1章
1
G-SHOCKを確認する。5月4日、火曜日、午後5時。追跡対象の石塚晋也が、雑居ビルの中に入っていった。やや、間があって黒のアルファードから降りた女子高校生が同じ雑居ビルの中に消えた。その一部始終をカメラに収めたことを確認し、葛城宗次は眉間に皺を寄せる。
その雑居ビルのテナントは外から見る限り、3階のEDクリニックを除けば消費者金融ばかりである。葛城は消費者金融の客を装い、ビルに侵入する。シミがところどころにじむ打ちっぱなしコンクリートの内装はこのビルを建設してから今までの年月が相当であることを示す。葛城は仕事柄、そういったビルに何度も足を運ぶが、もその度にどうも落ち着かない気持ちにさせられる。エレベーター脇の郵便受けでテナントを確認する。
1階は消費者金融、2階も消費者金融、3階はEDクリニック、4階も消費者金融、5階は九品興業。
念の為にカメラに記録する。スマホで調べた限り、EDクリニックは営業時間外のようだ。
葛城の一週間に及ぶ追跡で石塚はギャンブルを一切せず、他に浪費的な趣味もないことが分かっている。とすればやはり、目的は九品興業であろう。
葛城はエレベーターに乗り込み、5階以外のボタンをすべて押し、フロアに石塚がいないかを確認する。このビルはエレベーターはひとつしか無い上、階段は非常階段だけである。
つまり、石塚が非常階段を使う、あるいは九品興業の5階にいる場合を除けば、確実にすれ違うことになる算段だ。
やはり居なかった。当然だが、女子高校生も居なかった。
非常にまずいことになってしまった。背中に冷たい汗がつたう。そもそも、石塚の後をつけていたのは、SNSのアカウントを割り出すためだった。それが、まさか。葛城はとにかく一階のボタンを押す。エレベーターはゆっくりと下ってゆく。
依頼は吉住からだった。吉住は葛城の大学の先輩で、現在外資のコンサルティングファームの人事である。依頼内容は、採用候補者数名の身辺調査。といっても、宗教や支持政党、思想やセクシュアリティなどで線引するのはコンプライアンスに違反するため、調査の過程で知ってしまっても報告をしない。葛城が調査するのは主にSNSの利用状況だ。このSNS社会の現代に於いて、従業員による漏洩リスクや想定外の炎上リスクをなるべく軽減するために吉住の勤めている会社では今年度から採用候補者のSNS調査を導入するそうだ。
石塚以外の他の数名は名前から探ったり、出身大学と名前の情報を合わせて検索したところすぐにSNSアカウントを特定できた。その上、内容も問題ないことが分かっている。
しかし、石塚だけは事前情報だけではアカウントを特定できなかった。また大学時代のサークルの友人や、高校の同期のSNSアカウントをたどっても不発。この現代において、エンジニアがSNSの類をやっていないとは考えられない。
そういった背景により、アカウント特定のため後をつけてスマホを覗き込むという泥臭い手段を取る必要が出てきたのである。
しかし石塚は、スマートフォンを移動中ほぼ眺めずに音楽を聞いているため、中々しっぽを出さない。今日不発だった場合、『SNS利用なし』として吉住に報告する予定だった。
それが、まさか。こんな。葛城は一刻も早くこのビルから立ち去りたかった。
エレベーターのドアが開く。カングールのバケットハットを目深にかぶった青年がエレベーターの出口を塞ぐように立っている。身長は、おおよそ180はあるだろうか。あまりの威圧感に葛城は気絶しそうになる。葛城の脳裏に様々な思い出が去来した。こういうのを走馬灯というのだろうか。
心臓がバクバクと鼓動している。このご時世だから男はマスクをしており、その上、サングラスをかけている。全く人相が伺えないが、葛城は直感的にこの男が怒っていることだけは察することが出来た。服装こそは今どきの若者らしく青いノースフェイスのナイロンのジャケットに黒いデニム姿である。しかし、理由は不明であるが靴が異様に黒く汚れている。葛城はそういった何故を見つけてしまうと、そのことしか考えられなくなってしまう。泥汚れなら分かるが、何故、油汚れのある靴を彼は履いているのだろうか。ビンテージとのたまうにはあまりにもボロボロである。
男は閉まろうとするエレベーターのドアに足を差し込み、葛城を追い詰める。
「九品興業の関係者さんですか」男は鋭い声を発しながら首を傾げた。子供や犬がするような可愛い動作ではなく、威圧するかのような所作である。
「いえ」そう答えるので葛城は精一杯だった。
「そうですか、では何故ここに」
