三章「ねえ、想いを抱いてしまった。」

 いろいろあったけど、ずいぶん世界と自分には苦しめられたけれど、なんだかんだで僕は生きていた。

 なぜかってそれは、彼女が隣にいてくれるからだった。


「マスターは、料理が苦手」

 シラピがいる。

「そうだっけ」

「でも、私は得意」

 胸を張って、僕にかわいいところを見せてくれる。

「うん、おいしい」

「よかった」

 シラピが顔をほころばせたので、僕も頬が緩む。

 また、心が一段軽くなってしまう。

 

 今日の朝食は、クリームシチューだった。

 朝食、といっても僕はずっと部屋の中にいるのだから、彼女がこの部屋を出て行く前の食事という意味でしかないのだけど。

 昨日の残りのクリームシチューは、じゃがいものがとろとろに溶けてしまったようで、胃が温まって幸せになれる。白米にも存外マッチしていて最高だった。

「ごちそうさま」

「はい、お粗末様」

 彼女は僕が完食した皿を嬉しそうに受け取ると、流しでぱぱっと洗ってしまった。

僕がやると申し出ても、彼女は家事を頑として僕に譲らない。


 流しから戻ってきた彼女は、ベッドに座っていた僕の隣に腰かけた。

 コードを充電器からたぐりよせ、銀髪をたくしあげると、細いうなじが露わになった。

 そこに、USB-Cを差し込む。

 毎日3回行われる一連の動きはすっかり見慣れて、さきほどのシチューのじゃがいもの様に日常に溶けこんでいた。

 充電が終わったら、彼女は外に出て行ってしまう。

 仕事、とか言っていて、僕はよくわからない。心配してくれる彼女に申し訳ないから、シラピに怒られて以来、僕は一度も外の空気を吸っていない。

「僕は幸せだね」

「それはよかった」

 細い指先で僕の頭を撫でながら、彼女は穏やかな声で言う。

「もう、ずっとこのままでいようね」

 シラピと僕の心が通じ合っている気がして、くすぐったくなった。

 そうだ。ずっとずっと、永遠に永久に、この関係が続けばいい。

 毎晩、岩場の切れ目から見える範囲の星に祈っている。この世界に神様なんてご立派な存在がいないのは分かってるけど、縋る対象がほしかった。

 けれど星が見えることは、少なかった。この街は雨が多い。半分以上は雨だ。雨は窓全面をぼやけたベールで覆い尽くすほどに流れてくる。


 幸せなんてそう続かない、と誰かが自分の声で囁きかけてくる。これは弱い自分だ、弱かった自分。無視していれば、過ぎていく。悲観することはない、はずだ。


「ねえ、不安?」

「きっと、大丈夫」そうだろうと信じて。

「うん、そうだよね。……瑞素、好きだよ」


 でも。そう簡単に、僕を褒めないで欲しい。

 その笑顔は、とても愛おしいものだったけど。

 これは、僕と君の差だった。

 僕は、閉じこもった部屋の中。

 君は、僕がよく知らない外に出る。

 僕は全てをシラピに委ねていた。


「じゃ、また」

「いってらっしゃい」

 僕はまた1人、部屋に取り残される。どんな気持ちで、毎日3回も遠ざかるシラピの背を見送ればいいんだろう。

 そうシラピと過ごせるのは一日三回だけ、それも一回一時間。

 シラピと会っていられる幸福な時間は、たった一日三時間ほどだった。それは最初からずっと変わっていない。

 その空白が気にならないと言えば、それは全くの嘘になる。でも大丈夫、そんな気持ちは押し殺しておけば三時間だけは幸せだ。それで満足しておけ、自分。


 #三章1 夜


「よお」

 扉が開くのを見てぱっと立ち上がったが、シラピではなかった。銀色のドームを覗かせるのは、「元気にしてたか?」

 働キ者だった。

「……いいの? シラピのストーカーをしなくて」

「愚かなニンゲンは先に片づけておいたぞ」

 皮肉ったつもりが、ストレートに返されてしまった。ロボットは強い。

「で、なにやってんだニンゲン?」

「ええと?」

「お前を待っていたんだぞ」

「どこで」

