隷属の首輪
「悪りぃが、オレも仕事があるんでな!」
部屋真ん中の作業机を、ひらりと飛び越える。オレとヴァルターが、机を挟んで向かい合う形になった。
ヴァルターは、店の入口を塞ぐように立っている。あっちから出るのは無理だろう。だが反対側の奥――オレの背後には、日々暮らしている寝室と台所への扉がある。台所の先は勝手口だ。そこからなら、なんとか。
金床の上で、作ったばかりの鎌がまだ赤い熱を含んでいる。このまま放っていくのは悔しい、が、今はオレの身の安全が第一だ。まったく、とんでもねえ厄介事に巻き込まれちまった!
じりじりとにらみ合ううちにも、ヴァルターの殺気が膨れ上がってくる。すくみ上りそうになる足を、オレは一歩、また一歩、背後の扉へと進めていく。
一歩後ずさりするたび、ヴァルターも一歩前に踏み出してくる。逃がす気はねえ、ってことか。だがオレも、おとなしく捕まる気はねえ。
背後を探る手が、ドアノブに触れた。今だ。
「あばよ、ヴァルター!」
勢いよく扉を開けた。
そのまま走る。後ろを確かめず、走る。
「待て、アウレール!」
叫ぶ声を尻目に、ベッドと調理台の横を駆け抜ける。勝手口は目の前だ。
派手な足音が駆けてくる。問題ねえ。外にさえ出れば、野山はオレの庭だ。大丈夫、まける。
勝手口の引き戸に手をかけて、勢いよく開け――
――開かねえ!!
どうした。よりによって今、何かに引っかかったのか。確かに最近、滑りは悪くなってたが!
ありったけの力をこめて、何度も引いてみる。だが木の引き戸は、虚しくきしるばかりだ。開く気配が、ねえ。
頼む、開いてくれ。このままじゃオレは――
背後に、足音が迫る。殺気がビンビン伝わってくる。
後ろの様子を知りたくねえ。だが、事態は確かめなきゃならねえ。
肩越しにちらりと振り向いた瞬間――肩が、固い手に掴まれた。
上体を引かれ、床に倒される。
腹のあたりに、重い身体が馬乗りになった。両手首を掴まれて、木の床に押し付けられる。
「裏の出入口は、封じておいた」
「……っく!」
ヴァルターは細身だ。とはいえ剣士だけあって、筋肉はしっかり付いている。見た目よりもずいぶん重い身体は、この体勢からじゃあとても跳ね退けられねえ。
腰をよじる。足をばたつかせる。
それでも、組み敷かれた上体はちっとも動かせねえ。男にしては小柄な身体が、この時ばかりは恨めしい。
「おとなしくしろ。俺としても、手荒な真似はしたくない」
「既に十二分に手荒だっつうの!」
「おまえが逃げるからだ。素直についてくるなら、なにも問題はなかった」
「勝手口あらかじめ塞いでる時点で、力づくのつもりだっただろうが……!!」
ヴァルターが大きく溜息をつく。と同時に、オレの手首が自由になった。空いた両手で、ヴァルターは自分の懐から何かを探っている。
胴は、乗られて封じられたままだ。脱出はできない。だがこれは千載一遇の――そしておそらくは最後の――チャンスだ。
オレは鍛冶屋だ、だが自分の身は自分で守れる。オレの両手を自由にしたこと、後悔するといい。
軽く目を閉じ、右手を握る。拳に意識を集中すれば、バキバキと音を立てて皮膚が変質していく。
目を開けば右手首から先は、すっかり
ヴァルターが異変に気付いたようだ。だが、既に遅い。
身の内の熱を、右手に集中させる。
「はぁああぁぁあッッッ!!」
渾身の気迫をこめて、拳を振り抜く。
高熱を帯びた一撃が、ヴァルターの腹をぶち抜いた――はずだった。
「っぐ……!」
拳に走った激痛に、思わずうめきが漏れる。
鉄板を思いきり素手でぶん殴ったような、痛みだ。
見ればヴァルターの外套に、大きな焦げ穴が開いている。中に、黒い染みのついた金属鎧が見えた。
「『炎の拳』、思ったよりも威力があるのだな。しかし、どうあっても抵抗する気か」
呆然とするオレの腕を、ヴァルターが掴む。鱗に覆われていない肘のあたりを、縄で縛られた。
抵抗は、完全に封じられた。
「……俺も、こんな物は使いたくなかったが」
しゃらり、と、かすかな金属音が響く。突きつけられた物を見て、オレは目の前の奴の正気をいよいよ疑った。
こいつ、どこから、こんなものを持ってきやがった。
ヴァルターの手には、豪奢な金の首飾りが提がっている。コイン大の透明な水晶玉の周りに、蔓草をかたどった黄金飾りが幾重にも巻き付き、鎖の部分には紫や薄紅といった色とりどりの水晶が、滴の形に磨かれて散りばめられている。素人目には綺麗な飾り物にしか見えねえだろう。
だが、多少なりとも意匠学をかじった奴なら、こいつのヤバさはわかるはずだ。
巻きつく蔓草は「冥王の鎖」と呼ばれる毒草。滴形の水晶十一個は、十一の臓器を封じる呪具。
