十二.行く末

 

 

 早春の、霞掛った朝だった。

 屋敷町の外れの馬場には人だかりが出来、その黒山の取り囲む中に、陣営が二つ。

 馬場の中程にある大きな柳を挟んで対峙していた。

 一方は与十郎を取り巻く平井道場、もう一方は赤沢幸之助のそれだ。

 ただし赤沢は自らが席を置く金森道場の者を引き連れてはおらず、赤沢家の家人と奉公人を二、三人連れているだけである。

 仮にも子息の立身がかかった試合に、赤沢家老は姿も見せず、家人を名代としたらしかった。

「赤沢家老は来ていないようですが」

 与十郎は陣に控える平井に尋ねる。

「代わりに物頭の赤沢太兵衛殿が見届け役として来たようだな」

 赤沢の後ろで奉公人の設えた床几に掛け、腕組みをする男がそうだろう。

 幸之助の兄、即ち赤沢家老の嫡男である。

 執政の父とは別に自らも物頭として禄を受けており、順当に進めば間もなく番頭に推挙されるという話だ。

 赤沢家老自身も番頭から執政に登ったというから、赤沢家は歴とした武門の家柄なのである。

 前へ進み出た赤沢は普段通りに堂々とした様子で、余裕すら感じさせる。

 どこまで本気でこの勝負に臨んで来ているかは判然としないが、少なくとも先日の御前試合での敗北は、赤沢家の名折れであろう。

 その雪辱を晴らすには、この勝負に打ち勝つ他はない。

 床几席の物頭を見れば、それは自ずと伝わった。

 武に長けた強みも活かそうとせず、遊蕩の日々を送る弟に向けられる物頭の視線は険しい。

 赤沢幸之助も、それなりのものはその背に負っているのだろう。

 だが、与十郎には勝ちを譲る気は毛頭なかった。

「前へ」

 という判じ役の一声で、双方が襷掛けに木刀を携えて、広場になった中央へ進み出る。

 ざわめく観衆の中、与十郎は従容として赤沢を見眇めた。

 判じ役を勤めるのは、平井道場に縁のある上士で、碓井うすい三左衛門という番頭を務める男である。

 赤沢太兵衛とは別組の番組頭であった。

「勝負はただ一本。勝ったほうが平井道場の跡目を継ぐことに、両者異存はなかろうな」

 碓井が交互に双方を窺う。

「ない」

「おれもないぞ──、と言いたいところだが」

 赤沢の答えに、碓井がその意図を問う。

「おれが勝てば、島崎。やはり主には平井道場を抜けてもらおうか」

「いいだろう。私が勝てば、貴様も二度と志野の前に姿を現さんでもらおう」

 赤沢はにやりと笑った。

 両者合意と見て、碓井の一声が試合の幕を開ける。

 与十郎は青眼に、赤沢は脇構えから睨み合った。

 じりじりと互いに出方を窺い、春先の緩んだ空気が一変して張り詰める。

 風が一陣吹き付けて、馬場の柳を揺らした時。

 一瞬速く赤沢が跳躍し、揺らがず与十郎に向けて駆けた。

 体躯に似合わぬしなやかな走りは、見事と言う他にない。

 間合いに来たと踏んだ刹那、赤沢の剣は弧を描いて振り下ろされ、与十郎は鎬で受けてその勢いごと外に流す。

 次の瞬間には与十郎の一手が赤沢の脳天目掛けて襲いかかったが、赤沢も素早く体勢を立て直し、躱された。

 両者賺さず間合いを取り、与十郎は陽に構え直し、対する赤沢もまた八相に構える。

 そこから再び一合激しく斬り結んだ。

 正面から振り下ろされた赤沢の斬撃から身を退かせ、側面に回り込むと同時に赤沢の右腕に強かに打ち込んだ。

 打ち殺すぐらいの気負いで臨んだはずが、御前試合の時よりも格段に磨かれていたその技は侮れず、与十郎もその腕を打ち壊すに留まった。

 赤沢もまた、相応の覚悟でもってこの場に現れていたのだ。

 

   ***

 

