カサンドラ①
カサンドラと会ったのは、ボストン湾が凍りついた厳しい寒さの、十五年くらい前の冬だったと思う。
やっと教員試験に受かって公立校の仕事にありつけた喜びも束の間、待っていたのは学級崩壊で九月からすでに二人の教師がさじを投げた、曰く付きの七年生の数学のポジションだった。
その空きを埋めるために、僕が新しく赴任したのは二月の一週間の冬休みのすぐ後だったように記憶している。
高速道路の高架下に駐車し、緊張した面持ちで真新しい校舎に入ると、まず目についたのが白人の警官と、チリチリの髪を後ろに結ったヒスパニック系のセキュリティガードだ。
IDを見せて、今日からここで働くと伝えていると、肥満でだるだるに伸びきった不健康な白い肌と同じくらい白い髪の教頭が、すぐ横のオフィスから出てきた。
「おはよう。ようこそ。この人達は外からの不審者の侵入に備えるためにいるんだよ」
喧嘩や生徒の問題の為にいるのかと思っていたのを見透かされたようだ。天井を見上げると監視カメラがいくつか見えた。
教頭はそのまま僕がこれから受け持つ教室に案内してくれた。緊張しつつ授業中の教室に入ると、日本で言う中学一年生の十二、三歳の子供たちが、三十人ほどこちらを見つめていた。
「こいつらが一番厄介でうっとおしいんだ」
彼は開口一番、遠慮なくみんなに聞こえるように言い放った。教室を見渡すと、ヒソヒソと「チノ」という言葉と共に、好奇に満ちた視線がいくつも刺さってきた。
「この人数学の先生?また辞めないの?」
一人の生徒が言うと教室は嘲笑で包まれた。
チノは、本来はスペイン語で中国人と言う意味だ。国によっては小さな男の子やアジア人を意味することもあるが、アジア人全体への蔑称で使われることもある。
カサンドラはその教室の端っこで、子供らしい笑顔でこちらを興味深そうに見つめていた。
数週間が過ぎたある日、丸っこいそのカサンドラが遅刻してきて教室に入ってきた。一人のおちゃらけた生徒がふざけて、
「こいつ、ポピーパフみたいじゃね?」
と、言うと教室は意地の悪い笑いで満ちた。
ポピーパフは子供に大人気のアニメで、日本で言うクレヨンしんちゃん的な、あまり子供に見せたくないか、面白い番組の中の小太りなキャラだ。
「なんだてめえもう一回言ってみろ!!」
その笑いが収まらないうちに、カサンドラは今にもその子を殴らんばかりの勢いで、進行方向にある机や椅子を押しのけながら、一直線にその子に向かっていった。
言った方の男の子は、軽い冗談のつもりで、まさかそんなにキレられるとは思っていなかった様で一瞬びっくりした表情を浮かべた。
しかし、他の子達の手前弱みを見せるわけにもいかないので、なんだこら、とばかりにヒョロリと立ち上がった。
まさに風が吹けば吹き飛びそうな、やせっぽちの白人のちびっ子だが、女子相手にビビった所を見せようものなら、あとでタフな仲間内で標的になるのは目に見えている。中学生の頭の中は世界中どこでも一緒。食うか食われるか。
僕も急いで間に入って宥めたが、カサンドラの怒りは治らない。ものすごいひどい言葉でその子を罵り続け、そのまま教室の扉をものすごい勢いでバチンと閉めて出て行ってしまった。
留学以来、アメリカ生活は五年をとうに過ぎていた。ある程度はのことには驚かなくなったものの、R指定の映画ですら使えそうにない言葉が十二歳の女の子の口から連発された事にとても驚き、僕はせんれいでもうけたような気分になった。
なんだよ今のすげえなあいつ、お前ビビってただろ、などとまだ興奮冷めやらぬ教室で、
「あの子があんな怒り方するとは思わなかったよ」
と言うと、
「ああ、先生はあいつの家族のこと知らないもんね」
と、一人の生徒が何気なく言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます