二章「ああ、温かさを知ってしまった。」

5.「ごちそうさま」

 眠りから、浮き上がってくる。

 心が起動する。

 また、もう数え切れないほど繰り返した今日が始まる。まぶたを開いた。

 新しい何かが訪れるだろうか、なんて僕らしくもなく考えたりしてしまった。


 変わり果てたこの世界のこととか、分からないことは全部、生活の隅で覆い隠して。

 だいぶ、心は復調してきた。この世界にきたときよりもむしろ、随分と今を心地よく生きていると、そう思える。

 なぜかってそれは、彼女が隣にいてくれるからだった。


「おはよう」

 シラピがいる。


「おはよ」

 言葉を返してくれる。


 また、心が一段軽くなってしまう。


 今日の朝食はビーフシチューだった。

 カレーライスは安直でなんだか単純だから、というシラピらしい理由で。

 朝食、といっても僕はずっと部屋の中にいるのだから、彼女がこの部屋を出て行く前の食事という意味でしかないのだけど。

 昨日の夕飯の残りのビーフシチューは、肉によく味が染みこんでいて幸せになれる。パンにかけると最高だった。


「ごちそうさま」

「はい、お粗末さま」


 彼女は僕が完食した皿を嬉しそうに受け取ると、流しでぱぱっと洗ってしまった。

 僕がやると申し出ても、彼女は家事を頑として僕に譲らない。


 流しから戻ってきた彼女は、部屋の椅子に座った。

 コードを充電器からたぐりよせ、銀髪をたくしあげると、細いうなじが露わになった。

 そこに、USB-Cを差し込む。

 毎日3回行われる一連の動きは、なかなか様になっていた。

 充電が終わったら、彼女は外に出て行ってしまう。

 仕事、とか言っていて、僕はよくわからない。外が怖かったから、彼女がうちにやってきて以来、僕は一度も外の空気を吸っていない。


「本当にこのままでいいのかな、僕」

「……ん。ね、瑞素」


 僕の指先を掴んで、彼女は穏やかな声で言う。


「どうして、そんなこと言うの?」


 そこには、私の何に満足していないのか、みたいなちょっぴり不満げな意思が含まれているように思えて、そこも可愛いのだけど。


 違う、君に満足しないわけがない、君はあらゆる意味で完璧だったから。それが僕の不安を煽ったりしてしまうのだけど、これは僕の勝手な感情だ。


「僕はどうしようもなくなってしまう、って思うから。手遅れかもしれないけど」

「ううん……私には、その感覚は分からないな。君は素敵だよ」


 そう簡単に、僕を褒めないで欲しい。

 その笑顔は、とても愛おしいものだったけど。

 これは、僕と君の差だった。

 僕は、閉じこもった部屋の中。

 君は、僕がよく知らない外に出る。

 僕は全てをシラピに委ねていた。

 

 毎日3回、彼女はうちにやってくる。自分の充電をするため、という理由付けらしい。ロボットは大変だ一挙一動にそれをする根拠や指令が必要らしい。いってしまえば、僕とのふれあいは充電のついででしかないんだろう。それを特に不満とは思わない。


 毎日3回、彼女はうちからいなくなってしまう。恐ろしい外へと、その身を動かしている。何をしているのか、僕は全然知らない。マスター、つまりうちの母と話しているのだとすると、ぞっとしてしまう。僕が弄ばれているのだとしたら、と悪い方向へ跳びかけたところで、考えを遮った。