「当然、S-13の背後でだ」

「ブレないね、働キ者」

「ニンゲンはやはり全く働かないな。何で外に出てこなかった?」

「シラピを心配させられない」

「はあ」

「そもそも、外に出るなってのは働キ者が言ったんじゃ」

「思いの強さがたらんのか! S-13を知りたいとは思わないのか!」

「まあ、できればそうしたいけど」

「こなくて正解なんだよくそ、のこのこ顔見せやがったらオレが直々に殺ってやったからな」

「まじかよ……ここには、僕を殺しに来たの?」

「そんなことするかよ」

「しないのか」

「ああ」

「よかった」

「ふぬ……? つい最近まで死にたそうにしておったのにな。会話のセンスも多少向上しているように見えるぞ」

「そうか?」

「いらいらしてきた」

「なんで!」

「はあ、仕方ない儂が選んだ道じゃ」

「老けてるよ」

「う……」

 ふと、機械との距離感を思う。

「……なんか」おそるおそる、慣れない言葉を使う「友達、っぽい?」

「は?」

「え、違ったよねごめん」

「まあよかろう、オレとスイソは運命共同体だからな」

「そうなのか」

「二人でS-13を幸せにする、どうだ?」

「お、いいね」

 出会いこそ、殺されかけて、両方ストーカーで、また殺されかけて、シラピに見つかってしまって、それはそれは散々なものだったけれど。あれも、シラピへの二人の想いが不器用にすれ違った結果だったのだ。

 どこか似ているし、想いは同じだし、今は親しみすら覚えてしまう。

「よろしくね」「よろしくな」

 金属と、人肌。温度も違う二つの手が重なる。僕たちは契りを交わした。

「シラピを泣かせることはしたくないな」

「それだけは命を懸けてでも阻止するね」

「はあ、まったくな」


「それはそうと、スイソ」アームを腰に当てて「お前ガ知らないシラピに関しては、オレが一番詳しい」

「むかつく……」

「事実だろ?」

「ああ、そうだな。恒常ストーカーだし」

「だからいつシラピが帰ってくるか、どこを通らなければシラピに会わないか、オレならお見通しなわけだ」

「それは?」

「シラピにバレずに外に出られるぜ」

「それは、いいのかな……」

「バレなきゃ罪じゃねえんだ。いいのか、このままで」

「うーん……」

「それに」イメージセンサの瞳でどや顔を見せてきた。雰囲気で分かる。「お前に見せないシラピの日常、オレが教えてやれるぜ?」

「はい、外に出ます」これはご機嫌取りをしなくては。

「よし、行くぞ」


 硬かったはずの意志を捨てて、外に出ることにしてしまった。仕方ない、僕はシラピが好きだから。


 ――好きだから。


 こうして、再び外に出た。

「雨だ」

 湿度が高くじめっとして、気持ち悪い。岩場に囲まれたこの街の構造上換気が悪そうだ。

「正確には全て地下水だ。そろそろ冠水期だな」

「そうなんだ」上を見上げる。確かに、岩場の隙間からのぞく空には星空が見えていた。この街の外では雨が降っていないらしい。部屋の中では雨のとき視界が悪いので、それが分からなかった。

 空が覆われる岩場から染み出るように、水が降っている。流れる水はまた平行な別のルートからきているのだろう。

 冠水期。普段さえすごい雨なのに、これからさらに酷くなるのか。

 足元を、川のように水が流れる。排水口も見当たらないし、この多量の水を全て地面の下に隠してしまうのは難しいのかもしれない。だから街に、水を垂れ流している。アスファルトにコケやカビが多いのはそのせいか、と納得した。

 苔むした岩場は滑りやすくて危ない。じゃぶじゃぶと水に沈んだコンクリートを、ぴかぴかだった白いスニーカーで踏んづけながら歩く。

 子どものときにそんな思い出があっただろうか。いま踏んづけている水たまりのスケールは大きくて、ちょうど子どものときには水たまりはこんなに大きく深く見えていたのかもしれない。海の大きさに限りがあると知ってしまったときの喪失を感じる。


