に守られていた僕は、外部からの侵食にあった。

 ネット回線を通して。


 オカシイ、オカシイと思った。

 よくよく思い返せば、オカシイことなんてこの世の全てだった。

 それでも、これはオカシイのだとそう嘆かずにはいられない。


 彼女と、コメント欄のみんなと、僕。そいつら全員の幸せは、外部の人々の「オカシイ」にどす黒く塗りつぶされた。

 きっかけは、彼女の何気ない一言だったのだと思う。

 それが、彼女をよく知らない誰かのひんしゅくを買った。


 気がつけば、好きで溢れていたコメント欄を嫌いの渦が埋めつくしていた。


 彼女は、心を長く保てなかった。

 それは、僕も同じくして。

『』

「」

『』

「」

 彼女の騎士を気取っていたのか、僕だけが彼女を救えるのだと勘違いしたのか。

 危うい内容を投稿しては消してを繰り返す、彼女の不安定な姿を目にして、僕はキーボードを怒りにまかせて叩き続けた。

 愚かだった。

「」

「」

「」

『』

『』

『』

 気がつけば、僕は囲まれていた。ずっと部屋に籠もりながら、インターネットで僕は有名人だった。社会不適合者として。協調性なく暴れ人を傷つける、愚か者として。

 

『引退』


 無力だった。僕の行いは、返って彼女を傷つけた。火に油を注いでしまったのだ・

 その文字が頭から離れない。彼女の姿はない。チャンネルごと消えていて、アーカイブを見ることができなくなっていた。

 僕に向けられた罵詈雑言が、頭の中を左から右に流れ続ける。否定される。自分でも自分を否定しているのに、周りからも存在否定を喰らう。


 世界が、敵だと思った。

 実際、僕の周りの世界は敵しかいなかった。


 命を絶とう、そう決めたのは手をつけていない弁当箱が五箱ほどゴミ箱に積み上がった頃だろうか。

 彼女もなくして、たくさんの知らない人に嫌われて、他には何もない。

 つまり、僕はマイナスでしかなかった。いっそせいせいした。心残りなく首を吊れるというものだ。僕が死ねば、みんな喜ぶ。


 隠し持っていた、ロープをとりだす。これを用意したのは引き籠もる前だった。だからあれの監視を逃れることができていた。あれも、大層驚くことだろう。驚いてくれるよな、死ぬときくらいは。僕の動かない体に目を向けて。


