第4話
若干の二日酔いを頭の奥に感じながら来海静香は目覚めた。今日は非番なので、ひたすら布団の中に転がっていたいという誘惑が頭の片隅に生まれては消え生まれては消えしたが、枕元に置いていた昨夜のポストカードを手に取ってしばしそれを眺めて、「よし!海へ行こう!」と起き上がった。
布団の中で目を覚ましたのがどうやら十時過ぎ、歯を磨いたり顔を洗ったり服を選んだり化粧をしたりしていたら、お昼を少しまわった頃に家を出る事になった。
「行ってきまーす!」住んでいるシェアハウスの玄関先で誰に向かってという訳でなく来海静香が言うと、「おう。行ってらっしゃい」「行ってらっしゃーい」とオーナーとシェアメイトの声が聞こえた。「やっぱりここに住んだのは正解だったな」そんなことを思いながら来海静香の足は海へ向かう。
坂を下り、駅を通り抜け、来海静香は垂水の海を正面にする。風が吹き抜けて少し寒い。「海と言えば砂浜だよね」と、明石海峡大橋がすぐそこに見える海水浴場へ足を向ける。空を見上げるとかすれた様な申し訳程度の雲がある。快晴だ。「出会い日和かもね」歩きながら来海静香はポツリと漏らす。
道路と砂浜を分けて立つ堤防に沿って来海静香は砂浜を歩く。身長よりも少し低い堤防だが、それは吹き付ける風を少し和らげる。海水浴シーズンにはまだ遠い時期だ。人影は見えない。堤防の根元には雑草がわさわさと生えている。昨夜もらったポストカードの事を思い出し、雑草を観察してみようと来海静香はしゃがみこむ。ハマヒルガオの花を触ってみたり、その葉っぱに触れてみたりする。潮にまみれる事が日常のそんな苛烈な環境の中で逞しく育つそれらの葉っぱはしっかりと肉厚だった。
しゃがみこんだまま、来海静香は写真に収めておこうとカバンの中のスマートフォンを取り出そうとした。すると、何やら走る足音が近づいてきているのに気が付いた。何の音だろうと立ち上がって堤防の向こうに目をやろうとしたら、目の前に靴があった。「あっ!」「わっ!」来海静香は小さく声をあげながら咄嗟にしゃがんで事なきを得たが、もう一つの声の主、すなわちその靴を履いた男性は来海静香を飛び越えて砂浜に転がった。着地ではなく、転倒、だ。
「大丈夫……ですか?」と、来海静香が言い終わるよりも先に「大丈夫でした? すいませんでした!」と、その男性は起き上がり、四つん這いで乾いた砂の上を這うように来海静香に近寄った。
「ええ。すぐにしゃがんだので蹴られたりはしてませんし。びっくりしましたけど」
「本当にすみません。まさか人がいるなんて……。いえ、もちろん、いつでもそれを想定してないとダメなんですけど」申し訳なさそうに話すその表情と声は来海静香にある種の安心感を与えた。『たぶん、この人、いい人だ』はっきり言語化した訳ではないが、来海静香の心の中にはそんな思いが生まれていた。
「砂まみれじゃないですか」と来海静香は男性の肩や背中の砂を手で払った。自身では払いにくそうな部分を気が付いた順に払っていった。その男性も照れながら自分に付いた砂を手で払う。そして、それと意識せずに手と手が触れあったその時、【まとわりつく死神】の感覚に襲われ、来海静香はその手を思わず引っ込めた。
「あ、すみません。痛かったですか? ガサツな人間なんです、僕」来海静香のその特異性を知るはずもないその男性は、思わずひっこめた手とその挙動に何の疑問も持たない。
「私、来海静香と申します。お名前を聞いてもいいですか?」仕事の外で出会った初めての【まとわりつく死神】に憑かれた人、来海静香にはその存在と対峙しなくてはならないような使命感が生まれつつあった。
「僕は藤川シンタと言います。すいません。生憎身分証明できるものは持っていないのですが、もちろん、きまちさんが病院に行かれる等々の時の責任は取りますので」