「で、ここだな」

 足場が悪くて、足元ばかり見ながら働キ者を追いかけていた。

 顔を上げると、

「ここは?」

 屋根はレンガ、茅葺き、瓦、トタン、無秩序に溶けあって、混沌とした有様だった。壁なんかはもうひどい。岩の欠片を無理矢理繋いだように素材が混合されている。

 それが、体育館ほどの大きさで岩場に埋もれていた。

「文化保全センターだ」

「はあ」なるほど面白い。文化破壊センターの間違いではないかと思った。

 石造りの階段を数段上った先にある。ちょっとした高台になっているので、街の洪水は届いていなかった。水から抜けた靴と靴下はぐちょぐちょで気持ち悪い。

 水のすぐ乾く足跡をつけて、建築物へ進む。

 下開きになっている鉄の扉を開けて、

『ばっちり認証! ようこそ、東雲鈴様』

 お出迎えは合成音声だった。

「だから僕は瑞素だって……」

『おいでなす、東雲鈴にゃん』

「ああ、もう」

「諦めろ、これは融通がきかない」

『らっしゃい、文化の保全にお力添えくだされくれめんすひやしんす』

「……とち狂ってる?」

「いや、平常運転だな」

「はあ……で、ここはなんの場所?」

 中身は一面純白の空間で、どこにスピーカーがあるのかも分からない。

「ここは」『ここは文化保全センターじゃかじゃかじゃん、文化保全のための本邦初の施設ですです。この都市の設備の中核を成し、この施設がなくしてはこの都市の存在意義はありませんぜ、お兄様♪』

「はあ、つまり?」

『存在しているだけで存在価値がある施設なんやねんなんやねんそれ』

「もはやセルフツッコミ……なにもしてない、ってこと?」

「いや、こいつは文化の保全をしている。おいアナウンス、何を保全しているんだ?」

『文化的食品群、文化的家庭、文化的物品類、文化的共存動物などなど多用途でございますわよちくしょー。本施設は持続可能な開発目標を達成し完全に循環された保全構造で動作しておりますおれマスター』

「ええと?」

『この都市は文化を未来に残しニンゲンの生産活動には意義があったものとしらしめつまり種の自己満によって創造された素晴らしい都市でございまっするわん!!! なにがいいたいかというと文化と伝統は大事!!!!!!!キーン! だから文化は守れ!!!!!!!!!!!!きゃーん!』

「うるさ……」「だな……」

『おおと話がそれましたわよござんす兄ちゃんさん、にして何用で? 東雲鈴くん』

「だから僕は瑞素」

「ロボット用オイル、あるか? 一番良いやつだ」

『あんただれ?』

 働キ者に目配せされた。しかたなく復唱する。

「ロボット用オイル、あるか? 一番良いやつ」

『かしこまり! ごめんねえ、うちの子さわがしくてござる。久しぶりにお客さんがきたのだ!!!うれしいのだ!!!なんちゃっててへぺろ』

 一分と待たず、白い壁からぽっかり穴が空いて、スチール缶容器が押し出されてきた。穴の奥には鈍色の機械が所狭しとひしめいている。

「それと、履歴を出せるか?」

『テメエどこのシマのモンや? ああッ?』

 また目配せ。しかたない。

「履歴をくれない?」このやかましい機械、僕の言うことしか聞いてくれないみたいだ。僕を鈴、つまり僕の親と思っているみたいだし……また、あいつか。

『神はいないため、カウントアップ方式でお伝えします。

 現在から 14:05前 S-13(東雲鈴代理)鶏肉、タマネギ、ホワイトペースト、パン……』

 シチューの材料だった。

「もういい、十分だ」

『きゃー、不審者よ!』

「もういい、十分だ」

『合点承知。完了』


 働キ者の用件は終わったようで、そくささと奇妙な建築を後にした。心なしか足元を流れる水量が大きくなったように思う。

「シラピにはオレと違って権利が付与されているようだな。毎日ここを訪れているが、お前のためみたいだよな」

「毎日あの騒々しいやつを聞いて僕の料理を……」

「健気なもんだぜ」

 そういえば疑問だった。このぶっ壊れた都市でどうやって食物を入手しているのか。体育館ほどの大きさがあることだし、文化保全センター(笑)のなかで生産しているのだろう。

