# 3. 分裂

 来た! 来ましたよというエミルの合図で、ロニーたちは用意していた物を手に、素早くドアの前に集まった。

 入り口を取り囲むようにして並び、静かに息を詰めてそのときを待つ。そしてドアが開いた瞬間、集まっていた皆はぱぁあん! とパーティポッパーとシャンパンの音を派手に鳴らした。

「おめでとう! ……って、あれ……?」

 カラフルな紙テープや紙吹雪がきらきらと舞う。それがゆっくりと落ちていくと、歓びの声をあげていた皆が一斉にトーンダウンした。幸せそうに照れながら肩を並べているはずのふたりの姿はなく、そこにはテディがひとり、茫然と立ち尽くしているだけだった。

 ロニーは途惑った。少し待ってみたがルカが現れる気配は微塵も感じられず、テディはなんだかぐっと唇を噛み締めている。どう見てもたったいま結婚の申し込みを受けてきた、幸せの絶頂にある者の表情ではない。

 厭な予感に眉をひそめ、ロニーは尋ねた。

「……テディ、どうかしたの……? ルカは? あなたいま、その……ルカから……」

 テディに尋ねつつ、ロニーはちらりと周りを見やった。ドリューもジェシも自分と同様、怪訝そうな表情だった。ユーリに至っては途惑いと心配と怒り――もちろんルカへの――が綯い交ぜになったような複雑な顔で、じっと覗きこむようにテディの様子を窺っている。

 ロニーはテディの表情を注意深く見守りながら、もう一度訊いてみた。

「ルカと、話をしたでしょう? なにかあったの?」

「……あんな話、しなきゃよかった」

 テディは焦点の合っていない目をしたまま、ゆるゆると首を振った。長めの髪に降り積もっていた紙吹雪が、はらりと落ちる。

「結婚……しようって云ってくれたのに……」

 どうやらプロポーズまでは予定通りだったらしい。ではそのあとなにかがあったのだろうか。ロニーはショックを受けている様子のテディの肩をそっと支え、ソファへと促した。

 テディが素直にすとんと腰を下ろすと、ロニーは隣に浅く坐ってその虚ろな顔に向いた。それを見てマレクが泡を吹いていたシャンパンを置いて手を拭い、ウォーターディスペンサーの水を持ってくる。

「ありがとうマレク。……テディ、とりあえずお水を飲んで、落ち着いて。なにがあったのか、ルカはどこへ行ったのか、ゆっくりでいいから教えてちょうだい」

「ルカは……わからない。どっか行っちゃったよ、帰ったのかも」

 それだけ答え、テディは云われたとおり一口水を飲むと、はぁと息を吐いて俯いた。

「いったい、なにがあったの……。ルカとなにを話したの……?」

 顔を覗きこむようにして再び尋ねると、テディはロニーと目を合わせ、口許を歪めて笑顔をつくった。

「プロポーズのこと、みんな知ってたんだね。……ルカに結婚しようって云われて、俺、本当にいいのかって訊いたんだ。十四の頃からずっと一緒だから……女の人とも付き合ってみて、それから考えなくていいのかって。そしたらルカは、サマーキャンプで俺と付き合い始めたばかりのとき、女の子とセックスしたって――」

「ええっ、それって……浮気ってことですよね!?」

「あの野郎、てめえはさも清廉潔白ですってなツラしやがって」

 ジェシとユーリが憤った反応を示すと、テディは「違うんだ」と顔をあげた。

「そこは問題じゃないんだ。俺、そのことには気づいてたし、別に気にしてなかった。……ルカがそのことを打ち明けてくれて、話せてよかったって……ふたりの新しいスタートに隠し事なんてあっちゃいけないって、そう云うから……俺も、話したんだ」

 重く溜息をつき、テディは自分の膝に乗せた手をぎゅっと握りしめた。

「話したって……なにを?」

 云ってから、ロニーは少し後悔した。今日の今日までルカにさえ話していなかった秘密――自分が訊いてはいけなかったのではないだろうか。しかも周りに皆いるというのに――

 しかし、もう訊いてしまった。本当に訊くべきでないなら、テディも話さないだろう。ロニーはきゅっと唇を引き結び、返事を待った。

「……学校が休みのあいだ、俺、バーミンガムのじいさんちには帰らないで、ホストファミリーになってくれてた従叔母いとこおばの家に世話になってたんだ。学校からも近かったしね。けど……そこの旦那が、俺に……、その――」