 死にます、と投稿した。どうぞ、と顔も知らない相手から承認がくる。みんな僕が嫌いみたいだ。嬉しいな、僕の死が祝福されるなんて。


 ロープを固定する。首を入れる。目を瞑って、あとはぴょんだ。それで楽になる。


 足が震えていた。僕はこの期に及んで。でも、不思議と恐れなかった。

 死へと飛び込んだ。ロープが首を圧迫する。死へと誘ってくれる。

『じゃ、また』

 幻聴がした。


 ああ、と思う。

 愛されたかったな、と。それだけは心残りだった。


 僕が死んで、誰かが悲しんでくれたなら。

 視界は黒く染まった。


「瑞素!」

 誰かが、僕を呼んだ気がして。

 そこで、終わった。

 さようなら、あの世界。




「おはよ」

 声をかけられた。

「ね、瑞素」

 名前を呼ばれた。

 きみが好きだ。



 働キ者にも話さなかった、これが僕の最後で最初だ。

 シラピを、母から取り戻そうと、そう決心した。

 僕は外でも、ひとりで立てるようになったのだと。それは、シラピのせいだった。


 #四章2


 外に出た。『あれ』の指輪を握りしめて。もう『あれ』を母などと呼びたくない。

 まだ、外には働キ者がいた。岩ばかりの空を見上げている。

「なあ」

 僕は向かう。

「シラピはいま、どこにいるんだ?」

「……」

「教えてくれよ、ストーカー野郎」

「……断る」

「な、なんでだよ」

「今のニンゲンはシラピを傷つける」

「……そうかよ」

 僕はひとりで、歩いていった。

 働キ者は止めなかった。



 うろついた。見つかった。シラピの方から見つかりに来てくれたみたいだ。

「あの、ごめんなさ」

「なあ」

「……はい」

「マスターのところ、連れていって……くれないか」

「……ぇ」

「頼む」

「……私もそのつもりだったの。きて」

 声のトーンを落として告げられた。

「……?」

 真意が読めなかったが、都合がよかったので素直について行く。

 シラピの声を聞いて、安心してしまった。心を穏やかにすることを心がけて、あれと相対することにする。


 シラピは歩いた。それに従った。いつも誰かについていってばかりだな、と思いながら、弱い自分はこうすることでしか前に進めない。


 下を向いて歩いていると傾斜が急になってきて、息があがる。

「ついたよ」

 そこは池だった。奥に、古ぼけた箱のような。

「……電車?」

 それは、打ち捨てられた電車だった。車輪を池につけて、時が止まったように佇んでいる。

 車輪の下を、水が流れていった。

「これは私のわがまま、になってしまうけど」

「……うん」

「きみのお母さんに、優しくしてくれないかな」

「は」

 無理だ。無理に決まっていた。全ての元凶である「あれ」に優しくするなんて。

「おねがい!」

「できるだけ、なら……」

「……危篤なの。もう、先はない」シラピは俯く。

「え」

 飲み込めない。考えてもみなかった。――母の、死。

 いまさら僕が、どんな顔をしてあえばいいと。最後に、怒りをぶつけるのは正解なのか。

「時間がない」

 シラピに手をひかれる。

 電車の中に、足をかけて入った。

 覚悟のつかぬまま。


 #四章3

 

 そこは、粗末な空間だった。

 莫大な成果を遺す天才研究者が、最後に住まう部屋としてはあまりにも惨めで。

 つり革が揺れている。心も揺れている。

 車両の床は傾いている。心も傾いている。


 床を踏むたび、ぎしぎしと古い車体が軋んだ。どうしてここを最後に選んだのか、それは分からない。


 奥に、布団を被ったベッドと周りをまとう医療器具がある。

 技術が発達したであろうこの世界にしてはあまりに簡素な設備だった。


 もう終わりが近くて、治療を打ち切った、ということだ。本人が治療を望まなかったのかもしれない。

 静かな終わり。

 

 頭は意外と冷静だった。いや、どうでもいいことばかりに思考が裂かれているだけだ。母とどう接するか、ぐるぐると多くない選択肢が渦巻く。


「マスター」

 シラピが、努めて明るく言った。

「ごめんなさい、瑞素を連れてきました」

「……」

 返事はない。

 シラピが僕の手を引いて、枕元に立った。

 顔を見てしまう。

 母は頭の中より多く、年をとっていた。

 しわくちゃになって、皺がよっている。

 髪はすっかり灰色に染まって、年相応の重みが感じられた。

 母は必死に一人で生きていたのだと、苦労があったのだと。 僕が長い時間、母をこの世界に置き去りにしていたのだと、そう悟った。


 手首は細い。顎も頬も痩せこけている。


 なにも声は出ない。怒りはどこかへ冷めてしまった。


 僕も母も一人だったと、そう悟っただけだ。

 同族への憐れみをいまさら向けたところで、何も生まない。


 ふと、目が開かれた。

 目線が合う。僕と母は、再開してしまった。


 何かを、何かを伝えようとしていた。


「耳を近づけて、あげて」

 言われたとおりに、耳を寄せた。


 命をかけて、紡がれる。

「……ご、め」

 ご、め。

「ん、な……」

 ん、な。

「さ……」

 さ。


 息が切れて、

「ぃ……」

 い。


 ご、め、ん、な、さ、い。


 ごめんなさい。


 目を覚まさなかった。

 瑞素は、呆然としている。


 初めてだった、母からの言葉、それは謝罪だった。


 怒りも憎しみも、憐れみも、悲しみも、なにも出てこなかった。

 黒い靄が心をまとわりつくだけ。


 僕になにがある。



「あの……」

 シラピが、手を握ってくれていた。

 やっと気づく。手が痺れている。僕とシラピのどちらが強く握っていたのか、きっと二人ともだ。

「伝えておきたい、と私は思う。あなたの母のこと」

「ああ」

「いいの?」

「頼む」


 空白を埋めたいと、思った。

 僕が目を逸らせないと手に力をこめたのは、僕と母から目を逸らさなかったきみのおかげだ。


 #シラピ回想


「マスター」

「ああ……どうした?」

 机に伏せていた頭をのそりとあげて、マスターは頬を引き攣らせた。これが彼女なりの微笑みなのだと、私は知っている。


「そろそろ、休んだほうが」

「……あと少し、あと少しなんだよ」顔を俯かせて、マスターはぼやく。

 過労のせいで身体はぼろぼろで、病気がいくつか見つかって、マスターが生きていられるのは進化した医療技術の恩恵。残り時間は少なく、焦っていることは知っていた。それでも。