 となると、もう一つ疑問が浮上する。

「じゃあ、この街の住民は何を食べてるんだ?」雨が降っているからか、夜中だからか、

「気になるか? もう一つ施設がある」

「いまから、時間ある?」

「ああ、すぐ隣だ」


 ここだ。働キ者が、言った。

 そうか。頷きで返して、僕は足を踏みこむ。


 異様な施設へ。機能性だけを重視したように、四角く囲われた箱のような形状をした建築物。景観への配慮などは一切考えておらず、蔦が伸びても木が天井から生えても、お構いなしだった。

 ロボットが出てきた。ベルトで動く、運送特化のモデル。透けたバックパックの中身からはプラスチックの白いパックがいくつも見えた。これから各コンテナに配るらしい。


 中に入る。

「認証しました」

 あっさりと、それだけ言われた。

中には大量に、白いパックだけが置かれている。

「これは何?」

「アーカイブ人間用の完全食パックです」

 働キ者は蒸気を吐く。

「どうした?」

「オレが好きだった女は、これを食べなかった。それを思い出した、だけだ」

 誰のことだろうか。働キ者に、それ以上話す気はなさそうだ。

「……? 僕、食べてみてもいい?」

 このシンプルながら異様さを放つ冷たい食品に、興味があった。

「やめておけ、醜いニンゲン共に成り果てたいか?」蒸気を吐く。

「いつか言っただろう、これは幸福剤入りだ」

 なるほど。つまり、住民たちが正気でないように僕の目に映るのは。

「幸福剤は、脳を溶かす。上手い塩梅に、世界に反抗できないように、身体だけがアーカイブされるようにな」

「……」

 それは、なんというか。

 これが理想の世界、なのだろうか。僕には分からなかったけど、これを食べたくないと思ったのは確かだ。シラピの作った料理のほうがきっと何千倍も美味しい。

「なあ、もっとこの都市を教えてほしい」

「もう一カ所、つぎは世界を俯瞰できる場所に案内してやる」

「お、頼む」

 ふたたび、足元を見下げながら働キ者の背に従っていく行軍が始まった。

 ずぶずぶ、ずぶずぶと膝までの半分を地下水に侵食されている。心まで沈みそうだと思っていたら、進路に水が途切れていた。

「登るぞ」「ああ」

 岩が見えている先、上り坂になっていた。両側を岩に挟まれている。

 もしかして、というわくわく。僕は一度見てみたかった。僕の家も有象無象のコンテナに埋もれていて、何も情報がないものだから、これから見る景色は経験したことがない。


 もう、ずいぶん部屋から出ていなかった。部屋のなかで動いたりもしていなかった。

 腕や足はやせほそっている。足ですべる岩を踏みしめながら上を目指す。

 肺活量がなかった。ぜえぜえ、はあはあ、みっともなくも着実に足は動いている。

 働キ者はずんずん進んでいって、おいていかれないように必死だった。


 働キ者の足が止まる。

「洞窟」

「この都市は洞窟の中、そのさらに中の洞窟だな」

 二重洞窟、分かりづらい。

 働キ者の頭の前方灯が申し訳程度に光り、狭い洞窟を照らしながら進む。

 足元は滑らかな岩石で、気を抜くと転げ落ちそうだ。

 ずっと先に白い円がある。歩むたび、大きくなる。

 僕らは、進み続けた。

 

「ついたぞ」

 どうやらこの先が、僕が見たかった景色らしい。

 心を決して、光に飛び込んだ。


「わ……」

 光の暗さに慣れない。雨のなか暗い街も、暗闇の洞窟からでてくると眩かった。

 だんだんと視界がはっきりして、映った。

 ここは高い。十回建てビルくらいある。だから、はっきり見える。

 僕が見たかった、この世界の、全貌だ。


 拓けている。僕が見ることを遮るものは、なにもなかった。

 赤に青に、コンテナが数えきれないほど並びたてられている。最初の方は計画的に置かれていたようだが、次第に乱雑になっていったこともわかる。場所が足りなくなったのか、縦に3個積まれているところもあった。

