# 10. (I Can't Get No) Satisfaction
マドリッド、ミラノ、ボローニャ――ヨーロピアンツアーはどの会場も大盛況、今のところは何事もなく、日程のおよそ三分の一を消化していた。
だがテディはなにやらずっと不機嫌そうで、話し合って仲を修復したはずのルカとも依然としてほとんど口を利かないままだった。ルカのほうは感情の起伏の激しいテディに慣れっこだからなのか、あまり気にしている様子もなく放置状態のようだ。またなにかあったのかと尋ねても、今度の原因はさっぱりわからない、放っておくのがいちばんだろうと、そんな調子なのである。
そして、ユーリまでもがそんなルカの態度にフラストレーションを溜め始めていた。
「――ボングが欲しいな」
「ロードじゃ手軽さに欠けるね。嵩張るし、洗うのも大変じゃ?」
「ボングですか、俺やったことないな」
チューリヒ、ハレンシュタディオンでの公演を翌日に控え、一行はリマト川を臨むホテルに滞在中だった。スケジュール表には『調整日』と記されているこの日は完全オフで、メンバーたちはコンディションを整えるため日々の疲れを癒やしていた。
川面には澄みきった青空と、立ち並ぶ美しい建物が映りこんでいる。なかでも一際目を引くミントグリーンの尖塔は、マルク・シャガールが手掛けたステンドグラスで有名な
そんな素晴らしい景色を一望できるバルコニーで、ユーリはテディと、付き人のドミニクとブルーノと一緒にのんびり暇を潰していた。チューリヒの夏は湿度が低く、からりと爽やかで過ごしやすい。朝晩などは肌寒いくらいである。
小さなガーデンテーブルにはヒューリマンの茶色い瓶が並んでいる。ユーリとテディは卵を斜めにカットしたような形のラタンチェアにゆったりと腰掛け、交代でジョイントを吹かしていた。ドミニクとブルーノはバルコニーの柵に躰を預け、ビール瓶片手にこちらを向いている。ユーリが手にしていた瓶をくいと呷りまた一本空けると、すかさず「取ってきますね」とドミニクが部屋のほうへと動いた。
「あ、ついでに水も頼むよ」
「わかりました。ガス入り?」
「昨日飲んだの、あれなんだっけ」
「ファルサーですね。了解」
テディの注文に頷いてドミニクが部屋に入っていくと、ユーリは親指と人差指で摘んだジョイントをテディに渡し、云った。
「あぁ暇だな、バイクでかっ飛ばしたい気分だが、ロニーは許さんだろな。……で? おまえがむしゃくしゃしてんのはなにが原因だ? ルカはまったく心当たりがないって云ってたが……なにかあったのか?」
するとテディは露骨に厭な顔をして「せっかくいい気分だったのに、台無し」と云いながらジョイントを持った手を振りあげた。するとそこへドミニクが戻ってきて、テディにミネラルウォーター、ユーリにはビールを渡した。そしてふと気づいたように「どうかしました?」とテディの顔を見る。
「いや、なんでもないんだけど……はあ、なにかおもしろいことないかな。こうしてホテルにじっとしてるのも、けっこうストレスだよね」
テディがそう云って、白い煙をふーっと吐く。そのまま差しだされ、ドミニクも受け取ってジョイントを吹かした。その様子を見ながら、ユーリはてこでも云わないってことは、やっぱりルカとなにかあったんだなと思った。ルカのほうはまったく身に覚えがないようだったが、きっと無自覚にテディを苛立たせるようなことでも云ったのだろう。
ブルーノがドミニクに顔を寄せ、耳打ちしていた。彼らはただ同郷というだけでなく同じ学校の出身で、一緒にバンドをやっていたこともあるそうだ。小声でなにか話し、ドミニクはああ、といった表情でこちらを向いた。
「こいつで足りなきゃ、もっといろいろ調達してきますよ?」
「おい」
低い凄みのある声が自然に口をついた。身を乗りだすようにして、ユーリは真面目な顔でドミニクに云った。「俺たちはもうハードドラッグはやらない。その手のものは絶対に持ちこむな。持ってくる奴も近づけるんじゃないぞ、わかったな?」
ドミニクは一瞬びくりと表情を強張らせたが、すぐに「わかりました、すみません」と頷いた。ブルーノも「すみません、俺はそんなつもりじゃ」と謝ってきた。
「ユーリ、大丈夫だよ。……悪い、ユーリは俺のことを思ってきつく云ったんだ。そんなに気にしないで」
過去にテディのヘロインへの依存が深刻になったとき、ユーリは付きっきりで彼が薬を断つのに尽力した。以後テディが再びヘロインに手をだしたことはないが、ツアー中という環境下では大勢の人間が出入りするということもあり、気を張っていなければ誘惑は容易に近づいてくる。
少し間があって、ドミニクが少しおどけたように肩を竦め、川面と空が融け合うずっと遠くを眺めながら云った。
「……じゃあ……、そういうの以外で、ちょっとストレス発散に行きます?」
そういうの以外? ユーリは思わずテディと顔を見合わせた。
「ストレス発散って、どんな?」
テディの質問に、ドミニクは思いついた悪戯を披露するように、にっと笑った。
* * *
「――バンドはオフでも、私たちは休みじゃないのよね……」
「しょうがない。ターニャはまだ復帰できないし、マレクとパティたちだけじゃいろいろと無理」
ホテルの部屋で、ロニーはエリーと一緒に諸々の事務仕事を片付けていた。オンラインで繋がっているおかげで、世界中のどこにいても普段とほぼ変わらない仕事ができるが、それはつまり留守のあいだおねがい、と誰かに丸投げしてしまえないということだ。
