# 2. 〝This Will Be Our Year〟をもう一度
七月から始まるヨーロピアンツアーのため、バンドの面々はスタジオに籠もり連日リハーサルを重ねていた。リリースしたばかりのアルバムの曲以外にも、コンサートでは定番のヒット曲や、過去にあまり演奏していないレアな曲もアレンジし直すなどしてセットリストの候補を増やしていく、というのが今の段階でやっていることである。
女性ファンの反応が著しく目立つジー・デヴィールだが、コンサートに来る層は意外と幅広く、音楽通な年配のオーディエンスには六〇年代、七〇年代の伝説的なアーティストのカバーも期待されている。バンドのルーツであるそういった曲をメドレーで演奏するのはジー・デヴィールのライヴではもうすっかりお決まりで、メンバーたちも毎回楽しみにしていた。どの曲を選び、どんなアレンジで演奏するかはセンスの見せ所でもあるので、準備段階は真剣だ。
セットリストは基本的な流れは決めておくものの、まったく同じ曲目が二公演続かないようにするため――行くことができる公演にはすべて行く、というファンも少なくないのだ――いくつかのパターンを用意しておく。それ以外にも、演奏したときの客の反応がいまいちだったり、地域やメインの客層によっても変更されることが多々ある。単純にバンドの気分で曲数を増やしたり、逆に不調で減らしたりすることもある。その他にも、ツアーファイナルなど最高に盛りあがった日はアンコールが一回、二回ではまったく止まず、予定より十曲も多く演奏することだってあるのだ。
だから、たとえば一公演あたり二十四曲のセットリストを組んでいたとしても、リハーサルでは最低でも四十曲、できれば五十曲くらいは準備しておきたいところなのだ。
レストランで皆が集まった、その二日後。
リハーサルを終えたルカたち五人が新しいツアーポスターの確認のため事務所にやってくると、ロニーはついにやけてしまう表情を引き締めようと咳払いをした。努めて素知らぬ顔で一枚板の大きなテーブルにポスターを広げ、いつもと同じように
「おつかれさま。早速だけど、こんな感じであがってきたわ」
後方、ドラムセットの向こうでスティックを持った腕を振りあげているユーリを中心に、左端でキーボードに囲まれているジェシと、右端、ギターアンプの前にはストラトキャスターを抱えたドリュー。そして前面にはマイクスタンドに手を添えているヴォーカルのルカと、ベースを弾きながらマイクに顔を寄せ、ルカと一緒に歌っているテディ。そんな演奏中のショットに重ねられた『
そしてその下、ポスターの三分の一ほどを占めているのは小さめの文字でびっしりと記されたツアーの日程、都市、会場名だ。その上から斜めに大きく『
「うん、いいんじゃない。『SOLD OUT』の赤も目立ってるし」
「いったんこうしてもうチケットはないぞって知らせといて、あとから追加公演! ってやるんだろどうせ。商魂たくましいよなあ」
「会場がとれてチケットも売れるなら、そりゃあやるわよ。で、どう? 写真もこれでオッケー? 気になるところはないわね?」
ロニーが確認すると、立ったまま見下ろしていたユーリは頷いてソファに腰掛け、ドリューも「うん、オッケーだ。いいポスターだと思う」とポスターをくるりと回し、ルカのほうに向けた。
「うん、俺も特に不満はないよ。洒落てるけどわかりづらくもない、いいポスターだ。なあジェシ?」
「ええ、僕もいいと思います。やっぱり僕らのライヴの名場面といえばこの、ルカとテディがマイク一本を挟んで歌うところですよね!」
――その瞬間。かち、と音がして妙な空気が流れた。
見ればテディが煙草を咥え、ジッポーで火をつけている。
以前はロニーもデスクで煙草を吸っていたが、最近は受動喫煙についてやかましくなり、世界的に嫌煙が謳われているため、この事務所内も禁煙となっていた。が、問題は煙草ではなかった――ふと見やったテディの表情が、あからさまに不機嫌な色を湛えていた。ルカは今それを云ってほしくなかったとジェシに目で伝えていて、ユーリもやれやれと苦笑を浮かべている。
