Episode 催花雨

 気温が低く、季節が戻ったような冷たい雨。インクと古書の甘い香りのする建物の一角で、初老の男と少女から羽化したばかりの乙女が、並んで同じ書物を読んでいる。


 談話室でも調べ物の続きを始めた二人に、少しだけペッパーを混ぜた、温かいココアをサーブして、部屋を出る。


「ごゆっくり」


 重いオークの扉を出ると、絹糸の様な雨が、冷たい空気と共に身体を包む。薄い革のコートのフードを被って、レンガの街並みに足を踏み出し。

 白い息を吐き出すと、目と鼻の奥がじわりと熱を持って、心臓辺りがギュッと締まって苦しい。と感じながら、迷路の様なこの街の奥へ進んだ。


 石畳も、レンガの壁も、薄暗い灰色に侵食されて視界の色彩が2トーン落ちた路地。普段は露天商がチラホラ残る通りも、この気温と雨のせいで人気が無い。


 建物を繋ぐアーチのトンネルを抜けて、小さな路地に置かれた木箱を乗り越え、奥へ奥へ。


 建物を建物で支える様に造られているこの街の外れ、今は信仰の絶えた教会の入口を潜ると、屋根が崩れ落ちた、壁に囲まれた広い空間が広がっている。


 背後は切り立った崖になっており、この街では珍しい、空が広く一面に視界に映る。

 この鉛色の重い雨が止む頃、この街にも春と呼ぶ季節がやって来て、ここは白い小さな花が一面を覆うので、とても綺麗になるはず。


 貴方が教えてくれた、藪一華ウッドアネモネと、温かい手。


 フードを取って雨と肌を突き刺す冷に身体をたっぷり漬けて冷やしてから、祭壇であっただろう四角い大理石に飛び乗ると、何時もの様に―――霧散した。


◆◆◆


 諦めが良過ぎると思う方の為に、思い出話をしておこうと思う。


 直前迄、自分の物だった温かい感情が、身体をすり抜けて他人の物になってしまう事に、戸惑いや怒り、悲しみを持っていた頃の話。


 流石、神様の運命の糸で結ばれた恋人達とでも言おうか、二人は死を分かつまで。いや、死後の世界においても固く愛し合う。

 そんな片方と、一時的に恋仲にならないと話が進まないなんて、なんて出来損ないの世界なんですかね。怒りが絶望に、悲しみが哀しみに変わる頃、逃げ出すシヌ事を覚えたので、この滑稽な舞台から出来るだけ早めに退散するようになりました。いえ、私が側に居なくても世界が廻る事を知ったので、無理しなくてもいいじゃん?的な。


 絵に描いたようなヒーローとヒロインのHappyEndを幾つか見届けている中には、やっぱり私も、人間?なのでとてもとても惹かれる存在と出逢う事もある訳で。


 その時の相手は、人ではない長命な種族で。お互いただ、隣に存在するだけで満たされる様な、そんな静かな愛だったと、思う。此処に連れてこられて、久しぶりに深く眠れたりなんかしたもので。とぷりと嵌った私は、彼の運命の人が只の人間である事に希望を持って、しまった。

 ズルズルと、いや虎視眈々と、彼女の寿命が尽きるのを仄暗い感情を持って、まあ、どれだけそれが醜いかも、自覚していたのでひっそりと過ごし待って。待って。


 先刻、話したとおり、運命の人を失ったヒーローが再び誰かを選ぶことも無く。自分の役割を引き継ぐと、華が枯れるように朽ちて逝ってしまった。

 声にならない悲鳴を上げる私の後ろで、鈴を転がすような女神の笑い声が響いていたのを記憶しています。


 何度かそんな滑稽な一人踊りを繰り返すと、流石に思考で感情を押さえ付ける術を身に付ける事が出来ましたよ。


 まぁ、そんな訳でちょっと深く傷付いた様な時は、白いこの牢獄に早々に戻って竜涎香アンバーの香を強めに焚いて、眠ってしまうのが今のところ最善策なのです。

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