 云い難そうにテディが言葉を濁す。すると、ぴんときたらしくユーリがさらに顔を険しくした。

「ホストファミリーの家でまで、おまえ――」

 苦笑を浮かべてテディが頷く。

 テディは十一歳の頃から、同居する母親の情人に性的虐待を受けていた。そのことは過去に起こった動画流出事件によって、世界中の誰もが知るところとなっている。

 しかしまさか、それ以外にもまだそんなことがあったとは。ロニーも驚き、なんて酷い、と思わず唇を震わせた。

「うん、気にしないで。みんな知ってるとおり、そのあとにもいろいろあったけど……俺はもう立ち直ったんだ。もう平気だから、こうして話せるようになったんだよ。だから……本当はこのことは、ずっと誰にも云うつもりはなかったんだけど、ルカがずっと胸に仕舞ってたことを打ち明けてくれたから、俺もと思って……でも、ルカはどうして当時云わなかったんだって怒って……ううん、怒ったんじゃなくて、自分が頼りにされてなかったって思って、ショックを受けたのかもしれない。それで……プロポーズはなかったことにしてくれって云って、どっか行っちゃった」

「なかったことに、だって?」

 ユーリはただでさえ強面と云われる顔を、怒りの色で染めていた。「おまえがそんな、思いだしたくもないようなことをせっかく誠実に打ち明けたってのに、あのくそったれはプロポーズを撤回して、おまえを放って出ていったっていうのか?」

「おい、ユーリ」

 怒りに震えているユーリの肩を、ドリューが押さえた。「テディがショックなのもわかるし、おまえがそうして怒るのもわかるが……この場にいないルカの気持ちも考えてやらないとフェアじゃない。結論を急ぐな」

「あのクソばかったれの気持ち? 結婚しようって話までして、ずっと隠してたことを話しててめえだけ楽になって、テディが自分もって返した誠意は受けとめられなかったタマの小せえくそったれの気持ちなんかわかってたまるもんか!」

「いや、きっとルカはテディが自分を頼ってくれればたすけてやれたのに、信じてくれてなかったのかと感じてショックを――」

「頼るって、自分が誰になにをされてるか云ってたすけを求めろって云ってんのか? そんな、ほいほい口にできるようなことだと思ってんのか!? そんななんにもわかっちゃいねえ奴に云えるわけもねえし、頼りにだってなるわけがねえだろ!」

 ユーリとドリューがテディを挟んで言い争いを始め、ロニーはおろおろとふたりの顔を交互に見た。

「え――ちょっと、あんたたちがそんなふうに云い合ってどうするのよ。落ち着いて――」

「確かに、俺やルカはそんな目に遭ったことがないから正しいと思うことを云うくらいが精一杯で、気持ちまではわかってやれないのかもしれん。でも大切に思っている相手をたすけてやりたいって気持ちは間違いなくあるんだ。だから、どうして話してくれなかったのかって感じてしまうのはしょうがないだろう?」

「おまえの云ってるのはな、ドリュー。船の上からロープを投げて、引き揚げてほしかったんならまず水面に顔だしてロープを掴んでくれないと、ってのと同じなんだよ。溺れてるほうはそれどころじゃねえんだよ!」

「いや、隠されてちゃたすけようにもたすけられんと云ってるんだ! それくらいは理解できないか!?」

「もういいよ、やめてくれ……!」

 テディが立ちあがり、テーブルの端に置いてあったクリュグ・ロゼのボトルに手を伸ばした。雑に引っ掴み、そのままぐいと喇叭飲みするテディを見て、ユーリが慌ててボトルを奪う。

 手の甲で口許を拭い、ふぅと息をつくとテディは云った。

「もう、いいんだ。俺らのことでユーリとドリューが喧嘩なんかすることない。ルカのことだからきっと、そのうちけろっとして戻ってくるよ。……結婚はもう、ないかもしれないけど……」

 俺は別にいいんだ、とテディが呟く。ユーリはちりっと目許を引き攣らせ、手にしたままだったボトルを呷った。

「……テディ。ルカはきっと、テディにじゃなく自分に怒ってるんだ。傍にいたのに、気づいてたすけてやれなかったって後悔してるんだと思う。撤回っていうのも、そんな自分にテディと結婚する資格があるのか自問してのことだろう。わかってやれ」

 ドリューの言葉を聞いて、落ち着こうとするかのようにシャンパンをがぶ飲みしていたユーリが、また食って掛かった。

「だったらどうしてそう云わない! なんで云わなかったって怒った奴の気持ちを、どうしてテディだけがわかってやらなきゃいけねえんだ! なんでおまえはルカの肩ばっかり持ってんだよ!」

「……! 肩を持ってるわけじゃない! 欠席裁判はだめだろう、ルカ抜きで話をするなら誰かひとりくらいはと思って、俺が――」

「結婚までしようって相手を受けとめもできねえで、尻に帆掛けてとんずらした奴なんざほっときゃいいんだ! テディを傷つけるな!」

「……肩を持ってると云うならおまえのほうだろう!? ユーリ、おまえはいつだってテディのことばっかりだ……ファックバディだなんてクールぶってるが、はっきり云って、見てて痛いぞ? みんなちゃんとわかってるんだ、おまえが真剣にテディを――」