着けた者を完全に支配しようとする悪意が、細工のひとつひとつからにじみ出ている。
「てめえ、どこで……『隷属の首輪』なんざ、手に入れた……!!」
オレの問いに答えないまま、ヴァルターは自分の人差し指を噛んだ。一滴の血が水晶に落ち、透明だった石が、ドス黒い赤に芯から染まる。
あれを着けさせられたら、オレは終わりだ。
力の限りオレはもがいた。だが、一回り大きな相手に馬乗りされ、腕も縛られて、まともな抵抗などできるはずもねえ。
ヴァルターの手が、オレの首に首飾りを付けた。そして大きな掌で、オレの口を塞いだ。
青い目を伏せ、低く囁くような声で、ヴァルターは呪いの言葉を唱え始める。
「冥王モルス、死と眠りを統べる者よ。すべての魂の管理者よ。この者、我が眷属として永遠の服従を誓いし
隷属の首輪。
裏社会ではそれなりに出回っている呪具だ。服従させたい相手に着けて、「血の盟約」を完了すれば、そいつは術者に逆らえなくなる。魅了や洗脳の類とは違って、考えまで支配されることはないが、術者への反抗を試みた場合、激しい苦痛に襲われる。場合によっては死に至ることもあるらしい。
正しい手順を踏まずに外そうとした場合も同様。解放されるには、術者本人もしくは冥王神殿の高位神官による解呪が必要だという。
「我、冥王の名において血の盟約を行う。これより七を数えるうちに、
血の盟約には猶予があり、術者が七つ数える間に相手が拒否を宣言すれば、術式は無効になる。だからこの術式を行う奴は、あらかじめ相手の口を塞いでおくのだ。
当たり前だ、好きこのんで他人に支配されたがる奴なんざ誰もいねえ。捕虜になった兵士も、誘拐された子供も、好きでもない男に娶られた娘も……もちろん今のオレも!
「一、二……」
急ぎ気味に、ヴァルターが数を唱えはじめる。
オレは必死に頭を振ろうとした。だがヴァルターの掌にがっちりと押さえ込まれ、振り払えねえ。
やめろ。嫌だ。離せ。
汗ばんだ固い掌の下で、必死に声を出そうとする。だが、意味のない呻きにしかならねえ。
「三、四、五……」
おい冥王様よ。声には出せてねえが、オレは確かに拒否を宣言してるぞ。
口で言わなきゃ聞こえねえとか、神様のくせにどんだけポンコツなんだよ!
聞いてくれ、頼むから!!
「六……」
首飾りが熱を帯び始める。嫌な感じが背筋を伝い、全身が総毛立つ。
誰か。
誰か、助けてくれ。
叫んでも、声にならない。
「七。……盟約は成った!」
数え終わりと同時に、全身がびくりと大きく跳ねた。
強烈な痺れが、頭から足先までを走り抜けた。
痺れの後に、暗くもやもやした嫌な感じが残る。吐き気がしてきた。こいつが、隷属の首輪の呪いなのか。
ヴァルターが立ち上がった。口と胴体が自由になり、オレはげほげほと空気を吐いた。だが、身の内の澱みは消える気配がねえ。上目遣いににらみつけてやると、ヴァルターは目を細めてにらみ返してきた。
「鍛冶屋ロルフ……精霊鍛冶師アウレール。おまえは今から俺のものだ」
オレの腕の縄を解きながら、抑揚のない声でヴァルターは言った。
「俺と来い。俺のために、最高の武具を作れ」
「待て……オレにも、今の仕事ってもんがある」
こみあげる吐き気をこらえながら、どうにかオレは言葉を絞り出した。
「作れてねえ注文もある、引き渡してない修理の品もある……せめて、それだけ片付けさせて――」
「……冥王モルス。まつろわぬ
ヴァルターの言葉と同時に、身体が跳ねた。
なにか強烈な衝撃が、頭から足まで走り抜けた。後に、締め付けられるような痺れを残して。
立っていられなくなり、床に倒れ込む。痺れはますますひどくなってくる。
身体の中から焼かれているようだ。内臓が、口から飛び出してきそうだ。
息ができない。苦しい。誰か、助けてくれ――
思った瞬間、不意に苦しみは引いた。床に転がるオレを、ヴァルターが冷ややかに見下ろしている。
そうか、これが、「隷属の首輪」の罰か。
言うことを聞かなきゃあ、また今のと同じ……いや、場合によっちゃもっと酷い罰を、喰らわされるってことか。
まったく大した呪具だ。裏社会で引く手あまたなわけだよ!
「来い。いますぐにだ……俺はゲオルクを討たねばならない。一刻も早く」
ヴァルターが冷たく言い放つ。ああ、やっぱり最終目的はそれか。予想はしてたがな。
深い青をたたえた瞳を見上げながら、オレは乾いた笑い声をあげるしかできなかった。
間違いなかった。こいつは押し込み強盗だった。そして、力づくで奪われちまった。
この店で一番金目の物――つまりは、オレの身柄を。
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