 いくつか、岩壁にそって、コンテナとは違った設備がある。さっきいった文化保全センターもそうだ。やっぱりごちゃついた屋根は酷い。文化の破壊だ。

 水の流れをたどっていくと、大きめの池が高台にあった。湧き水がでて自然に造られたものだろうか。そこから、街全体に水が押しよせている。水に覆われていないところはなかなか見当たらない。なるほど、これは冠水期だ。

 意外と緑の木々もある。湿気や多雨に耐えられる品種が多いが、コンテナやら岩の間やらからほうぼうに自由に生えていた。

 いろいろと視点を動かして、街の様子を堪能できる貴重な機会をむだにしてはならないと、緊張ながらに目を見張らせた。


 やっと、心が追いつく。

 まとめると、綺麗だ。きれいだった。この街は、美しい。断言できた。


 ほう、とため息をつく。人間は棲みついているけど自然に遠慮していて、感情的な人間とは意思疎通も取らなくていい。論理的な会話をこなしてくれるロボットがいるだけ。変なやつもたまにいるけど、ロボットは何もしてこないしそいつらは何も考えてないと分かる。僕にとってここは無害な世界だ。

 満たされる水、佇まう木、天井のわずかな隙間から月光の線がはしって、彩りを差す。

 幻想的で、夢みたいだ。僕はいったいどうしてこんなに素晴らしい世界を訪れて、住むことができるんだろう。


 それと。謎があった。外に出る手段はあるのか、と疑っていた。裏を返せば、誰かが入ってくることはあるのか、ということ。

 なかった。一面を岩に囲まれていて、ここは洞窟のようになっている。入りこんでくるのは圧倒的な水だけ。外界からの現状変更はない。

 この美しい世界は、きっとずっと保たれるのだ。

 それが、嬉しい。


「いいな、この街」

「そうでもないぜ」

「そうか、僕は好きだけど」

「ま、それでいいんじゃないか」


「ここ、シラピを連れてきたいな」

「おいシラピと外に出るなって……待てよ」

「ん?」

「総点検の日、もうすぐだな。そこなら」

「シラピと外に出られる!」

「ああ、そうだ」

「なに怒ってんの」

「ちっ、怒ってない」

「怒ってるじゃん」


 疲れていたけれど、収穫は大きくて、足取り軽く僕は帰路についた。

 家について、シラピに怪しまれないよう眠ることにする。


「じゃあな」

「また」


 小さな機械が視界の端に入って、それには特に気をとられなかった。


 #三章2 朝


「ただいま」

「おかえり」あれから興奮が冷めずによく眠れなくて、布団の中でごろごろしているうちに。

 バックパックをひっさげたシラピが、僕ときみの部屋に帰ってきた。

 今はそのバックパックに、あの変な機械に打ち勝って手に入れてきた食料が入っていることが分かる。シラピを抱きしめたい、って気持ちがますます高ぶった気がした。

「ごはん、つくるね」

「うん、ありがとう」

 後ろ姿がきれい。手を動かすたび、ボブがすらっと揺れる。

 僕のために料理を作って、僕のために会話をしてくれて。

 胸がどきどきする。もっときみと話したいと思う。もっと、きみと過ごしたいと思う。

 好きだ、シラピのことが。

 自分がおかしかった。リアルな誰かを好きになるなんて、僕からしたらアンリアルだ。

 ついぞはてには、このまま罠に嵌まって暴走してしまうんじゃないかと思った。


 すう、と部屋の空気を吸う。白砂糖のような甘い香りがして、心を落ち着けるには逆効果だった。ここにはシラピがいる。

 意を決して、

「あー……、その」

「どうしたの?」

 シラピが振り向く前に、言い切るべきだと思った。

「デートに、いこう」

 だってその顔をみたら、心が溶かされて何も言えなくなってしまうから。

 僕を見たシラピは、驚きに染まったぱっと花が咲くような笑顔だった。

「いいよ」


 僕は、何も言えなくなった。


 3日後に、シラピとデート。デートをすることになった。僕は意気揚々と準備をする。


 #三章2


「デートに行こう」

 そう言われた。

 嬉しかった。瑞素がそこまで立ち直れていること、何かをしたいと願ってくれること。

 本当に嬉しいのだ。この気持ちが、プログラミングによる疑似的なものだとしても、それは本物なのだと思っている。人が脳内に流す興奮物質と機械の自動的に計算される感情、どこが違ってどこがいけない。それはマスターのセリフだった。とっても大事にしている。

『繝、縺ッ繝ェ繧ェ繧ォ繧キ繧、!!繧ウ繝ャ縺ッ繧サ繧ォ繧、繝イ繧ェ縺ウ繝、繧ォ繧ケ』

 高音をまき散らした、小型浮遊ロボット。部屋に紛れ込んでいた。

『消えろ』

 いったいどうして、いやそれ以前に。

 あれ、と思う。

 もうそろそろ、私は終わりなんじゃないだろうか、と思う。

 世界には抗えない。ただの世界を構成する一ロボットでしかない私も、世界を造りあげてしまったマスターも。

 瑞素を不安がらせないよう、料理の手は止めないけど。

 もうそろそろ、私がいなくてもきみは生きていけるんじゃないかと思っている。

 

 私は十分に役目を成し遂げた。そうだよね、マスター?


 外に出て行く小型浮遊ロボットを見つめている。

 あれは死神だ。


 死神を見て、瑞素は平然としていた。

 だって、きみは何も知らないから。

 きみは、それでいい。

 何も知らなくていい。

 きっと私とマスターは、きみを守ることができたから。


 #三章3 夜 「好きな人がいたんだ。」

 雨が降っている。これが、冠水期だった。

 それを、僕の部屋の前のひさしから


「なあ、瑞素はこの世界が好きか?」

「シラピがいるしな」

「そうだな。シラピを除いて、なら?」

「シラピがいるからな」

「……話しておこうと思ってな。オレの話を」

「よし、聞こうか」

「まあ、恋バナでもしようぜ」働キ者は、蒸気をあげる「オレにも昔、好きな人がいたんだ」

 いたって明るめの口調は、かえって何か裏にあるように思えてしまう。

「シラピのまえに?」

「ああ、そうだな」

「ふーん……」

「スイソにもあったりするのか?」

「まあ、な」

「じゃあお前から、たのんだ」

「え、ぼく!?」

「いいじゃないか、こんな夜だし」

「はあ……わかったよ」

 けっこう暗い話になるけど。


 #回想 『シラピが瑞素と呼ぶ前の、誰でもない誰か』


『じゃ、また!』

「……」

 僕は静かに、拍手を送る。骨の浮き出た右手と左手を、身体正面で力一杯叩く。

 画面の向こうには、背中を見せる配信者の姿。

 こちらが「ばいばい」とか「またね」とか、恥ずかしい言葉を口に出したところで、向こうにはきこえないのだから意味がない。もちろん、この拍手も届かないけど。

 カーテンを閉め切り、彼女だけを見るために照明を落として真っ暗にしていて、数十食分もの弁当のプラスチックゴミやら燃えるゴミの山盛りティッシュが散乱した部屋で、乾いた拍手が虚しく響く。


 彼女を見る。姿を観察し続ける。声を感じる。画面を隔てて、ずっと遠くから。

 これだけが、これらすべてが、僕の生きがいだった。

 僕はこの行為に、確かな生を感じていた。

「おはよ」って挨拶と、「じゃ、また」って挨拶と、その間の会話。

 それは今日何があったとか、大抵何もないからこんなことを考えたんだって自慢とか、だいたい彼女の方からの。

 その話はユーモアにとんでいて、考えもしなかった気づきと視点ばかりで。

 僕を巣食った彼女の思慮深さと愛おしさをより濃くしていって。

 外を知らない僕の、唯一の世界との接点だった。

 

