タダ酒は苦さを残し

 艶やかな黒髪を後ろに撫でつけた、精悍な男だった。手元にはずいぶん大きなマグが置かれている。オレが飲んでるやつの倍ぐらいあるだろうか。

 オレの視線に気が付いた男が、マグを掲げて陽気に笑う。筋肉質なたくましい腕は、曲げれば立派な力こぶが浮きそうだ。青と緑の幾何学模様が織り込まれた高価そうなベストを、少しばかり着崩しているが、服の上からでも胸板の厚さが見て取れる。

 気さくそうな男の隣には、蜂蜜色の髪を短く切り揃えた、真面目そうな男が座っている。こちらの背丈は、おそらくヴァルターと同じくらいだろう。隣の男と揃いのベストを、かっちりと着込んでいる。

 気さくそうな大男は、これ見よがしに自分のマグを飲み干すと、オレに流し目で微笑みかけてきた。


「あ……どうも」


 愛想笑いを浮かべつつ言えば、大男はにこにこと笑いながら、空いていたオレの隣の席に移ってきた。


「赤ワイン、苦手そうにしてたからね。ワインは初めてかい?」


 大男がにやりと笑う。骨ばった顔立ちに少しばかりの野性味が漂っていて、ヴァルターとは系統の違う「男くさい」色男だ。ヴァルターの完璧な美貌は、人が頑張ってどうにかなるとは思えねえ領域だが、こいつの男前ぶりであれば、努力で近づけるかもしれない――と考える世の男どもは多そうだ。

 それにしても、こいつにどう答えを返したもんか。ちびちび飲んでたせいで勘違いされたんだろうか。

 とりあえず、正直に答えておく。


「いや、むしろ好きだぜ。好きだから大事に飲んでたんだが」

「そうなんだねえ。それならなおのこと、この一杯は興味深いと思うよ。オレンジが加わることで、ぐっと飲みやすくなってるはずさ」


 半信半疑でマグに口をつける。なるほど、確かに柑橘のさっぱりした風味が、ワインの渋味とうまく噛み合ってて美味い。オレの反応を見て、大柄な男は豪快に笑った。


「若い子は初々しくていいねえ。……君、いくつ?」


 こっちの方は、正直に「七十二歳」と答えても、信用される気がしねえ。普段通り偽ることにする。


「十五歳だ」

「若いねえ。肌もきれいだし、ほんとかわいいよ」


 男の手が、オレの肩に回る。かかる息が、ほんのり酒臭い。


「君みたいなかわいい子と、ゆっくりお話ししたいなあ。名前、聞いてもいいかな?」


 囁き声が、あからさまに艶めいてきた。

 ……オレは確かにさっきまで、モテたいとは思ってたぞ。だがこれはちょっと予想外だ。

 男にモテてどうすんだよ、オレ――考えかけて、ふと気が付いた。


 考えようによっちゃ、これはチャンスだ。

 オレの心臓が、一つ大きく鳴った。


「……ロルフ・バウアーだ」


 答えると、男は目を思いきり細めて、口の端も大きく引き上げて、笑った。


「思った通り、すてきな名前だねえ……おや、ロルフくん、耳がちょっと尖ってるんだね。かわいいなあ」


 男の太い指が、耳の先っぽを撫でる。……オレには火精サラマンダーの血が半分入っている。精霊の血が入った人間は、耳の先がほんの少し尖るんだ。かわいいとは特に思ったことねえが。


「あんまり触るな。見せもんじゃねえぞ」

「ごめんごめん。ロルフくんがとっても素敵だから、つい、ね……赤い目も愛らしいなあ」


 男の目が、真正面の至近距離からオレを見つめる。息がこれだけ酒臭いのに、目の方はずいぶん真剣だ。

 冗談抜きにオレを「取って食う」つもりか、こいつ。

 ……ま、本気で惚れてくれてんなら、それはそれで都合が良くはあるんだが。


「髪もかわいいねえ。茶色の癖っ毛、あどけない感じでとってもいいよ」


 男の指が、今度は後ろ頭に伸びる。妖しい手つきが、短い巻毛をくるくる弄ぶ……モテモテだな、オレ。

 ちらりと、もう一人の男の方を確かめる。蜂蜜髪の真面目そうな男は、半ば呆れた表情でオレたちの方を見ているが……止めに来る気配はないようだ。

 ヴァルターの様子も確かめる。こちらは焼き魚の骨と格闘中だ。注意はオレの方に向いていない。

 よし、これなら。


「なあ、兄ちゃん」


 声を潜めて、オレは上目遣いに大柄な男を見つめた。軽く首を傾げ、ほんの少し唇を開き……王都にいた頃、お貴族様の侍女たちに「かわいい」と評判だった仕草を、懸命に思い出して再現する。

