九.恋慕

 

 

 鉈を噛ませた薪ごと振り上げて、叩き付けるように振り下ろす。

 すると薪は真っ二つに裂けて、からりと乾いた音を立てて左右に転がった。

 激しく戸を叩く音が聞こえたのは、与十郎が次の薪に手を掛けた時のことだった。

 只事でないと察した与十郎が薪を放って来客を迎えると、そこには青褪めた志野の姿があった。

「志野どの? 血相を変えて、一体どうし──」

「急ぎ与十郎どのにお話ししたいことが……」

 誰かに聞こえはしないかと、志野は忙しなく周囲を窺っているようだった。

 志野に背を押されながら、玄関の中へ入る。

「し、志野どの、……いやその、あまり掃除が行き届いていなくて」

「部屋など今度私が掃除に参ります」

 外に人のいないことを念入りに確かめてから、志野は戸を締めた。

 そこまで厳重に壁の耳を気にするわけが、志野の口から語られた名で判明したのである。

「実は今日、赤沢幸之助どのにお会いしました」

「志野どのが、ですか」

「はい。そこで平井道場に婿入りすると申されたのです。以前、父が与十郎どのに打診していたことをご存知の様子で……」

 恐らくは、部屋住みの身を立てる術とする以外にも、与十郎に対する当て付けも多分に含んであるのだろう。

 志野の話から、与十郎にも容易に想像がついた。

 日頃から横柄に振舞っていた手前、御前試合での敗北は余程にその矜持を傷付けたはずである。

「そこで折り入って、お願いがございます」

 身丈の差から自然上目遣いとはなったが、志野は胸の前に両手を握り締め、真正面から語気を強めた。

 その緊張を孕んだ面持ちに、与十郎も俄に心の臓が早鐘を打つのを感じて息を呑む。

 或いは志野から直に、婿入りを乞われるかと思ったのだ。

 志野の目はじっと与十郎のそれを捉え、逸らされる気配がない。

 視線を受け、耳や頬に内から込み上げるような熱を感じた。

「与十郎どの。私は、どうあっても赤沢幸之助どのと夫婦めおとにはなりたくありません」

「あ、ああ」

 それはそうだろう、と与十郎も思う。

 ふらふらと遊び歩き、浮名を流しているような男を夫にするには、相当の覚悟と諦観が要る。

 況して志野のように一本筋の通ったおなごには、耐え難いものに違いない。

 与十郎が今からでも先日の打診に応じると言えば、平井家も断る理由が持てる。

 志野はそのために来たものと思われた。

(だとすれば──)

 その場しのぎの仮初のものだとしても、夫婦の約束をおなごの口から言わせるわけにはいかないだろう。

 瞬時にそこまで考え至ると、急に喉の奥が乾いた。

「あの、志野どのがもし、私で構わないと言うのなら──」

「どうか私に剣術を教えて頂きたいのです」

「え? ……剣、剣術?」

「はい」

 志野は大真面目に与十郎を見据えて頷く。

 全く以て思いもよらない言葉が飛び出し、与十郎は暫し呆然としてしまったのだった。

 

   ***

 

 茶の間に通し、その意図をよくよく聞けば、つまりは自分で何とかするということだった。

「私と立ち合って勝てなければ、道場を継ぐ資格無しとして突っ撥ねる理由に致します」

 そう断言する志野を前に、与十郎は目眩がするような心地になった。

 無謀だ。

 こうしたところが、婿取りを難航させる所以なのだろう。

 なるほどな、と密かに納得する。

「志野どの、私ですら三本のうち一本は赤沢に取られたのです。貴女にそんな勝負はさせられません」

「ですが、このままでは道場はあの男に牛耳られてしまいます。ここは一歩も引けません」

 そこで道場主の平井が勝負するならまだしも、自ら打って出ようとするところに与十郎は思わず噴き出し、破顔してしまった。

「何故お笑いになるのですか! 道場にとっては深刻な問題なのですよ?!」

「いや、申し訳ない。確かにそうなっては困りますね」

 面白いと思ったのも、況して噴き出して笑い声を上げることも久しく無かったのに。

 平井道場にとっては由々しき問題であるが、与十郎にはより一層、志野が好ましく思えてならなかった。

「御事情はわかりました」

「では、お教え願えますか」

 ぱっと表情を輝かせた志野に、与十郎は苦笑して返した。

「いえ──、赤沢が志野どのの婿に名乗りを上げるというなら、私がその勝負に臨みましょう」

 

   ***

 

 志野が懸念していた通り、赤沢は数日のうちに正式な申し入れをしてきた。

 恐らく幸之助の処遇には赤沢執政も頭を悩ませていたのかもしれない。

 放蕩息子が漸く身を立てる気になったと、委細は問わず喜んで婿に差し出すつもりなのだろう。

 平井の側は、やはり道場を継がせるにはそれなりの実力を示す必要があることを強調し、高弟との勝負に勝つことを婿入りの条件として提示した。

 赤沢家老も、それを呑んだらしい。

 与十郎も間もなく城勤めに復帰したが、朝夕には必ず平井道場に顔を出すようになっていた。

 自ら受けて立つと断言した以上、御前試合以上に負けられない試合だと思った。

「赤沢を退けたいのは勿論だが、これでまた志野の縁組が難しくなるな」

 毎日のように平井と立ち合い稽古を繰り返す与十郎に、平井は時折ぼやいたが、平井自身も赤沢幸之助には良い感情を抱いていないのは明白だ。

 よりによってあんな男が名乗りを上げるとは、と気が滅入っている様子で度々愚痴を溢している。

「赤沢は志野どのに無闇に近付いてはいませんか」

 元がああいう輩だ。縁組の結納の、という段取りとは関係なく、狙ったおなごに手を出して来ないとも限らない。

 勝負そのものは無論だが、志野の身が危うくなりはしないかという懸念も強かった。

 すると平井は意外そうに目を丸くし、与十郎の顔をまじまじと観察する。

「……志野に惚れたか?」

「なっ、なんの話ですか! 私は赤沢が志野どのに何もせずにいるはずがないだろうと──」

 それこそ既成事実の一つでも作ったところで何の不思議もないような男だ。

「くれぐれも注意なさるよう、志野どのにお伝えください」

「……そうか、なるほどな。全く同じ反応だの」

 平井はぶつぶつと独り言ち、妙に得心の行った顔をして、何度か頷いたのであった。

 

 

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