寝込みを襲う
夜中。ヴァルターがすっかり寝入ったことを確かめ、オレは部屋の窓を開けた。
幸いにも風は吹いていない。満月の清らかな光が、部屋を満たす。
神官様からおやっさん経由での言伝によると、死霊祓いには太陽か月の光が要る、らしい。今日が新月でなかったのは本当に幸いだった。
オレは、そっと入口の扉を開けた。おやっさんと、
「あの者ですか」
神官様の囁きに、無言で頷く。
二人が部屋に入ってきても、ヴァルターが起きる気配はない。神官様が
「我らが大いなる父ルークスよ。願わくは、我に不浄を払う力を与えたまえ――」
低く小さな声で、神官様が祈りの言葉を唱え始める。ヴァルターはまだ起きねえ。……起きてきたら、おやっさんとオレで押さえ込む手筈だ。
いつでも動けるよう、オレたちはベッドの両側で待機している。穏やかに寝てやがるヴァルターを見ながら、オレは眠くなりそうなお祈りを聞き流していた。
月光の中で目を閉じたヴァルターは、日中からは想像もつかねえくらいに力の抜けた表情をしてやがる。口をほんの少し開け、すうすうと小さな寝息を立てる顔を見下ろしていると、なんだか不意に哀れになってきた。
生前は負け続け、死後は死霊になり、ずっとゲオルクに執着し続けて、挙句この辺境の地で塵に還る。
せめて、もうちょっとましな人生を送れなかったのかね。その顔と剣術がありゃあ、もっといろいろやりようはあっただろうに。
……まあ、オレの知ったことじゃねえがな。余計な揉め事の種はちゃっちゃと除いて、平穏無事な日々を取り戻す。オレの望みはそれだけだ。
祈りが終わり、神官様はヴァルターの寝間着に手をかけた。左肩に何かがあるらしいとは、おやっさんを通して伝言済みだ。前で閉じる形の簡素な麻服を、細い指が一息に開く。
「……これは!」
神官様が息を呑んだ。同時に、ヴァルターが目を覚ました。
神官様の手から、護符が滑り落ちる。それさえ気にしないまま、神官様は長いローブに包まれた膝を折って、ヴァルターに向けて頭を垂れた。
「ん……なんだ」
寝ぼけ眼で、ヴァルターが神官様を見下ろす。はだけられた肩に、花のような青い痣が広がっている。
神官様の目は、白い肌の鮮やかな痕に釘付けになっていた。
「これはまさしく精霊の聖印……失礼ながらあなたさまは、これをどこで得られましたか」
目をしばたたかせながら、ヴァルターは自分の左肩に触れた。明らかに、事態を分かっていない風だ。いや、オレも何がどうなってんだかよくわかんねえんだが。
「俺は……
ヴァルターの言葉のひとつひとつに、神官様がおお、おお、と声をあげる。
「川に棲む水精は、水に落ちた人間を戯れに住処へ招くことがあると聞きます。ですが、地上に送り返すことは決してない。少なくとも私は聞いたことがございません。何が起きているのか、私には判断がつきかねますが――」
神官様は、ちらりとオレを見た。
「――ロルフさんが言うような死霊では、まったくございませんでした。大変失礼をいたしました」
血の気が引く。
自分の顔と背筋が一気に冷えていくのが、はっきりとわかった。
「……なに?」
ヴァルターの顔から眠気が消える。眉間に、深い皺がよった。
おやっさんが、横から続けた。
「ロルフさんから、部屋に死霊がいるとの連絡を受けましてな。神官様にお祓いをしてもらおうと思ったのですが……どうやら勘違いだったようで。失礼いたしました」
おやっさん、ちょっと待て。
オレは確かに「こいつに捕まってる」「バレたら、オレが殺されかねねえ」と言ったはずだぞ。うかつにもほどがある!