 普段から画面を通してみている彼女が大きな舞台に立って、立派な生き方をしていることが自分のことのように誇らしく思えた。

 僕がクラウドファンディングに送ったお金のおかげで、彼女はこのライブを開催することができたのだ。お礼として手書きのメッセージカードが返ってきた。

 眩しい存在に触れては火傷をしそうだし僕の穢れた手で触りたくない。僕の腐った足を向けて寝られない。

 だから、手袋で丁重に扱い枕元の額縁に飾っている。寂しくなったら、彼女の手書きの『ありがとうございます』を何度も読んだ。白砂糖のような彼女の香水の匂いは、開封時に一度だけ味わった。

 スーパーチャットもしかり。何十万と捧げた。僕の存在のおかげで、彼女にお金が渡っている。そこに救いがあった。魂が救われた気がした。

 お金だけは十分にあったのだ。ある日部屋を出た先の廊下に宅配弁当に添えられて、黒光りした趣味の悪いクレジットカードが置かれていた。その日の弁当は不味かった。酢、レモン、酸味が強すぎる。

 母親は僕に、何も言わない。お金の使い方だけでなく、文字通り何も言わない。

 自分で、分かっている。醜さの極致だった。僕は責められるべきだけど、責められるのは痛い。部屋に閉じこもった。何年も、太陽を浴びずに。僕はとっくにおかしい。


 生配信が終わったので、アーカイブを繰り返して何度も何度も何度も何度も見る。

 起床している限り、彼女の姿を目に焼きつける。

 食事中でもシャワーのときでも夢でも、四六時中彼女の姿を見ていたかった。

 そう市内と僕は、僕を保てないから。彼女の存在を観察しているとき以外の僕に、生きている価値はないから。


 だが彼女の姿を見続けるうちに、人間であることからは逃げられず眠くなってきてしまった。

 夜の暗闇は怖い。彼女がいないから。

 だから、僕は彼女の雑談配信を垂れ流して彼女の存在を感じ続けることにしている。

 安心して、眠りにつく。眠っている間も、彼女の声は僕の部屋を満たし続ける。

 やっと思考を放棄できる。


 ずっと、こんな生き方をしていた。

 僕は、愛されなかった。

 カーテンの隙間から暗い部屋に西日が差したころ、外で遊ぶ子どもたちの騒ぎ声が、耳にやたらとキンキン響いた。

 彼女の配信の合間に流れる動画広告は、やたらと誰かが楽しそうにしていた。誰かと誰かが笑い合っていた。愛されていた。心臓が痛んだ。魂が叫んでいた。

 だがそれだけは、自分の指でスキップせずに見届けた。

 スキップしなければ、彼女に広告収益が多く入ると思って。

 これは自分に課した、自分なりの罰だったのかもしれない。

 世との繋がりを、まだ断ち切れていなかったのかもしれない。

 本当のところはもう、分からない。病みきった泥のような思考回路は支離滅裂だった。


 諸行無常、終わりはあるのだ。僕も、それを待っていたのかもしれない。彼女に頼りきり、命を存在意義を彼女の存在に委ねきる限り、僕が自分から命を絶つことができなかった。