「御前試合での無様な敗北を払拭すると申した割に、此度も手酷くやられおって。剣の腕が立つからと本邸に入れてやったものが、この程度とは片腹痛い」

 太兵衛は苦虫を噛み潰したような面持ちで吐き捨て、弟の幸之助を尻目に通り過ぎ、与十郎へ歩み寄る。

 背を向けて佇立したままの幸之助の表情は、与十郎には覗い知ることが出来なかった。

 直前まで歩み寄った太兵衛は与十郎を見据えて口を開く。

「島崎。お主とは親の代に浅からぬ因縁があるとは聞き及んでいるが……。どうだ、この勝負において溜飲を下げては貰えんか」

「……金輪際、平井道場と志野に近寄らぬという約束、固くお守り頂けるなら」

 与十郎が声音を固くすると、太兵衛は確かめるように深く頷く。

「無論、弟には相応の処分を下し、約束は守らせよう。見事であった」

 あの赤沢の兄とは俄にも思えぬ、道理を弁えた人物のように映った。

 刹那、その背後に突如金切り声が上がり、白刃が閃いた。

「与十郎どの!」

 志野が叫ぶ声と同時に太兵衛を左へ払い飛ばし、与十郎は鞘ごと引き抜いた大刀でその刀身を受ける。

 斬りかかった赤沢幸之助の顔は、鬼気迫る憤怒の形相で、与十郎を睨み落としていた。

 太兵衛を狙った刃は届かず、与十郎の鞘に食い込んだが、赤沢はそのまま切り落とそうと更に力を込める。

 木剣とはいえ、強かに打たれた腕は骨をやっていてもおかしくはないはずだった。

 負傷を微塵も感じさせぬ膂力に圧されるも、与十郎は眼前に押し留める。

「赤沢、貴様何のつもりだ」

「貴様さえ居らなんだら、今頃はおれがお上に認められ、身を立てていたものを……」

 その力は凄まじく、鞘ごと与十郎の刀を叩き割る気迫があった。

 不意のことに、受けた体勢も低く、受け流すにも押し返すにも与十郎の分が悪かった。

 膠着すればいずれ刃が届く。

 与十郎は咄嗟に刀を持つ手を捻ると赤沢の刀身にかかる勢いを逸らし、横へ流した。

 刃は鞘を抉りながら与十郎の左手をも斬り付け、鮮血が流れ落ちる。

 辛うじて手指を落とされることはなかったが、すぐ様抜刀すると、体勢を崩した赤沢を目掛けて刀身を振り下ろした。

 肩を深く斬り下げ、赤沢の体躯は血を噴き出しながら崩れ落ちる。どっと倒れ伏した時、その飛沫が与十郎の袴を汚した。

 突き飛ばされた太兵衛も、判じ役の碓井も、止めに入る間もなかった。

 

   ***

 

 どうせあれは妾腹だ。

 下賤の女の腹から出た弟など、当家には不要。

 その後に言い捨てた太兵衛の言葉は、七年の時が過ぎても尚、与十郎の中に深く沈んでいた。

 赤沢幸之助がどういう男であったかを知りながらも、その境遇には些か同情の念が残る。

 元々が殺す気で臨んだ試合だった。作法に則り、止めを刺してやれば良かったと今になっても思う。

 あの場で命を取り留めたものの、赤沢はその夜に腹を切って果てたという。

 与十郎に二度も敗北し、更には兄の太兵衛に不意打ちに抜き身を振るった。赤沢は自らのその後を憂いたのかもしれない。

 だが、あれは太兵衛ではなく、初めから出世の道に立ち塞がっていた与十郎に向けられた刃だったのだろう。

 与十郎の代になってから平井道場には門弟の数も増え、より賑わうようになっていた。

 志野は息子にも早くから木剣を持たせ、与十郎も今では息子と共に早朝から素振りに精を出すのが日課になっていた。

 婿入ってからというもの、守るべきものは増える一方だ。

「そろそろ朝餉にしますよ」

 素振りの手を止め、志野の声に振り返る。

 襷を掛けたまま迎えに出てきた志野と、逸早く志野に駆け寄る息子の姿を眺め、与十郎は静かに微笑んだ。

 

 

 【了】

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来し方、行く末 紫乃森統子 @shinomoritoko

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