 その瞬間。床に叩きつけられたシャンパンのボトルが派手な音をたてた。深いボトルグリーンの欠片が飛沫とともに飛び散る。同時にユーリの拳がドリューの左頬に喰いこみ、長いブレイズの髪が鞭のように撓った。テディがはっと息を呑み、ロニーはひっと両手で口許を覆った。

 凍りついた空気のなか、体勢を戻すと同時にドリューがユーリの腹を殴り返した。ぐっと呻き声を漏らしつつ、ユーリは両手を伸ばしてドリューの襟首を締めあげた。ドリューもユーリの襟を取り、がたがたとテーブルを摺り動かしながらふたりが互いの位置を替え、力比べのようにして掴み合う。

 我に返ったようにテディはユーリの、慌てて駆け寄ったマレクはドリューの背後にそれぞれまわり、取っ組み合うふたりを引き離そうとした。が、背が高く体格もいい元サッカー選手のドリューと、いちばん場数を踏んで喧嘩慣れしているうえ普段から鍛えているドラマーのユーリを止めるのは、容易ではなかった。

「なにが云いたい!! ほら云ってみろドリュー! てめえみたいにちゃらちゃらモデルや女優と遊びまくってる奴に、いったいなにがわかるってんだ、え!?」

「俺は運命の出逢いってやつを探してるだけだ! 悔しかったらおまえも探してみたらどうだ!? ちゃんと自分だけの、人のものじゃない相手をな!」

「運命の出逢いだぁ!? ちゃんちゃらおかしいぜ、おまえの相手なんざ、俺にはちっとも見分けがつかねえよ! どれもみんな隙っ歯でケツのでかい、おつむの弱そうなブロンドばっか――」

 背後からマレクに羽交い締めにされたまま、ドリューが左脚でユーリの横っ腹に蹴りを入れた。ぐぅと呻いて崩れ落ちそうになるユーリを、テディが支える。

「……っ、おまえが脚を使うのは反則……」

「ドラマーの拳はいいのか!? だいたい先に手をだしてきたのはユーリ、おまえのほうだぞ!」

「もうあんたたち、いいかげんにしなさい!!」

 堪らずロニーがふたりの間に割って入る。「もうこの話は終わり! テディとルカの問題なのよ? 外野が口だして喧嘩なんか、大事おおごとになるだけ迷惑よ! ちょっと頭を冷やしなさい!」

 荒く息をつきながらユーリとドリューが睨み合う。その顔を交互に見やり、ロニーは再び厳しい口調で云った。

「まったく……もうじきツアーが始まるっていう大事だいじなときに喧嘩なんて! とりあえず今日はもう解散、次のリハーサルまでにちゃんと反省してきて!」

「やなこった」

「無理だ」

 ユーリとドリューが口を揃えて云った言葉に、ロニーが眉をひそめる。

「バンドの皆を見渡せるところに坐っていながら、ベーシストしか見てないなんてな。こんな奴とはもう演奏なんかできないね」

「そりゃこっちの台詞だ。演奏どころか、こんな奴のツラぁ二度と見たくねえ。もうごめんだ、おしまいだ」

「おしまいって――」

「ジー・デヴィールがだよ。バンドはもう解散だ!!」

 聞こえた言葉にロニーの思考が停止する。ずっとはらはらしながら見守っていたジェシとエリーも、思わず顔を見合わせた。テディもジェシと、そしてロニーと順に視線を交わし、途惑ったようにユーリの顔を覗きこむ。

「ユーリ――」

 テディのその声にユーリが振り返る。が、ユーリはなにも云わずに目を逸らし、険しい表情のままドアを乱暴に開けて事務所を出ていった。

 頭のなかを真っ白にしていたロニーが、金縛りが解けたようにはっとして声をあげる。

「ちょっ……ユーリ!! 待ちなさい!」

「ロニー、放っておけ! バンドが解散じゃ困るなら、ドラマーだけ探せばいいだろう」

 ドリューがそう云うのを聞き、ロニーは「そんな」と首を横に振った。すると――

「……俺はいやだ。バンドが解散するのも、ドラマーがユーリじゃなくなるのもどっちもごめんだよ。そんなのジー・デヴィールじゃない」

 開いたままのドアから廊下へと一歩踏みだしながら、きっぱりとテディが云う。そしてゆっくりと戻るドアの隙間からテディの姿が消え、たたっと急ぐ足音が遠ざかっていった。

 ロニーは当惑して黙ったまま、暫し動けずにいたが。

「ドリュー……僕も、こんなのいやです。らしくないですよ」

 駄目押しのようにジェシが云うと、ドリューが気まずそうな顔で振り向いた。

 解散だなんて、本当に冗談じゃない。時間を置いてテディとユーリには連絡をしようと考えながら――そういえば、ルカはいったいどこへ行ったのだろうと、ロニーは不安げに眉を寄せた。

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