「家賃の支払いのために、お金を」葛城のわずかばかりに残った探偵の意地で嘘を捻り出した。
男はふーんと値踏みするように頷いたあと、踵を返し、H駅前の雑踏に紛れていった。急いでエレベーターを降り、葛城はビルの外に出る。人々の間を5月の生ぬるい風が通りすぎてゆく。
やっとのことで横浜の黄金町にある事務所にたどり着くと、体の力が抜け、葛城はドアの前にへたりこんでしまった。どれくらいそうしていたのだろうか、どこかでクラクションが鳴ったところでようやく意識を取り戻した。
ドアの前にぶら下げた『外出中』のプレートをひっくり返し、『ようこそ』に変える。鍵を開け、中に入り、応接間の客用のソファに体を投げ出してしばしぼうっとする。
この仕事を選んだ時点で分かっていたはずだ、どこかのタイミングでまずいことに足を突っ込むことになるかもしれないと……
それがたまたま今日だったってことだ。
どうにか気力を出し、葛城はスマートフォンで九品興業で検索する。オレンジを基調とした立派な人材派遣会社のホームページがディスプレイに表示されている。
おかしな事に九品興業の扱う人材は介護士や保育士である。石塚は現在大手電機メーカーで組み込みエンジニアをしている。大学も慶應の工学部で、福祉とは全くの無縁である。あの女子高校生もそうだ。彼女に介護福祉士の資格も、保育士の資格もあるとは思えない。明らかに裏がある。もしかしたら、別の九品興業かもしれない。念の為住所を確認するとやはりH駅の近くであった。
葛城はソファの上で、石塚の件をどう報告するべきかについて考える。彼が女子高校生を買春しているかどうかは現場を押さえていないためはっきりと断定は出来ない。しかし、嫌な想像が葛城の頭の中で渦巻いてしまう。あの子は大丈夫だろうか。石塚は間違いなく、何か危ないことに手を出している。それだけははっきりと断言できた。
葛城はスマホの通話アプリをタップし、吉住への通話ボタンを押す。数コールで繋がった。
「もしもし、俺仕事中なんだけど、どったの」吉住の声は随分と胡乱げだ。
「吉住さん、あの、候補者の石塚さんなんですがどうもキナ臭くて」
「どうキナ臭いの」
「九品興業ってご存知でしょうか。人材派遣会社なんですが」
「ウチは日本の人材派遣会社は使ってないよ」
「あのですね、聞いて下さい。恐らく石塚は危ないことに足を突っ込んでいる可能性がありまして」
「詳しく教えてくれ」
エレベーターで待ち受けていた男以外の、本日目撃した内容全てを葛城は吉住に伝えた。
「できれば証拠があれば助かるんだけど」
「ビルに入る瞬間は一応抑えています」
「流石。有難う。メールで送って欲しい。その分の代金別途必要なら払うよ。ねえ話変わるけど、博士号取りたいまだ気持ちある?」
「いえ」
「探偵業じゃ食ってくの大変でしょ」
「分かってるなら報酬上げて下さいよ」
「ハハハそれは上司に相談しないとだな」鷹揚に吉住は笑う。
「では切ります」
「待って、お前も分かってるだろ。こんな仕事に先はないって。俺の研究室の教授がポスドク探していて、それか、今ウチの空いてるポジションのリファラル、お前になら出せるよ。色々あったとはいえ、一応東大の大学院出てるんだ、その能力を生かしたほうが」
「間に合ってます」
「俺はお前が心配なんだよ」
赤のアイコンをタップして、葛城は通話を一方的に中断する。なんとなくささくれだった気持ちになりデスクにしまっている咳止めシロップをとりだそうとするが、引き出しの中身は書類だけでからっぽであった。
凛、あいつ、また余計なことを。
葛城は舌打ちし、吉住への報告書を仕上げることにする。しかし、体の中から湧き上がる乾きと苛立ちが、咳止めシロップを求めており仕事が手に付かない。
咳止めシロップの含有成分であるコデインはオピオイドの一種である。オピオイドとはケシなどから採取される成分の化合物であり、鎮静作用と陶酔作用がある。同じくケシから生成されるオピオイドには麻薬であるヘロインなども含まれる。ヘロインは麻薬の中において、他の薬物を大きく引き離し、トップの依存性を誇る。
親戚であるコデインにもヘロインほどではないが依存性がある。用法用量を守って咳止めのために摂取するのには問題ないが、乱用してしまうと解脱症状に苦しむことになる。とどのつまり、葛城は咳止めシロップ、つまりコデイン乱用者のうちの一人であった。
灰色を生きる ラム肉太郎 @lamb_niku
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