 ある日、目が覚めた。


 朝起きて、僕が特に気に入っていて、2年前の配信から毎日三回は見た料理配信を見ていた。

 僕は宅配弁当での食事を摂るたびに、一時間ほどの尺があるその動画を見ている。

 彼女は、画面の向こうでビーフシチューを作っている。カレーライスは安直でなんだか単純すぎるのがいやだから、という彼女らしい理由で彼女はビーフシチューを作った。


 僕には、誰かに食事を作ってもらった記憶が無かった。

 何を食べてももう、あの稀に送られてくる味が酷い弁当以外は何も感じなかった。食べ物の色すらぼやけてくる。

 だから彼女が作るビーフシチューを見ながら、画面の向こうにある鍋のなかのそれを味わいと彩りとしている。

 コメントを読みながら視聴者と笑って協力して、本当に楽しそうだ。実は僕のコメントも一度読まれている。彼女の笑顔から幸せをわけてもらった気がした。

 結局彼女はその配信でビーフシチュー作りに失敗して、それはそれでいい結果なのだ。

 玉葱を切るときに涙が出て、鍋の底が焦げて、なのに煮込んだ具材は硬くて、でも楽しかった。

『じゃ、また』

 配信を見終わって、とっくに弁当は胃に流しこんだ。

 これも日課である、ネットの海を覗いた。


 顔が引き攣る。

『彼女が炎上』

 ただの文字列、それが彼女の控えめな笑顔と重なって。

『自殺未遂』『引退』『病院から脱出』『消息不明』

 あれ、とぼやく。自分の心臓の音が遠のく。

 僕に、生きる意味はあったっけ。


『じゃ、また』

 いつものお決まりのその言葉が、何度も聞いて受け入れたその言葉が、『また』会えるそのときを信じていたその言葉が、頭の中で呪いのように響いた。


 じゃ、また。

 僕はばいばいとか、またね、なんて言えばいいのだろうか。

 彼女の命に、拍手を送ればいいのだろうか。


 引退。もう、この世界から彼女の存在は消えてしまったのに。


 僕が生きる意味なんて、最初からなかった。

 だって、誰にも愛されていない。

 当たり前に、誰かに愛されるべき世界で。


 簡単に、奪われたそれは、愛じゃなかった。もっと別の醜い何かだ。


 彼女を奪った世界、僕以外の大多数は誰かに愛されている世界、僕をこの小さな部屋に閉じ込めた世界。


 僕は、この世界が嫌いだ。



 #三章4

 自分の話をした。

 隠していたというか、触れなくてもよかったものだ。

 この話の裏に、ちょっとした罪悪感も隠れていて。


 そして、働キ者の話をきく。

 全部、聞いて、受けいれようとして。

 それは、悲しい話だった。僕たちにはどうにもできない、それはこの世界の不条理だった。

 世界が憎いだろう。何もかも壊してしまいたいだろう。いっそ、自分が壊れてしまえと思うだろう。実際そうやって、僕は僕を壊したから。


 まあ、だからそれは、なんというか。

「僕たち、似ているかもな」

「アア」

「でも、違うよな」

「そうだな」

「シラピを、守らないと」

「できるのか?」

「さあ、それはどうだろう」

「マッタク」

「でも、できるだけはやってみるよ」

「ああ、そうしろ」

 吐く蒸気がわずかに弱まったように聞こえた。

 穏やかな時間が過ぎる

『消す、消す、あなたのチャンネルは不正に乗っ取られていますこれを対策するにはただちに電話番号私についてこい消す、消す、これは緊急です直ちに急がないとアカウント侵害だぞはやく!』

 高音が鼓膜を突き刺す。また、割りこんできた。

「もうそろそろ、かもな」

 ぽつりと、働キ者は呟いた。

『黙れ黙れお前クソリプは警察です全員消えろ死ね』

 思えば、働キ者がこの誹謗中傷ロボの前で言葉を発したのはこれが初めてだった。

 それが、何かしらの諦めからきていたのだとしたら。

 ここで、蒸気を力強く吐かないなんて、世界に反駁する働キ者らしくもない。

「今日はここまでだな。各々向き合わないといけねえことが、あるみたいだ」

 僕は不穏な空気を感じ取りながら、何も言えずに働キ者に従った。

「なあ、もしオレがいなくなったら」

 ここでようやく蒸気が、吐かれる。

「幸せになったんだな、と納得してくれ」

 なんとか、「ああ」とか言って、そのときはごまかした。 



 #前夜


「マスターも、きっと喜ぶね」

「そうなの?」

「そうだよ」

「ふーん……」

 シラピが『マスター』の話をするときは、ちょっと。ちょっとだけだ、けっこうもやもやする。

 いいんだ、明日はデート。シラピを僕が、独占できる時間だ。いつものように1時間だけ、そうなるのだろうけど。

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