ふーっと煙を吐きながら、テディが云った。
「ポスターは俺もオッケーだよ。ああ、喫煙室だろ。行ってくる」
「ちょっとテディ、咥え煙草で歩くのは――」
ロニーが注意しようとしたが、テディは聞かずにさっさと事務所を出ていった。まったくもう、と呆れながらルカを見ると、彼は少し緊張したようにきゅっと口許を引き締め、テディの出ていったドアを見つめていた。
そして、意を決したようにゆっくりと振り返る。
「……ちょうどいい。俺も行ってくるよ」
それを聞いて、ロニーは一転して表情を綻ばせた。いよいよルカがテディにプロポーズするのだ。そのために、まずは仲直りをしなければいけないが――
「ここで応援してる。シャンパン用意して待ってるわ」
デスクで仕事をしているエリーも、失言にきまりの悪い顔をしていたジェシもドリューも皆、期待に満ちた表情でルカを見つめていた。
それに応え、うん、とルカが力強く頷く。
「ありがとう」
そう云ってルカはふぅ、と一度深呼吸をし、喫煙室に向かった。
* * *
喫煙室のドアをこんこん、とノックし、ルカはそっとドアを開け中に入った。
ソファの真ん中に坐っていたテディは、一瞬ちら、と視線をこちらに投げてきたが、すぐにふいと顔を背けた。壁際にはソファと、その前には灰皿しか置かれていないテーブル。反対側にはウォーターディスペンサーのスタンドと小さなキチネットがあり、オフィス用のコーヒーマシンや電気ケトル、ペイパーカップと取っ手のついたホルダー、ティーパックなどが置かれている。
空調の音が耳につく部屋のなか、外方を向いたままなにも云わないテディに、ルカはゆっくりと近づいた。
「テディ」
「……なに」
返された声は淡々としていて、怒っているようにも、不機嫌そうにも感じられなかった。周りに人がいるほうが、やはり意地もあるのかそういうポーズをとりがちだ。ルカは少しほっとして、ソファに腰を下ろした。
テディとの間には、
「俺にとって大事な想い出の曲は、本当に〝ディス・ウィル・ビー・アワ・イヤー〟なんだ。おまえにとっては〝ルビー・チューズデイ〟っていうのも、ちゃんとわかってる。おまえが編入してきて学校を案内してたとき、俺が音楽室で弾いたのも、おまえをバーミンガムに迎えに行ったときにギターで弾き語ったのも、ちゃんと憶えてるさ。……でも、おまえに対して答えるべき曲を間違えたのは悪かった」
そう云ってやると、テディはいたずらを赦された子供のような顔でこっちを向いた。
「おまえ、憶えてるか? バスケの試合中、オークスの連中に絡まれた日のこと」
たったひとりの母親を喪い、ロンドンの
それからまだ間もないある日。体育の授業でやる予定だったクリケットが雨で中止になり、寮対抗でバスケットボールの練習試合に変更、ウィロウズ寮のチームはオークス寮のチームと対戦した。だが、
「ああ、憶えてるよ……マコーミックたちだろ。懐かしいな」
同学年でいちばん体格のよかったマコーミックは
「あの日だよ。〈オデッセイ・アンド・オラクル〉を聴きながら、俺たちは部屋で勉強してた。俺は、ずっとおまえのことを考えてた。おまえは転校ばかりでいつも苛められてたって、それまでに暮らしたところのことを話してくれた。ブダペストやプラハ、ベオグラード、ロンドンにもいたって。で、俺はそのとき、学校を出たらテディはいったいどこに帰るんだろうって思ったんだ。じいさんともうまくいってないみたいな話も聞いてたからな」
テディは黙って自分を見つめている。ルカは続けた。
「で、云ったんだ。これからは俺を頼れ、俺はおまえが困ってたら必ずたすける、学校にいるあいだだけじゃなくって、ずっとだ、もう友達だからって。これも憶えてるか?」
遠いところで輝く光の珠を見つめるように、テディが目を細める。
「うん……憶えてるよ。あんなこと云われたの初めてだったし、嬉しかった」
「……あのときかかってたんだよ。〝ディス・ウィル・ビー・アワ・イヤー〟は」
そう云って微笑んだルカに、テディは少し驚いたように目を丸くした。