 包みこまれるように優しくされて、僕の心身の全てを彼女に任せて、今更彼女を疑うなんてできやしない。


 これでいいのだろう。

 これで、いいんだ。

 僕にとっては彼女が生きる意味の全てだから、彼女さえ隣にいれば、それで。


 これが、僕の生きている日々だった。

 この幸福はいつまで保たれるのだろう、夢のなかみたいに輪郭がはっきりしない。


 そう、今の日々がずっと続けばそれでいいはずなのに、やっと停滞が、それも温かな安寧が、なんの縁か僕の前に転がりこんできたというのに。


 どうにも、人間というものは満たされると進歩を求めるらしかった。そうやって人の社会は増長してきた。

 僕らしくもない、そのくだらない本能からまったく逃れられなかったみたいだ。久しぶりに人間は愚かしいと、唾を吐きたくなる。


 僕は、少しずつ知ろうとしていた。この世界を、そして何よりも大切なシラピを。

 知ったところで、何も変わらない。それはその通りなのだろう。


 でも今は、行動するだけに十分な時間的余裕と心のゆとりを手にしていた。

 僕が動く、今から始める動きが褒められるかどうかは全て結果が教えてくれるだろう。表れる結果だけで外野からいくらでも、上手くいけば褒められるし下手をすればぼこぼこに責められる、そういうものだ。


 しかしまあ、そうやって褒めたり責めたりする外野がいない、というのはせいせいする。

 僕は前の世界であのとき、命が絶たれるほど責められたのだから。


「じゃ、また」


 シラピがどんな気持ちでこの部屋を訪れているのか、彼女の別の姿を知るためにも。

 いつものように、シラピはこの部屋からいなくなる。

 でも、今日に限っては僕の前からはいなくならない。僕がシラピについて行くからだ。


 それも追跡が悟られないように、ひっそりとじめじめと。

 いまからしようとすること、それは悪いことか?

 人の尊厳は保たれず世界が狂っているのだから、ルールやモラルなんてただの紙切れだ。警察だって存在していないのではないか。つまり僕の行動を咎める者は誰ひとりとしていない。

 シラピにばれて嫌われないといいな、くらいに思っていた。

 外に出ないで、とアレを目撃して以来シラピに言われ続けている。その約束を、破るのだ。


 僕を守るための約束だから、破ることに躊躇はない。僕は守られる必要なんて無いし、また傷ついてやるつもりだった。


 自分の服装がろくでもないことに気づいて、まあ誰にみられるわけでもないしいいやと忘れて、高校のジャージのまま外に出ることにする。

 指がドアのサムターンにはじかれて、シラピの手の温かさを思い浮かべながらもう一度扉にかかった。今度は震えずにつまみに指がかかった。 


 そろそろと扉を外に押しやって、光が部屋に差し込んでくる。冷たい空気がツンと肌を刺して、あとからじわじわとお日様が暖めてくるが、肌寒いことに変わりはない。

 震える腕を抱えるが、ぐずぐずしてはいけない、シラピを見失ってしまう。

 外に出た感慨を放り捨てて、外の明るさに目を眩ませながら通路に歩みを進めた。


 目を慣らすために上を向くと、岩がごつごつしていて直射日光は隙間から屋内に採光するように光の道筋が流れていた。自然の力でデザインされたかのようだった。

 幻想的だ、僕が望んだ世界だ。コンテナに閉じこもっているのか、人とすれ違わない。

 これであの光景を目にしていなかったらこの世界に紛れ込んだことを素直に喜べたのに。


 早足で歩いているとシラピを視界に捉えた。ほっとして家の方を振り返ったところで、コンテナから頭一つ抜き出た、黒い屋根の僕の家が見えた。徹底統一されたコンテナの中の一軒家は悪目立ちしていてそわそわする。

 


 目線を戻そうとして、すぐ横を住民が通っていった。ゾンビのような猫背と血走った目で、僕を追い抜かしていく「ぐぽ」


「へ」


 男の首がありえない方向へひしゃげた。バランスを崩して、背中から地に墜ちる。


『――管理特権所有者への攻撃は禁止されてイマス』


 加害者の手、鉄の棒が僕の額のすぐ先で止まった。

 電子的な警告音が響いた。隣にいた住民が首を折られて倒れた。僕は死ななかった。

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