 態度の変化に気付いたのか、男が目をしばたたかせる。そして、オレの耳に唇を近づけた。


「……ジークハルト。僕の名だ。長いから、ジークでもいいよ」

「じゃあ、ジークさん」


 オレは身をすくめ、ヴァルターの方をちらりちらりと見遣りながら、極力哀れを誘う声を出す。


「オレを、助けてほしい」

「ん?」


 ジークハルトが、にこやかな表情を崩さないまま首を傾げる。

 オレは肩をすくめながら、目線でヴァルターを指し示した。


「あいつに捕まって連れ回されてる。助けてくれ。助けて、家に帰してくれ」


 オレを見下ろす目から、おどけた空気がすっと消えた。

 ジークハルトの大きな手が、胸元へ伸びてくる。太い指が、服の上から「隷属の首輪」の水晶に触れる。目の前の太い眉が、ぴくりと動いた。


 ひょっとしてこいつ、首輪のことを知ってるのかもしれねえ。だったら――


 オレは胸元のボタンを外し、下にある物をちらりと見せた。ジークハルトの表情が、見る間に強張っていく。

 カウンターの奥、元いた席のあたりに目配せをしつつ、大きな身体が立ち上がった。相方らしき蜂蜜髪の男が、応えて眉根を寄せた。


「なあベルちゃん」

「その名を外で呼ぶな」

「……ベルンハルト。ちょっとまずいことになった」


 ジークハルトは、ベルンハルトと呼ばれた連れの男の隣に座った。二人は、ちらりちらりとオレとヴァルターを見遣りつつ、潜めた声で何事かを話し始めた。


「何をしている」


 不意の声に振り向くと、ヴァルターだった。手元を見ると、見るも無残にバラバラになった魚の骨が、皿に小山を作っている。身はほとんど残っていないから、しっかり食べることはできたようだ……が、とりあえずそれはどうでもいい。

 ヴァルターは、話し合うジークハルトとベルンハルトをにらみつけ、最後にオレをにらんだ。


「あいつらと、何事か話していたようだが」

「酒を一杯おごってもらったんでな。ただの礼――」


 オレが言い終わらないうちに、例の二人が席を立った。大股に歩いてきて、共に深々とヴァルターに一礼する。

 頭を下げたまま、ベルンハルトが言った。


「申し訳ない。同行者が、あなたの『所有物』に手を出してしまった」


 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が、走る。

 所有物? オレはいつから、人じゃなくてモノにされたんだ!?

 呆然とするオレの前で、ジークハルトも言う。


「知らなかったとはいえ、申し訳ないことをした。あなたの『所有物』と知っていれば、手出しはしなかった。それだけは理解してほしい」

「何を言っているのか、よくわからないが――」


 煙に巻かれた表情で、ヴァルターは答える。


「――声をかける以上のことはしていないのだろう? であれば、俺が気にする筋合いでもない」

「恩に着る」


 ベルンハルトが再び一礼するのを、オレは呆然と眺めていた。

 どういうことだ? これが、「隷属の首輪」を付けられた人間に対する、世の連中の反応なのか?

 首輪を付けられたが最後、オレは一生こいつの「モノ」でなきゃならねえのか!?

 何か言おうにも言葉が出てこねえ。目の前で、ジークハルトがヴァルターに寄っていく。


「感謝する。……ところでひとつ訊きたいんだけど、彼の『具合』ってどんな感じ?」

「……は?」


 ヴァルターが首を傾げる。ジークハルトが、いやらしい笑いを浮かべてオレを見た。


「精力有り余った若い男が、かわいらしい少年を『隷属』させて連れ歩いてるなんて……やることはひとつだよね?」

「ねーよ!」


 思わず声を出しちまった。オレとこいつはそんなんじゃねえ!

 おいヴァルター、おまえからもなんとか言え!!


「すまないが、言っている意味が分からない」


 ヴァルターの奴、きょとんとした顔で言ってやがる……なんとなく予想はしてたけどよ。

 わかんねえなら、もっと強く否定してやってくれ! オレの名誉のためにも!!


「はぐらかすのかな? しかしあなたも罪作りだ、その顔なら寄ってくる女の子たちもよりどりみど――」

「ジークハルト!」


 険しい一言の後、ベルンハルトは数度咳払いをした。ジークハルトはばつが悪そうに一礼して、相方と共に席に戻っていく。

 止めてくれたのは素直にありがてえ。だが、オレの心は晴れなかった。

 オレとヴァルター、並んで歩けば……そんな風に見る奴もいるってことか。

 精霊の血で極端に老化が遅いこの身体、ここまで恨めしいと思ったことは、七十二年の人生で初めてだ。

 目の前に、ジークハルトのおごり酒がまだ半分ほど残っている。置いておくのも嫌な感じがして、オレは胴長のマグを一息にあおった。

 爽やかなオレンジの香りに混じって、赤ワインの味が舌を刺す。さっき飲んだ時よりも、渋味が強く感じられたのは気のせいだろうか。

 オレは店員の嬢ちゃんを呼んで、追加の飲物を注文した。


「一番強い酒を頼む」

「ラムでよろしいですか?」


 頷くと嬢ちゃんは奥に消えた。ほどなく、小さなマグ入りの透明な酒が目の前に置かれた。

 酒精の強い匂いごと、胃に流し込む。多少は明日に響くかもしれねえが、知ったことか。

 ちらりと横を見れば、ヴァルターは二匹目の焼き魚をばらすのに夢中だ。ワインはあんまり減ってねえみたいだから、いざとなりゃあこいつが部屋まで運んでくれるだろう。

 今は、忘れたかった。

 オレをモノ扱いした言葉と声を、酒で流してしまいたかった。

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