第59話

俺は綾と2人で学校内にいた。



見慣れた教室に2人きり。



今が何時なのか、時計がなくてわからない。



校内には誰の姿もなくて、なぜか俺と綾だけがいた。



「どうしてあんなことをしたの?」



綾が涙目でそう聞いて来た。



あんなこと?



俺は思い当たる事がなくて首をかしげる。



綾の頬に触れて流れる涙をぬぐった。



その柔らかな頬の感触にドキッとしてしまい、慌てて手をひっこめた。



自分から触れておいてドキドキするなんて、俺って案外チキンなのか?



「もう忘れたの?」



綾が一歩近づいて来た。



シャンプーの香りが漂ってくる。



「えっと……なんのことだっけ?」



俺は至近距離の綾と視線を合わせることができなくてたじろく。



その瞬間、綾が俺にだきついてきたのだ。



距離感、ゼロ。



一瞬頭の中は真っ白になっていた。



入学した当初から綾の事を可愛いと思っていた。



だけどお互いに家のこともあるし、決められたいいなづけだっている。



この学校はそんな生徒ばかりが通う学校だから、誰でもそれを理解していた。



俺は綾を愛してはいけないし、綾も俺を愛してはいけなかった。



だから俺は綾を遠くから見つめているだけだった。



人を好きになった経験もあるし、その気持ちを押し込めてきた経験もある。



今回だって、同じように我慢すればいいだけだったのに……。



「な……んで……?」



俺は自分の腕の中に綾の温もりを感じながら、混乱していた。



綾だって俺と同じはずだった。



いいなづけ以外の人間を好きにならないように気をつけていたはずだった。



それなのに、どうして?



「だって好きになっちゃったから」



腕の中で綾が答える。



その言葉に胸がギュッと苦しくなるのを感じた。



だって好きになっちゃったから。



なんて単純で簡単な答えなんだろう。

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