十.激情

 

 

 与十郎の懸念は、半ば的中した。

 試合の日が間もなくに迫った頃、下城した道すがら、同門の佐野伝蔵と連立って平井道場へ向かう与十郎の前に、赤沢が現れたのである。

 それも、どういうわけか傍らに志野の姿も見え、与十郎は隣を歩く佐野と顔を見合わせた。

 柳の並ぶ堀端の道に沿って、屋敷の塀が連なる先に、二人はいた。

 まだ与十郎らの存在には気付いていないようだったが、志野は壁際に追い詰められ、何事か言い争っているように見えた。

 赤沢のほうは普段の通り悠然とした態度であるが、志野は徐々に後退り、ついに壁に背を付いた。

「おい、見てみろ。妙な取合せだぞ」

 佐野の声に、与十郎も頷く。

「しかし、様子がおかしくはないか」

 志野は険しい顔で赤沢を見上げ、身を捩って強張らせているようだった。

 赤沢が志野に迫る理由など一つしか思い当たらないが、それにしては不穏な気配である。

 後々面倒になるかもしれないが、見過ごすわけにもいかない。

 少なくとも嫌がっている様子の志野を見る限り、介入すべきだろう。

 と、佐野に目配せた時。

 まだ五間は先の赤沢の手が志野の顎を掴むと、押しやろうとする志野の手を難無く抑え込んだ。

 与十郎が瞠目し全身が総毛立つような感覚を覚えると同時に、赤沢の口が志野のそれを喰むように覆ったその一部始終を目の当たりにしたのである。

 腹の底が煮え立つように沸き上がり、次の瞬間には二人の間に割って入っていた。

 佐野が何か言っていたようだが、それはもはや聞こえなかった。

「貴様、こんな往来で志野どのに不埒な真似をするとはどういう了見だ」

 自分の声だとは思い難い、低く冷淡な声が出た。

 赤沢の巨躯を押し退け、背にしっかりと志野を庇いながら睨めつける。

 赤沢もやや驚いたふうではあったが、すぐにいつもの胡乱なにやつき顔に戻った。

「主こそ、祝言間近の逢瀬を邪魔するとは、不粋ではないか? なぁ、志野」

 与十郎の背に隠れた志野を呼び、赤沢は目を眇める。

「何の妄言か。志野どのは貴様の申し出を受けたわけではない」

「まだ、だろう? いずれそうなるものが、少し早まったとて不都合はなかろうよ。おなごなどというのは、口の一つも吸うてやればすぐに靡く。そこからはもう、なし崩しに手に入るぞ」

 豪語する赤沢を前に、与十郎は思わず左手を鞘に添わす。

 与十郎の動きを察したか、赤沢も幾許か顔色を変えた。

「なんだ、気に障ったか? そこまで惚れ込んでいるとは思わなんだな。身内でもないおなごのために私闘に及ぶつもりか?」

「………」

 その背後で、志野が与十郎の着物の背を握った感触が伝わり、寸でのところで鍔裏を押し上げるのを堪えた。

(赤沢というのは、父子ともどもにろくな奴ではない)

 父母を苦しめた赤沢家老の倅だというのが、殊更に憤怒を煽り立てる。

「与十郎どの──」

「佐野、悪いが志野どのを頼む」

 何か言い掛けた志野を遮り、遅れて駆け付けた佐野のほうへ志野の背を押してやる。

 目は赤沢を見据えたままだ。

「そう睨むな。先日の試合は勝ちを譲ったが、次はそうはいかん」

「貴様に譲られた覚えはない」

 今にも鯉口を切りそうになるのを堪え、与十郎は噛み締めた奥歯が微かに鳴るのを聞く。

「ああそうだ、気の触れた父親が自尽したそうだな。二親が揃って自害とは、気の毒な事だ」

 ここで挑発に乗れば、与十郎だけに留まらず道場にも咎めがあるだろう。

 異変に気付いた町の者が、ちらほらと遠巻きに窺っている気配もある。

 その数は徐々に増えていたし、何より肝心の赤沢は刀に手を掛ける素振りもない。

「………」

「どうした、抜かんのか」

「我が父母の恨みは貴様にはない。──だが、志野については違う」

「ほぉ、言うではないか」

 赤沢は嘲るように笑った。

「これ以上志野を傷付けるような真似をすれば、その時は迷わず斬る」

 

   ***

 

 平井道場の裏手にある井戸端で、佐野は懸命に志野の嗚咽を宥めていた。

 何度も口を漱ぎ、顔を洗い、冷たい井戸水に晒されて志野の手は腫れたように赤い。

「志野さん、もう充分だ。あまり冷たい水で擦ると傷になるぞ」

 言って手拭地を差し出すが、志野はまたぞろ瞳を潤ませて一心不乱に口を洗う。

「気持ちは分かるが、もう中へ入ろう」

 入相の空は遠く山の稜線を黒々と際立たせ、烏の鳴き声も疎らになっていた。

 風も冷たさを増し、それだけでも身震いするほどだというのに、志野はいっかな動こうとはしない。

(介入したのはまずかっただろうかな)

 志野にしてみれば、見られたくはなかっただろう。

 しかし、仮に佐野が止めたとしても、与十郎のあの様子では徒労に終わっていたに違いなかった。

 

   ***

 

 これほどに強い憤りを感じたことはなかった。

 過去にも理不尽は多々あったが、刀に手を添えるような事はただの一度もない。

 母の時も、父の時も、その時は半ば諦めにも似た気持ちがあった。

 だが、父母が心労を重ねた裏に赤沢家老の存在があった。

 今もまた、志野を翻弄し辱めようとした赤沢の三男幸之助を目の当たりにした。

 こうやって赤沢父子はわけもなく人を弄ぶのだ。

 随分と長く睨み合った。

 だが、どうせ数日のうちには立ち合うことになると己に言い聞かせ、与十郎は刀に触れた手を下げたのだった。

 真剣勝負を挑むことすら念頭を過ったが、次の試合は竹刀ではなく木剣を用いることになっている。

(──木刀試合で死人が出るのは、間々あることだ)

 そう考えて、漸く怒りを抑え込んだ。

 ここまでの激情に駆られる己自身に驚きつつも、やはり許し難く、同時に志野の様子もひどく心にかかる。

 志野が取り落として行ったらしい包みを拾い上げ、与十郎は道場へと足を向けたのであった。

 

 

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