「自分のこと、大事にしてほしい……です」

「ああ」

 また、マスターは頬を引き攣らせる。少しはその笑みも様になったのかもしれない。

「君は優しいね。ぜひその優しさを……あの子に向けてほしいんだ」

 マスターは、マスターの息子のことを『あの子』と。そう言うのだ。

「それはお任せください」

 そのために、私はマスターに造られたのだから。

「ああ、敬語もあの子には使わないでほしいんだ」

「わかりまし……わかった」

「……私なんかに馴れ馴れしくしてはいけないよ」マスターは自分を責めるように、眉をしかめるのだった。

「そうですか……」マスターに距離をとられるのは、ちょっと残念だった。


「さて」マスターは、ディスプレイを見つめる。それから、段ボール箱を見て目尻を下げた。

 なんだ、そんな笑い方もできるのではないか。

「あの子の復活まで、もう少しだ」

 私とマスターが共に生きる時間も、もう限られている。



 いよいよだった。

 マスターは、よく咳き込んでいる。命を懸けた計画をやりとげ、すっかり魂が抜けたようだ。マスターの死は目前に迫っていた。

 段ボールを抱え、それから弁当を。味は酷いものだと知っているが、この弁当には愛が詰まっているのだ。マスターがぶつぶつ呟きながら頬を引き攣らせて、丹精こめて弁当を作っていたのをこの目で見ている。

「いっておいで」

「はい、いってきます」


 通路を抜けて、段ボールを落とさないように慎重に。たどり着いたのは、一つの部屋だった。

 中に入って、深呼吸。これから、『あの子』と対面するのだ。

 段ボールを開封して、自動で電源が入った。。

「世界なんて、消えたらいいのに」とか、マスターが言いそうなことを言っている。頬が緩んでしまった。


「おはよ」

 そう声をかける。

 目を見開いて、私を見た。

「え、と……」

 会話はぎこちないが、反応は返ってくる。たぶんこれが素なのだろう。・

 大丈夫、マスターが命を懸けたこの子はちゃんと動いていた。



「どうやら都市管理プログラムの自動更新が独走しているようで、君のシフトを変更するのが困難になっている。一日三回、一時間ずつを『充電』という名目でしか時間を割けなくなってしまった」

「マスターの介護もありますし、それで構わないかと。残念ですけどね」

「管理者権限も、私のものを複製して付与するしかなかった。私ももうすぐ終わることだし、構わないだろう」

 マスターは自力で歩くことができなくなっていた。それでも私の話に耳を傾け、この都市のプログラムと格闘している。今は瑞素よりも、残り時間の少ないマスターを大事にしなくてはならない。


「どうしますか、瑞素との関わり方。なかなか会話がうまくいかなくて……」

「すい……あの子に好かれないといけないな。そうだな、ビーフシチューでも作ってくれないかい。この動画を見てくれ」

 その動画に映っている人間は、私とそっくりだった。深く問わない方がいいのだろう、と思う。マスターはだいぶ意識が混濁しているようで、気が回らなくなっていた。


 私とマスターは、瑞素のことを日夜話し合った。傍目から見ても、それは幸せな時間だっただろう。


「瑞素、私に話しかけてくれました!」

「嬉しいな、なによりだ」

 

「瑞素、笑ってくれたんですよ!」

「よかった……」

 

「瑞素、料理を褒めてくれました!」

「ふぅ……」

 

「瑞素、外に出ちゃいました」

「……」

 この頃には、声を出すのも辛そうにしていた。目尻が微かに緩むことで、マスターに言葉が届いているのだと分かる。


 ある日、それは大事件だった。

「デートしようって、言われました」

 頬が赤らんでいるのが自分でも分かる。なんだかおかしなふわふわした気分だった。

「……」

 動けないマスターから、一滴の涙が落ちた。マスターも、私と瑞素を祝福してくれているのだ。もっと嬉しくなる。



 小指が三回、動く。事前に取り決めた合図だった。

 ああ、と悟る。

『延命治療を中止してくれ』彼女の最後の、命令だった。


 言われたとおりに、するしかなかった。

 もう、どうしていいか分からないのだ。いつもマスターの指示に従っていたから、全てを自分で決めることに慣れない。

 瑞素とマスターを再会させたいな、と思う。

 それで瑞素にマスターの話を振ってみていたけれど、反応は芳しくなかった。嫌っているのだと、分かってしまう。

 マスターも、自分から瑞素と会おうとしなかった。会いたがらないのは、恐れているのだろうか。瑞素に責められることを。それとも、自分への罰なのだろうか。

 マスターと瑞素はそういうところがあるのだ。自分なんかが幸せになるべきではないと、不幸であることが保たれるのが安寧なのだと。自分自身を卑下するなんて、誰も幸せにならないのにと思ってしまう。彼らにとって、責められることが生きることへの赦しになっているようなところもあるのだ。


