Episode 幽天

「なんでこの計算が抜けているんだ!」


 智識の塔から民に供される情報は、或いは天候の傾向であったり、効果的な薬品の使用率であったり、思念を除いた数値的根拠に基づく事実である。

 各部門で試算された案件は更に3段階の検証を経て合格したものがように公表される。


 ここ最近、針の先程の小さな違和感が拭えないのだ。特に体制に影響がある訳でも無く、日々、月々、刻々と流れる日常は至極平常に過ぎていく。


 ふとした機会に何かが足り無いような、そんな不確定な認識が脳細胞の奥底にちらりと幽かに揺れる。それはえらく透き通るような晴天の日の早朝だったり、友人達と騒いだ帰りに一人になったタイミングであったり。

 

 今日も、部下が淹れてくれた珈琲の薫りを愉しみ、カップソーサーの縁に手を伸ばして違和感に気付く。何をとした?


「覚えていない記憶が有るのか?」


 ぽつりと呟くと、すとんと腑に落ちる感覚があった。

 資料の纏め方、報告書の文字、作業室の済の空席。辞めた者の記憶は有るのに、消えたモノの記憶は無い。痕跡を残したまま、不手際な怪盗は何を持ち去ったのか。

 窓の外に目を向けると、美しい白白とした青い空。


『この碧天に融けたいな』


 塔の上には拙い手作りの、アミュレット。



 ビダヤ始まりは、ふと顔を上げた。

 当時の少年の面影は無く、硬く筋張ったスラリと均整の取れた体躯。


 傍らには、柔らかく曲線を描く長い髪の、美しい娘が侍る。

 時折、伏せられた瞳を縁取る長い睫毛をふるり。ふるり。と震わせながら、すぅすぅと白いデコルテが上下する。

 スルスルと溢れる一房の髪を掬って口付を落とす。


 あの日、彼女が望んでくれたから。


 彼女が悲しまないように戦って、闘って。

 彼女の為なら全て排除する事も厭わない。その一念で。

 

 手を広げて待つ彼女の胸に飛び込んで、温もりを分かち合って睡る。


 紺青の紗を何層にも重ねた蒼い世界でふたりだけ。


 幸せで倖せで仕合せでシアワセで。


 それナノに。


 貴方の横たわる紅い血溜まりの方が、温かいと思い出すのは、何故?


『ねぇ、母さん。』 


 濃紺の夜空にすぱりと切取られた半月の、月の舟が浮かんでいる。



 春はまだまだ遠く、火の気の無い書庫は指先から芯まで冷えて。


 最初はココアとキビ糖を良く混ぜて。

 温めたミルクは少しずつ。

 ツヤが出るまで丁寧に練って。

 吹き溢れない様にもう一度火にかけて。

 最後にハチミツをひと匙入れようか?


 司書様はこのビブリオに納められた全ての書籍について記憶しているけれど、休憩室の小さなキッチンに置かれたカップの位置さえ御存知無い。


 私しか飲まないココア。

 カップ1杯分のミルクパン。

 金色のスプーン。


 ひと雨毎に春が咲いて、冷たい石畳のこの街にも太陽が訪れるから。


 ふたり肩を並べる帰り道。


 ふと、司書様が一軒のフロント・ガーデンの前で足を止められて。

 廃墟であろうその庭を。壁を。余すところ無く広がる深いみどりの絨毯に散らばる花を見遣る。 


 地上に堕ちた、七角形ヘプタゴンの小さな白い星を。


 催花雨にうたれてほわりと滲む。


 そんな笑顔が好きだった。



 山の稜線を縁取る鮮やかな橙色と濃い陰のコントラスト。


 藤色のグラデーションに溶ける桃色の太陽。


 蒼い空に走る雲の輪郭を茜に光らせる黄昏れ。


 何時も夕闇の入り口はとてもキレイ。


 青空に刷毛で履いた真白の雲の様な髪を持つ2柱の神はとても仲が良く、治める土地は豊かで争い無く。


 外界から切り離された安寧のこの地を、他者は楽園と呼ぶ。


 ───本当に?


  爪先の汚れを振払って黒い尾を揺らす。


 ───ホントウニ?


 白い尾の先まで紅葉色に染めて牙の滴りを舌で拭う。


 境界を護る2柱の神は死に塗れて。


『おいしくないね』


 のとのはこてん。と互いに首を傾げて呟いた。


 深紅の大きな桑の実より芳醇な。

 薄く付いた脂肪は甘さを湛え。

 半透明の腱はこりりとろりと舌に溶けて。

 残る遺骸は縦に割れる事無くさくさくと小気味良く奥歯で砕け。


 掠れた声は、怖れを懐く程刹那くて。


『探しにゆこう』


 紅の太陽がつぷりと山間に消えた美しい夕闇を合図に、暮色蒼然の中、2匹の狐は闇に向かって駆け出した。


 

 蕭々と降る雨は、大地から温度を洗い流し青灰色に燻らせる。

 水墨山水画と写されるモノクロームの情景は、ひたひたと冷気で城市まちを包む。


 ふくよかな茉莉花の香りが彼女の鼻先をくすぐった。

 艶のある紫檀の机に広げた書類に走らせていた筆を止めて、ふと顔を上げる。

 音も無く開かれた扉の先で、手ずから淹れたのであろう茶机を持って彼が笑う。

 硝子の蓋碗がいわんの中で紅い工芸茶が咲いていた。


「根を詰め過ぎるのが君の悪いクセだね」


 堅果ナッツを糖蜜で固めた糖果を摘んで私の口に運ぶ際の指先から。真珠色の刺繍の施された袖口から。梔子と竜脳の薫りが微かに揺れる。

 冷静さを持つスっと漂う清涼感に寄添う様に安心を預けた。


「今日のお茶請けはもう一つあるんだ」


 茶目っ気たっぷりにウィンクしてから、一拍すると配膳台ワゴンがカラカラと押されて来た。───刹那。


 溟海うみの香り


 硫化ジメチルの死の香りと、海藻のフェロモンが鼻腔を刺す。

 此処に辿り着くまでに随分薄れてしまったであろうが、其れは海から来たモノであると主張する。


 私の視線を楽しそうに誘導しながら木箱の蓋が持ち上げられると、


 熱が。


 根元の鳥の鉤爪もそのままに、翠から黄に移ろう縮れた扁たい花弁。ぐずりと甘い芳香が木箱の潮と部屋に焚かれた麝香と混じる。


 ただ、暑く、熱い。

 

 強い雨が、建物を、家畜を、人を地に伏せる迄打ちのめす。

 驟雨の中、大丈夫。と伸ばされた手は。


 

 

 

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