八.遺恨
「何とかせねばな……」
今朝も平井家の婢がやって来て、寒鰆の塩焼きと白菜の漬物を届けてくれた。
その都度何か不便はないかと尋ねられるが、これ以上手を煩わせるのも気が引けて、礼を言って帰してやっていた。
与十郎の一言を受け取ると、食い下がるでもなくすんなり帰っていくので、恐らくはそう尋ねるよう志野に言い含められて来ているだけなのだろう。
早々に奉公人を雇わねば、志野の負担になってしまう。
(たかに頼めばまた戻ってくれるだろうかの)
朝餉の膳に箸を付け、届けられたばかりの魚を口に含むと、まだ仄かに温かく、焼き上げてすぐに遣いを出してくれたのだと分かった。
「………」
一人きりになった家の中は、耳鳴りがするほどの静寂に包まれ、平穏とも寂寞ともつかぬ空気が漂う。
葬儀の日、与十郎の取り留めもない過去の話に口を挟むでもなく、ただ穏やかに耳を傾けてくれていた志野の顔が浮かんだ。
あれ以来、志野が顔を出すことはなかったが、こうして毎日婢を遣わし、気に掛けてくれている。
有難く思うし、申し訳なくも思った。
もう七日は顔を見ていないが、志野はどうしているのだろうか。
少なくとも朝夕には与十郎を思い出し、気に留めているのに違いないが、婿取りのあては見つかったのだろうか。
御前試合の後、平井道場は少なからずその名を上げた。
新たに入門した者も多かろう。
他の道場から移った者もあるかもしれない。
その中に志野の夫となる者を見出していることも十分あり得ることだ。
ぼんやりと考えに耽り、箸が止まっていることに気付いて、与十郎は
平井からの打診は、既に断ったものだ。自ら蒸し返して、どうなるものでもない。
何より、父の死によって与十郎ただ一人が残されたこの家を、これから立て直してゆかねばならない状況にある。
嫁を取り、子を為し、これまで同様勤めに励む。
それだけのことだが、与十郎にはそれが至極難しいことに思えてならなかった。
***
「おれが婿に入ってやってもよいぞ」
一礼して通り過ぎようとした志野を呼び止め、赤沢は唐突に言い放った。
御前試合の日、与十郎が見事に打ち負かした相手だ。
平井道場の門人にお上の御前で敗北を喫しておいて、何を寝惚けたことを、と志野は思った。
試合の後に平井道場の門人から聞き知った話では、赤沢のほうはあれを僅差の惜敗で、打ち込まれる間際に与十郎に恨み言を吐かれ不意を突かれたが故の敗北だと、周囲に言い触らして憚らないという。
無論、与十郎は試合においてそんな言動は取らないと思ったし、寧ろ平井道場側の席から見えた限りでは、何事か口を動かしていたのは赤沢のほうだ。
負けたことが余程気に入らなかったのだろう。
(みっともない男)
そう思いつつも、志野は顔を下向けたままで赤沢の申し出に遠慮を示した。
「お心遣い、感謝致します。しかし平井の道場如きでは、ご家老様のお家柄にはとても釣り合いませぬ」
婉曲に断ったものの、赤沢は引き下がる気振りもなく、逆に行く手を遮るかのように志野の前に立ち塞がった。
「おれのような三男坊の相手に、家格など求めてはおらんさ。それに、お前ももう二十歳だそうではないか。お前は無事良縁に恵まれ、おれは剣の腕を活かして道場を継ぐ」
互いにとって良い話だろう、と念を押すように続ける。
「ちょうど今から平井道場へ出向くつもりだったのだ。平井殿に挨拶をと思ってな」
と、赤沢は志野に同道するつもりのようだった。
「婿入りの話、島崎与十郎は辞退したそうではないか。まァ、あんな問題ばかりの男に跡目を譲ろうなど、父御も随分な焦りようだ」
「………」
「お前もあんな風采も上がらぬ男を夫にするより、おれのほうが良かろう」
それとも、と、赤沢は息のかかるほど近くにじり寄り、志野を舐め回すように見た。
「随分甲斐甲斐しく世話をしておったようだが、気があるのはお前のほうか?」
「いえ、そのようなことは──」
ない、と最後まで声に乗せることは出来なかった。
視線を逸らしたまま、煮え切らぬ返事ばかりの志野が面白くないのか、赤沢はふんと鼻を鳴らした。
「まったく、父子共々、目障りなものよな」
尊大に振舞う赤沢に、志野は苛立ちを抑えるのに苦心した。
「……お話は有難く存じますが、今日は父も留守にしております。不在のところへお運び頂くわけにも参りませんし、今日のところはこれで」
そう言って志野は半ば強引に切りをつけ、赤沢の脇をすり抜ける。
が、赤沢はその僅かな挙措を読み、志野の上膊を鷲掴んだ。
「ほう? ではいつ頃お戻りかな?」
「そこまでは、存じません──」
まずいことを口走ったと思った。
これでは在宅の予定を答える羽目になる。
「申し訳ございません。お申し出を頂いたことは、父にも伝えますので」
如何に評判の悪い人物でも、その後ろにいるのはこの国の執政である。
下手に楯突いて心証を悪くするわけにはいかなかった。
だが赤沢はなかなかその手を放そうとはせず、あろうことか志野の耳元に頬を寄せてきた。
「祝言の日が待ち遠しいな」
囁かれた言葉と、耳朶にかかった息の生温さに、志野はぞっと肌が粟立った。
***
今の様子では、本当に婿入りを申し出るつもりだろう。
赤沢家の家督はそう遠くなく嫡男が相続するであろうし、二男は既に他家に養子入りして身を立てている。
残る三男の幸之助だけが、部屋住みのまま放蕩の限りを尽しているのだ。
焦っているのは、あの男のほうだ。
婢を急かし、志野は悠然とこちらを見送る赤沢の目から逃れるように辻を曲がった。
「おまえはこのまま道場に戻って、このことを父上に伝えなさい。私は念のため与十郎どのに伝えます。いいですね。道中くれぐれも、赤沢幸之助さまに会わぬよう、気を付けて」
父が不在などとは咄嗟に出た嘘だ。
婢に言い含め、志野は次の辻で婢と道を分かったのである。
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