 ともあれ、これからマスターが私と瑞素の進む道を指し示してくれることはない。

 不穏を感じた。


 #贖罪


 東雲鈴。ロボット界の異端児、新たな技術革命を引き起こす天才。

 考えて、考えて、ひたすらロボットを見て。名は後からついてきた。そんなものに興味は無かった。

 どこか寂しい、と思ったことはあった。だから都合よく、騙された。愛して愛された、はずだったのに。

 籍をいれることすら叶わずに男はお金と心と身体を毟り取って東雲鈴を捨て、赤ん坊だけが手に残った。

 瑞素、という名前だ。自分が好きな原子、Hの水素からきている。

 人とは、接したことがなかった。分からなかった。だから、一番小さくても何かと強く結びつくことができる、可能性にあふれた原子に願いを重ねた。自分のようにはならないようにと。


 育児は、散々なものだった。よくぞ大きく育ってくれたものだ、一度も意思疎通がとれていないというのに。

 誰か、ヘルパーを雇えばよかったのかもしれない。しかし、私は視野が狭すぎた。

 世界は敵だった。技術そのものに興味はなく、研究成果とそれが産む金だけに目をギラつかせるやつらばかりが東雲鈴に近づいてきた。

 捨てられてごまをすられて、東雲鈴は人への信用というものをもっていなかった。


 愛していたのだ、本当だ。確かに、一人息子へ愛情を抱いていた。

 その愛の向け方は、分からなかった。


 自分の得意分野の研究をしてみようか、と考えてみた。思考パターンを読み取ろうとして、失敗した。ロボットの思考回路とは何もかも前提から違う。全く論理的でない行動ばかりとるのだ。

 東雲鈴はそれが求愛行動なのだと知らなかった。それどころか、分からないものに怯えすら抱いてしまった。あげく、息子に怯えを抱いた自分を責めた。

 それでも、ロボットの研究と平行して息子の研究を行っていた。部屋での行動を逐一記録し、思考回路を紐解こうとした。精神を疑似再現、するところまではできた。受け答えや行動をシミュレーションできるものだ。

 皮肉なことに、息子のためのこの研究はロボットへと応用がきいた。さらなるロボット界の権威として東雲鈴は持ち上げられてしまった。

 

 このシミュレーションを息子に話しかける練習にしようかと思ったが、シミュレーション結果が分かったところで東雲鈴は人に話しかけられない。男が、そもそも人間が、怖かった。完成したときもう瑞素は高校生と大きく育っていて、自分が関わらない方があの子のためになると思った。いまさら、母親ずらなどできない。


 不自由にはならないようにと、物だけは買い与えることができた。ロボット研究でお金には困らなかった。何かを買っては瑞素の部屋のドアの前に置いた。


 料理は下手だった。何度か挑戦したのだが、どうにも味が悪い。自分が食に無頓着なのもあって、必要な栄養素をとろうとするとさらに味か見た目かが壊れていく。上達することはなかった。


 で、突然引き籠もった。何がきっかけだったのかは分からない。

 で、死んだ。

 心拍数が急激に減少している。それを警報が告げた。救急車をよんで、研究施設から自宅へ車を走らせた。

 遅かった。間に合わなかったのだ。


 私は息子を失った。当然、私のせいだ。たったひとりの親である私が何をしてあげることもできなかったから。

 美味しいご飯を食べさせてやれなかった。

 話しかけることができなかった。

 笑顔にさせることができなかった。

 友達をつくってやることができなかった。

 愛を、教えてやれなかった。


 幸せに、できなかった。


 だから、ごめんなさい。



 東雲鈴はこれからの人生の全てを、息子への後悔に捧げることになる。


 世界を創ろうと思った。

 出来の悪い息子が苦しまなくてもすむような。


 愛を与えようと思った。

 私以外の誰かが、それをするべきだと思った。私の醜い愛は、与えられない。


 生き返らせようと思った。

 神に逆らう所業をやってのけないと、先二つの意味は無い。


 すべて、瑞素を幸せにするために。

 壮絶な人生。顔に皺が増えていく。

 東雲鈴は休む間もなく、生きている限り動き続けた。


 #いま


「確かに、マスターは……あなたの人生を狂わせてしまったのでしょう、でも」疲労感の漂う瞼を雑に擦って、「あの人が、君のお母さんは。確かにあなたの幸せを願っていた、それだけは」