ロニーはどこまでも追いかけてくる会議や問い合わせなどのメールにうんざりしながら、ラップトップに向かっていた。
「……ねえエリー。あなたが事務所に残ってくれていれば、もうちょっとましだった気がするんだけど……」
「二ヶ月も離ればなれで会えないなんてありえない――」
その言葉に、あのパソコンが恋人とか云われてたエリーが! などと感激したのも束の間。
「って、ジェシが云うから」
「あ……ジェシがね。そうね、ジェシったらあなたと付き合い始めてから幸せそうだもんね……」
ジェシはエリーと順調だし、マレクは二人めをお腹に抱えたターニャと、二歳になったばかりの可愛いイリヤを育てている。いつも喧嘩ばかりで今もなんだかぎくしゃくしてるけれども、ある意味あれでルカとテディの仲は安定しているし、ユーリとの不思議な関係も充分に意味のあるものだ。そしてユーリにはいろいろと云われていたが、ドリューも運命の相手を探すべく、次々と新しい恋人をつくっている。
――いったい、私の春はいつ来るのだろう。
……否、待っていても仕事しかやってこない。自分から動いてチャンスを掴まないと……と、ロニーは思った。仕事で成功したからって、恋愛や結婚のほうは諦めなきゃいけないなんてことはないはずだ。そんなの、ちょっと寂しすぎる。
とりあえずツアーが終わってからかしら。でも、いつもそうして先延ばし先延ばしにしてきたような気もする――そんなことを考えながらひととおりメールに目を通すと、ロニーはピーチフレーバーのアイスティーに手を伸ばした。テーブルの角を挟んでラップトップとタブレットを同時に使っているエリーはアイスレモンティーだったが、PCに向かっているときはつい飲むのを忘れてしまうらしい。アイスティーはまったく減らないまま氷も溶けて、グラスは結露に覆われていた。
「エリー、ぬるくなっちゃうわよ」
「あ」
グラスを取り、ストローをまわしてエリーはアイスティーを飲んだ。そして濡れた手をシャツで拭い、またキーボードに手を添える。
「このあいだの番組、ジー・デヴィールの部分だけ動画サイトにあがってる」
「え?」
躰を倒すように斜めに伸び、エリーのラップトップの画面を覗きこむ。そこには確かにこのあいだバルセロナで視た、あの深夜番組が映っていた。
「公式じゃないわよね。アンチ? なんのためにこんなのアップするのかしら」
「炎上しやすそうな番組だったし、うけると思ったのかも。実際コメントがかなりついてる。……うん、大丈夫。ほとんどテディやルカの味方」
ということはアップしたのも別にアンチというわけではなく、視聴回数を稼ぎたいだけの輩か。見ればところどころ太字の英語字幕までつけて、ファンが憤るのを煽っているようにも感じる。
やれやれとうんざりしながら煙草の箱を手に取ると、エリーが今度はタブレットを操作し、こちらへ向けた。
「ツイッターで拡散してる。ご丁寧に番組で映されてたルカの画像のやつまでリツイートして、他の目撃ツイートもまとめてる」
「ごくろうさんだこと」
SNSに関してはもう、良くも悪くも慣れっこだ。ロニーは気にするほどのことではないなと、マルボロライトメンソールに火をつけた。
* * *
――捜している物がみつからず、男は苛立っていた。
旧い映画に出てきたような、ダーウブラウンやボルドーをベースにした重厚な作りの部屋。年代物らしい大きなデスクに向かい、男はゆったりとした革張りのチェアに躰を沈め、考えていた。
女の所持品はもちろんのこと、
となると、女が逃走中にどこかへ隠したかどうかしたとしか考えられない。部下たちには女を追っていた通りを隈無く捜させていたが、まだ朗報は届いていなかった。
とんとんとテーブルを叩いていたミニシガリロを咥え、火をつけようと男が顔をあげた、そのときだった。
ノックの音がし、部下のひとりがタブレット片手に部屋に飛びこんでくる。
「女の足取りを追っていてみつけました」
タブレットの画面に開かれていたのは、大勢の若い女に囲まれている白いスーツを着た男の画像だった。なんとなく見覚えのあるその顔は、俳優かなにかの有名人らしい。が、これがいったいなんだというんだと男がその凄みのある目つきで部下を睨むと。
「見てください。ここの、通行人に紛れて小さく写ってる後ろ姿――あの女です」
画像をピンチアウトし、ある箇所を指差す。拡大された画像は若干ぼやけてはいたが、確かにあのとき追っていた女に間違いないようだった。
「ボリスに確認しましたが、あの女、わざわざ人集りに近づいていって、こいつにぶつかって通り過ぎてるんです」
スクロールし、大写しになったサングラスの楽しげな笑顔を見て、男がぎろりとその鋭い目を光らせる。
「こいつ、ジー・デヴィールってバンドのヴォーカルの、ルカ・ブランドンですよ。ツイートにも書かれてるんで間違いないです。……どうします?」
ミュージシャンか。男は甘く香ばしい煙を燻らせ、有名人とは少し厄介だな、と顔を顰めた。
「とりあえずよくやった。十人ほど使っていい、こいつを探れ。――ああ、それから」
男はパルタガスを深々と吸い――ゆっくりと口の中で転がし味わったあと、ふぅと煙を吐きだしながら、静かな声で云った。
「ボリスの奴をここに連れてこい。今すぐだ」
それを聞いた部下の男は、さっと蒼褪め頷いた。
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