「あのあとも、何度も何度も、なにかあるたびにあの曲が頭のなかで鳴ってた。おまえが鎮痛剤飲みすぎてぶっ倒れてたとき、別に死んだってかまわないって云うおまえにそんなわけないって、俺はおまえが好きだって告白したろ? あのときも、おまえのしでかすことにもう無理だってまいっちまって別れ話をしたときも、放校喰らっておまえが俺から離れていこうとしたときも……いつだってゾンビーズのあの曲が聴こえてる気がしてたんだ。俺にとっちゃ、想い出どころか恋の呪いの曲なんだよ。だから、おまえに心当たりはないのはしょうがない。でも、俺にとっては間違いなくこっちなんだ」
「恋の……呪い?」
「そうだよ。もう本気でおまえと離れようって考えたときも、この曲が邪魔してた」
そう云うと、テディはなんだよそれ、とむっとした顔で目を逸らした。
「この手さえ離さなければ、きっとそのうち良くなるって思えたんだよ。だからこうして、喧嘩ばかりしながらいまもおまえと一緒にいるんだ」
ルカはそう云うと、ポケットからスマートフォンを取りだし、何度かタップしたりスワイプしたりして操作した。
空調の音だけが響いていた部屋に、もう何度となく聴いたピアノのイントロが――〝
「――テディ、結婚しよう」
テディが大きく目を瞠って自分を見た。笑みを浮かべ、ルカは続けた。
「俺とおまえは性格も、ものの考え方もまるで違う。育った環境が違うから重なり合わない部分はどうしたってあるし、これからも、なんでもないことで喧嘩したりすると思う。でも、そんなのは俺たちの関係にはなんの影響もない。なにも気にしないで、俺らは心置き無く喧嘩すればいい。だって、なにがあっても俺とおまえはずっと一緒にいるんだから。いままでだって、ずっとそうだったろ? そのことを忘れないために、世界中の誰もにそうなんだって証明できるように、結婚式をあげよう」
――忘れないよ 沈んでいたとき、君が支えてくれたこと
――忘れない 君が「愛してるよ」って云ってくれたこと
――前に進んでいこうって、君が思わせてくれたんだ
テディが目を潤ませ、頬を真っ赤に染めるのを、ルカはじっと見つめていた。
「……これで、もう一致したろ? ふたりの想い出の曲」
「……狡いよ」
俯いて首を振るテディに手を伸ばし、頬に触れる。そしてそっと顎に指をかけ、ルカはゆっくりと顔を寄せた。
そっと感触を確かめるように唇を合わせる。喰み、徐々に角度を変え、深く探る。そうして触れる息の熱さを互いに確認し――鼻先を触れ合わせたまま唇だけ開放すると、テディが云った。
「……いいの? ルカは……女の人と付き合ったりしてみて、それから考えるとかしなくても大丈夫……?」
「またそんなこと云ってるのか。……わかった。じゃあ、秘密にしてたことを白状するよ」
「秘密?」
顔を離し、不安げに首を傾げているテディに、ルカは真面目な顔で話し始めた。
「実は俺……、おまえと付き合い始めてすぐ、サマーキャンプで女の子と経験した」
言葉を押しだすように過去の過ちについてルカが打ち明け、恐る恐るテディの顔を見ると――
「……なんだ、そんなこと?」
テディは拍子抜けといった感じで、ほっとしたように笑った。「マーシャだろ? わかってたよそんなの」
なぁんだ、真面目な顔でいったいなにかと思ったよ、となんでもないことのように云うテディに、ルカはほーっと息を吐いた。
「あ、そ、そう。マーシャ……だっけ。そっか、ばれてたのか……ごめん、テディ。俺、あのときおまえと喧嘩して、つい――でも、わかってたのなら尚更こうして云えてよかったよ。ふたりの新しいスタートだ、秘密とか隠し事があるままなんて、ありえないよな」
肩の荷が下りた気分で、ついべらべらとそんなことをルカが話していると、ふとテディが表情を曇らせた。
その小さな変化に、ん? とルカがその目をじっと覗きこむ。
「……そうだね。結婚しようって相手にもう、隠し事なんかあっちゃいけないよね……」
隠し事? とルカが眉根を寄せると、テディはその目を逸らし、俯きながらあることを話し始めた。
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