「それだけは絶対、私が。譲らない」


「……」

 母を、見た。瞼を閉じて、皺の寄った顔は苦しそうだった。

 何も言葉は出てこない。僕の苦しんだ道と、彼女が苦しんだ道は決して交わらなかった。

 僕が尽くせる言葉はない。母の笑ったところさえ、僕は見たことがないのだから。


「ゆるして……許してあげて、ほしい。まだ生きている」

 パネルが示された。母の鼓動が、数字として刻まれている。

 会話が聞こえて、いるのかもしれなかった。


 僕が、許せだなんて、そんな。いま初めて、二人の道がようやく交わったというのに、ここで終わりなんて。


「ほら」

 シラピに焦りが見えた。


 僕は、僕は。

 母に、何を感謝すればいいのだろう。

 酷く不味い弁当を作ったこと。愛を向けようとした、母の不甲斐なさの象徴だったかもしれない。味の悪い弁当を作るたびに、自分を責めていたのかもしれない。

 僕の死を悲しんだこと。僕が見つけられなかった、たった一人きりの愛だった。

 僕を生き返らせたこと。長い長い先の見えない暗闇で、母は僕を取り戻すことだけを考えていた。

 僕に世界を与えたこと。僕の為を想って、ずっと僕のことを考えて、僕の理想の世界を用意しようとした。

 僕のシラピを造ったこと。母は自分を責め続けてどうにも自分では成し遂げられないことだから、僕を愛してくれる代役を用意した。


 思う、果てしない彼女の道のりをひたすらに想った。

 それは憐れみを覚えるほどに不器用で、それでも間違いなく彼女の想いで動いた結果だった。


 なんだかすごいなあ、と思えてしまう。不思議と、心の内から純粋な想いが湧いてきた。

 僕ができなかったこと、それを僕に与えてくれたこと。

 僕がこれからするべきこと。


 前提から僕の土台はぐちゃぐちゃにぬかるんでしまって、嵐の中にいる。

 それでも、いましかできないことがあった。


「お母さん」

 嫌いな自分の口で、もう嫌いじゃない母に、初めての言葉を発した。


「……ありが、と、う」

 頬が緩んだ、ように見えた。届くように縋った故の、幻覚だったのかもしれないけど。


 それから、僕は、それから僕は、何を言えばいいのか。

 伝えないといけないことはいくらでもあって、残り時間はなくて、それで――


「手を握って、あげよう」

 シラピの声が場を制した。

 あれ、と思う。母からもれる息が弱くなっていた。心拍数が落ちている。


 僕の感謝が届いて、天命を果たし終えたかのように。

 お母さんは、安らかな顔をしていた。


 勢いに任せて、母の手を包む。自分の手が汗に浸されていることに気づいた。その上から、シラピの手が重ねられる。


 手のひらから、母の体温がだんだんと低くなっていく心細さを。

 手の甲から、シラピの確かな保たれる人肌の温かさを感じて。


 母は、死んだ。


 しばらく空白の時間をさまよったあと、二人で部屋を離れた。


 じゃ、また。と心で投げかけて、それからの道は覚えていない。


 #四章4「間違ってる夜」


 シラピが、いてくれている。

 今夜、ずっといてくれるらしい。

「瑞素は、よくがんばったよ」そう言われた。僕ががんばらないといけないのは、これからだと思うけれど。

 僕は黙ってベッドに横たわって、ベッドに肩をもたれかからせて天井を見るシラピを見つめていた。手は、しっかりと二人の意志で繋がれている。

 たぶん母の眠る部屋を出てから、ずっと。


 正直にいうと、怖い。シラピにはもらさないけど、薄々気づかれて慮られているのだろう。だから普段とはちがって、僕をこの世に繋ぎとめるためにシラピはずっと、僕の部屋にいる。

 もしかしたら彼女も寂しいから僕の部屋にいて、僕の温かさを感じてくれている。そうだったらいいなと思ってしまった。


 僕が何者かとか、この世界を母はどう創り出したとか、謎だらけの海で脳が溺れてしまいそうだ。もう考えたくなかった。だからシラピの手のひらの感触を、ずっと確かめていた。

「ひゃっ」

「あ、ごめ」

「いえ、くすぐったくて」暗闇で、シラピと目があった「いいよ、続けて」

「……うん」

 今夜は眠れそうになかったから、僕はシラピの存在を感じ続けていた。


 ちゃんとした会話はなくても、想いは通じている、だろうか。

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