焦るオレに構うことなく、神官様は守護札を床から拾い、ヴァルターの手中に押し付けた。
「
「くれるというなら、もらっておこう。感謝する」
「あなたさまは、これからどちらへ」
「鉱山街シュタールへ向かう。そこで、強い武具を作る」
「武具を作って……どうなさいますか」
ヴァルターは軽く息を吐き、窓の外の満月を見た。煌々と照る月の光が、整った目鼻立ちの陰影を浮かび上がらせて……気を抜くと見とれそうになる。
「……討たねばならない相手がいる。この命に代えても、な」
「それは、精霊様の御心ですか」
ヴァルターが頷くと、神官様の表情が曇った。
「ならば、私からは何も言いますまい。あなたさまの行く手に、
神官様は両手を合わせ、そのまま前へと突き出した。「神の加護を分け与える」神官様たちの挨拶だ。
応えて、ヴァルターが頭を下げる。おやっさんと神官様が部屋を出て行くまで、ヴァルターはそのまま頭を垂れ続けていた。
……あいつらと一緒に、逃げちまいてえ。
どんだけそう思ったかわからねえ。だが、逃げても無駄だってことはわかってる。冷汗を滲ませながら、オレは二人を見送った。
部屋の扉が閉められ、オレとヴァルターが二人きりになる。長い銀髪が揺れ、ヴァルターが身を起こした。
「……さて」
恐ろしい眼光が、オレを見据えてくる。オレは、蛇に射すくめられた蛙みてえに動けなかった。
宿の壁に、両肩を押し付けられた。ヴァルターはオレより頭一つ大きい。覆いかぶさられてるみてえな圧迫感だ。
「俺を、祓い殺そうとしたな?」
低く囁くような声は、ひどくドスがきいていて、聞いただけで足から力が抜けていきそうだ。
だが、なんとか踏みとどまる。そして、答える。
「ああ、そのとおりだ」
ごまかしてもどうせバレる。こういう時は、素直に白状するにかぎる。
どんな「罰」が来るかは知らねえ。だが、どう転んだって軽くなることはねえだろう。
なら言いたいこと言って、さっさと済ませたほうが楽には違いねえ。厄介事は嫌いだが、先送りして膨れ上がらせるのはもっとダメだ、とはわかってる。
「言っておくが、『隷属の首輪』を着けた者は、『主人』が死ねば共に死ぬぞ」
ヴァルターが淡々と言った言葉に、絶句する。
なんとなく、そんな予感はあった。が、オレはどこかで、その可能性を見ねえようにしてた。
逃げられる可能性が、またひとつ消えた。
「……だがなぜだ? オレを殺して、どうしようとした?」
ヴァルターが、オレの顎に手をかけた。そのまま持ち上げられ、上を向かされる。
眼光は、さっきよりはいくぶん弱くなっていた。だが、相変わらず青い炎のように燃えている。
「なぜも何もあるかよ。いきなり襲われて攫われて、逃げようって思わねえ奴の方が珍しいだろ……しかも、昔の相方を殺す手伝いをしろとか冗談じゃねえ。まずてめえが死んでこい」
眼光が、かっと鋭くなった。だが、オレは当たり前のことを言ってるだけだ。
怒らせるだろうとは分かってる。だがどうせ「罰」は、こいつが今考えてる以上に酷くはならねえはずだ。祓い殺す計画がバレた時点で、心証は既に最悪だろうからな。どう転んでも面倒ごとがなくならねえなら、今は言いたいことを言っちまえ、オレ!
「どこまでも反抗するか、精霊鍛冶師アウレール」
「そんな奴は知らねえな。オレはフォルスト村のロルフ・バウアーだ……人の名前も正しく呼べねえ奴に、指一本分の力だって貸す気はないね」
ヴァルターが、オレの胸倉を掴んできた。
はっ、何やってんだよ。オレは当たり前のことしか言ってねえよ。これで怒るのはよっぽどだぞ?
「力づくで従わせる気か? いいぜ、言うこと聞くふりだけはしといてやるよ。だが、どんな『最高の武具』ができても、文句は言いっこなしだ」
ヴァルターの右手が、オレの胸から離れた。
「今は、それでもいい」
低い声に、少しばかり落ち着きが戻ってきた。オレがほっと一息つくと、ヴァルターはさらに続けた。
「ゲオルクからおまえを奪えれば、それでいい」
……落ち着きと思ったのは間違いだった。声色に、なんかヤバいもんが混じってる。
「俺は、あいつからすべてを奪う。まずは、おまえからだ」
ヴァルターの顔に、凄まじい笑いが浮かんでいる。
背筋が、凍りついた。
碧玉の瞳、形よい眉、通った鼻筋、弓なりに持ち上がった三日月の唇。ひとつひとつは完璧に美しいはずの、それらが……合わさるとどうして、こうも空恐ろしい笑顔になるのか。オレには、さっぱりわからなかった。
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