十一.覚悟

 

 

 道場に着くなり、与十郎は半ば押し込められるように座敷に通された。

「志野に何があったのだ」

 門弟の佐野に付き添われて帰ってから、志野は部屋に閉じ籠もり、声をかけても何の返事もないという。

「佐野に問い質しても、どうも要領を得ないのだ。一緒に出たはずの婢も途中逸れたらしくてな、ついさっき戻って来おった」

 与十郎が佐野と同行していたことは既に聞き出していたのだろう。

 渋面の平井に詰め寄られたが、与十郎もまたすぐには口を開かなかった。

 あのことは志野の為にも口外すべきでないと思ったし、佐野も恐らくは志野を思い遣って答えを濁したものと思えた。

 代わりに、与十郎は内心の怒りも冷めやらぬままに平井を真っ向から見据える。

 既に心は決まっていた。

「赤沢との試合ですが」

 静かな怒気を孕んだ様が伝わったのか、平井もその眉宇を顰めて与十郎を見る。

「次も私が勝てば、その時は──私が志野どのの夫になることをお認め頂きたい」

 平井は喫驚したらしかったが、強張った面持ちにすぐに喜色を浮かべた。

「そうか、その気になってくれたのなら有り難い」

 が、平井は与十郎の顔色に変化のないことを訝るように覗き込む。

「やはり何かあったか。いや、もはや深くは尋ねまいが、いずれこの道場を託すことになるぞ。同時に、島崎の家名は絶えることになろう。本当にそれで良かろうな?」

 以前一度辞退していることから、平井も慎重にその意志を推し量っているようだ。

「既に覚悟を決めております」

 既に親類は離れ、肉親は鬼籍に入り、しがらみという柵もない。

 与十郎にあるのは、ただ島崎の名と、しがない普請組の勤めだけだ。

 道場も志野も、赤沢のほしいままにはさせまいと腹を括っていた。

 そこに、遠い日に父や母が味わったものの片鱗を見た気がしていた。

 

   ***

 

 志野の居る座敷の襖越しに声を掛けたが、やはり中からの返事は無かった。

 ほんの僅かな隙間から灯りが漏れ、時折衣擦れがすることから、志野が襖の向こうにいることは察しがついた。

 落として行った包みは小間物屋のそれで、中は針や糸のような小さな物ばかりだ。

 御前試合や葬儀に間に合わせて、志野が手ずから繕い物をしてくれていたことに思いあたる。

 そうして足りなくなった物を買いに出掛けて、赤沢に出会でくわしてしまったのだろう。

 応答のない以上は襖を開け放つのも躊躇われ、与十郎は静かに襖の前に包みを置く。

「志野どの。どうかこのまま、聞いて頂きたい」

 努めて静かに、襖の向こうへ語りかけた。

「今し方、私は貴女の夫になる心積りである旨を、お父上に申し出て参りました」

 志野の耳にも届いたのか、中で身動ぐ気配がする。

「もし、志野どのが私を望まなければ……、断って頂いて構いません」

 ただ、赤沢を退けるまでは返事をせずに待っていて欲しい。

 そう告げると、不意に畳を擦る音が聞こえ、襖越しのすぐ向こうに志野の声がした。

「先程は、助けて頂きありがとうございました」

 控え目に、元気な志野らしからぬ掠れた声がした。

 その声だけで、打ち沈んでいる様子が手に取るように判る。

 今すぐにもこの戸を開けてしまいたかったが、与十郎は袴の膝を握って堪える。

 傷付いているであろう女人の顔を暴くような真似はしたくなかった。

 だが、目を伏せた先の敷居に、ぼんやりした灯りが一条差した。

 思わず顔を上げると、志野が襖をそっと開けるところであった。

「志野どの」

 その顔を直視して良いものか迷う間もなく、宵闇の翳りの中にもはっきりと、泣き腫らした目をした志野が視界に映った。

「与十郎どののお申し出、とても嬉しく思います。でも……」

 志野は言いながら俯き、その両手を膝で擦り合わせるように握る。

 僅かな灯りに照らし出された志野の手は、赤々と腫れているようだった。

「あのようなところをお見せしてしまっては、とてもお話をお受けすることなど……」

 志野の声は涙で潤み、掻き消えそうなか細い声だった。

 普段の明朗快活な姿が嘘のような憔悴ぶりである。

 その落差が一層痛々しく、胸の奥がきつく締め付けられる。

「──志野」

 その名を呼び、与十郎は思わず志野の身体を抱き寄せた。

 抱いた肩は細く、柔らかな感触に驚いた。

 志野に抵抗する気配がないと知ると、腕に抱いたまま、壊れ物でも扱うように優しく頬に手を添わす。

 俯いた志野の頬を軽く掌で包むように持ち上げ、与十郎は志野のふっくらとした唇にその唇を重ね合わせた。

 暫時その感触に酔い痴れ、受けたであろう傷を吸い上げるように、丹念に志野の小さな唇に這わす。

 やがて静かに離すと、与十郎は間近から志野の様子を窺った。

 泣き腫らしたのとは別に、志野は頬から耳朶までを紅く火照らせ、恥じ入るように目を潤ませる。

 やり場に困ってか、その目線は終始与十郎の胸元あたりを泳いだ。

 その仕草が堪らず愛おしく、同時に恥じらいはするものの拒む様子のないことに安堵を覚える。

「御前試合でも、父の葬儀でも、随分とたすけられた。この齢にしておかしなものだが、初めて心に寄り添って貰えたように感じて──。それから、貴女を想わぬ日はありませんでした」

「………」

 志野はそろそろと顔上げ、その視線と与十郎のそれが絡む。

「私で、良いのですか」

 戸惑いと不安の色が濃く滲んだ志野の視線を受けて、与十郎は微笑んだ。

 

 

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