「あ、いえ、ホントに接触はしてないので、そういうのは大丈夫です。藤川さんこそ、お怪我されてませんか? ってか、藤川さんとおっしゃるのですか。もしかして、素敵なおばあさまが身内にいらっしゃったりしませんか?」この出会いがまったくの偶然なのか、昨夜の藤川にある程度方向付けられたものなのか、浮かんだ疑問を来海静香は素直に声に出した。
「本当にぶつかってなかったんですか。よかったー。おばあさん……? 母はまだ50代ですし、母はおばあさんと言う程じゃないですね。あ、うん。孫もいないし、母はおばあさんじゃないです。藤川姓のおばあさん……ちょっと思いつかないですね。父方の祖母は亡くなってますし、父に歳の離れた姉がいるという話も聞いたことがないですし……、あ、あと、怪我はしてないです。お気遣いありがとうございます」と、藤川シンタはゆっくりと丁寧に話した。
「そうですか。昨夜たまたまお会いした素敵なおばあさまが藤川さんとおっしゃって。そのおばあさまに『海へ行ったらいいわよ』と言われたから、私は今日、ここにいるんです」
「で、来てみたら、接触事故に逢いかけた、と。ホント、すみませんでした」
「そうそう、何をしてたんですか? ジョギング? ランニング? 急に堤防の上に上がるような、そんなコース設定をされてるんですか?」
「パルクール、ってご存知ないですか?街を飛んだり跳ねたりしながら駆け抜けていくってスポーツなんですけど」
その説明で来海静香の頭に浮かんだのは、外国の街並みを時には跳ねて、時には飛び降りて、屋根の上も階段も縦横無尽に駆け抜けていくどこかで見かけた映像だ。『あれは、死にやすそうだ』と、来海静香は藤川シンタの身体にまとわりつく存在の事を思い出しながらそう思った。
「危ないわ」
「そうですよね。すみません。でも、爽快感が大きくって。仕事で感じるストレスもこれで解消できるんです」
ストレスをため込んで鬱に陥るよりは、肉体的な怪我の方がマシかも知れないなと、来海静香に思わせるに十分な爽やかさで藤川シンタはそう言った。『【まとわりつく死神】の落とす死の運命はパルクールにはないのかしら……でも……』そんなことを来海静香が思っていると、藤川シンタはふいに顔を上げた。何かに耳をすませるような顔をしながら、そして、立ち上がる。次の瞬間、藤川シンタは飛び上がり堤防を乗り越えた。来海静香はその後を追う。
藤川シンタの向かう先には五人の男子小学生がいた。その内の一人が五人全員分のランドセルを背に負い両手に持って歩いている。ワイワイと騒ぎながら歩いている彼らの前に立って藤川シンタは言った。
「イジメ、じゃないよね?」
子供たちは口々に言う。
「違うよー」
「ちゃうでー」
「さっきはゆうたが持ってたし、今はようすけがジャンケンで負けたから持ってんねん」
「そやでー。あの電柱までなー」
「イジメなんてしないよー」
「おっちゃん、泣かんでもええやんかー」
数秒遅れて追いついて見ていた来海静香は、その子供の声で藤川シンタが涙を流している事に気が付いた。
「そうかー。それやったら、ええねん。ごめんな、急に声かけて。車には気を付けて帰るんやでー」そう言って藤川シンタは来海静香の方に振り向いた。照れくさそうに、涙を拭うその手を雑に動かして。
「おっちゃん、バイバーイ!」
「バイバーイ!」
「彼女の前で泣いたりしたらアカンやん!」
ギャハハと笑いながら子供達は歩いて行った。
「うるさーい!あほー!」藤川シンタは子供たちにそう言って再度来海静香に向かい合う。
「あっ……」一呼吸の硬直の後、来海静香はカバンの中からポケットティッシュとハンカチを取り出して、藤川シンタにおずおずと差し出す。「よかったら、使ってください」
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