第27話 貧乏人のチーズ
有名人の父を持つ気持ちなんてよくわからないけど、ワタシだったら誇らしい気持ちになるんじゃないかと思う。でも萱代さんは父親が有名人だということを、こころよく思っていないようだ。もともと親子の仲はよくなかったそうで、雷火さまが有名になる以前に仲たがいして家を飛びだしているのだという。
幼い頃から料理の基礎を叩きこまれたのだと言っていた。十代の後半からは、ナポリやローマのリストランテで、修業の日々を過ごしたらしい。ブルーノさんが言っていたナポリの日本人料理人は、やはり萱代さんのことだったのかもしれない。
イタリアから帰国して雷火さまの店で働き始めるもすぐに飛びだしてしまい、どうやらこの辺りで決定的に仲違いしたようだ。けれども何があったのかは、詳しく教えてくれなかった。
天は二物を与えずなんて言うけれども萱代さんの場合はそうではないようで、料理の才能の他にデザインの才能にも恵まれていたようだ。季里さんが勤める制作会社でデザイナーとして働き、数年前に独立したのだという。円満退社した制作会社との関係も良好で、いまでも季里さんを介して仕事を請けている。
「料理人に戻らないんですか? もったいないですよ、本場で修業しておきながら……」
「大きなお世話だね」
雷火さまが帰った後の部屋。萱代さんも徐々に、いつもの調子を取り戻しつつあった。
「でも勝負に負けたら、雷火さまの店にもどるんですよね?」
「そうなるな。約束しちまったし」
「でも、帰りたくないんでしょ?」
「勝てばいいだけの話だろ」
そうは言うものの、相手はあの雷火さまなのだ。そう、いま一番予約が取れない人気イタリア料理店のオーナーシェフにして、稀代の天才料理人とたたえられる、あの万有・ザ・雷火さまなのだ。さすがの萱代さんでも、一筋縄ではいかないのではないかと思ってしまう。
「勝負のテーマ、何でしたっけ。クチナシだとか何だとか……」
「クチーナ・ポーヴェラだ」
呆れ顔で、萱代さんが訂正する。
「そうそう、それそれ。なんていう意味なんです?」
「直訳すれば、貧乏人の料理って意味になるかな。クッチーナ・リッカ、つまり富豪の料理と対をなす言葉だな。庶民料理と貴族料理と言いかえても良い」
「つまり、庶民が普段食べている料理……ってことですか?」
「そう思ってもらってかまわない。日本で言えば、お惣菜のようなニュアンスかな。粗食という言葉も近い気がするね。かつてのイタリア庶民は、貧しい暮らしを強いられてきたからね。そんな中で生まれた、身近な食材をうまく使った料理のことを、クチーナ・ポーヴェラと呼んでいるんだ」
なるほど、それならば萱代さんがさっき言っていた、庶民料理という言い方がしっくりとくる。イタリア庶民の家庭の味……という訳だ。
「その中でも、今回はパスタで勝負ですよね?」
「食材も調理方法も限られてくるし、考えてみればなかなか難しいよね。審査する方も大変じゃないかな」
「えぇ!? そこまで考えてなかったです! どんなパスタがでてくるのやら……」
雷火さまと師匠のパスタを食べくらべできると、よろこんで立候補してみたのだけれど……これはけっこう大変なことを引き受けてしまったのではないだろうか。いまさらのように後悔の念が押しよせてくる。
「どんなパスタが出てくるか……。そうだな、例えば前に作ったアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノも、クチーナ・ポーヴェラと呼べるね」
「最初に作ってもらった素パスタですね!」
ペペロンチーノか。なにもかも、みな懐かしい……。
「素パスタと言えば、さらにシンプルなパスタがあるよ」
「アーリオ・オーリオよりもですか?」
ニンニクとオリーブオイルといえば、バスタの基本だ。あれよりもシンプルと言えばもう、茹でたてをそのまま食べるくらいしか思いつかない。
釜揚げパスタとか? ……いやまさか、さすがにそんな訳はないだろう。
「あぁ。究極ともいえるシンプルさだ。その名も『パスタ・アル・ブーロ』、ブーロってのはバターのこと。つまりバターで和えたパスタだな。
「バターだけだなんて、確かに究極ですね……」
さすがに茹でたてパスタを釜揚げで……という訳ではなかったか。それでもバターだけとは、驚きのシンプルさだ。
「シンプルって意味では『カチョ・エ・ペペ』も忘れちゃいけないね。カチョはチーズ、ペペはコショウのことだ。ペコリーノ・ロマーノと黒コショウだけで作るシンプルなパスタで、ローマ三大パスタの一つにも数えられている。でもこれは、クチーナ・ポーヴェラと呼んでいいか迷うところだね」
「あら、どうしてです?」
「チーズは高価な食材だったからね。パスタにはすり下ろしたチーズをかけることが多いけど、チーズを買えない庶民はモッリーカで代用していたんだ」
「モッリーカ?」
「炒ったパン粉のことさ。別名、貧乏人のチーズだ」
「えぇ! パスタにパン粉をかけるんですか!?」
「これがけっこう旨いんだ。パン粉をオリーブオイルで炒って使うんだけど、サクサクとした歯ざわりがいいアクセントになる。固くなってしまったパンを再利用する、生活の知恵なんだぜ」
「へぇ、工夫が詰まってるんですね」
炭水化物に炭水化物だなんて、なんと糖質フルな組み合わせ。でも考えてみれば、当時は限られた食材で生きのびなければならなかったのだ。エネルギーの摂取という意味で考えれば、理にかなっているのかもしれない。
「本来モッリーカってのは、パンの白くて柔らかい部分を指す言葉なんだけどな。でもシチリアあたりじゃ、パスタにかけるパン粉のことになっちまう。アンチョビとモッリーカのパスタは、シチリアの名物料理だよ。ナポリあたりじゃいまでも、魚介をつかったパスタには、チーズじゃなくて炒ったパン粉を合わせるんだ」
大活躍じゃないか……パン粉。
「パンの再利用と言えば、トスカーナの郷土料理で『パッパ・アル・ポモドーロ』が有名だね。パッパっていうのは、お粥や離乳食を指す言葉だ。つまり、トマトのパン粥って意味になるかな。
トスカーナには他にも、『パンツァネッラ』というパンを使ったサラダもある。固くなったパンを水に浸して絞ったあと、トマト、キュウリ、紫タマネギ、バジリコと合わせて酢とオリーブオイルで和えるんだ。暑い日に食べたくなる冷製料理だね。他には『リボッリータ』や『アクアコッタ』なんかも、固くなったパンを再利用する料理だ」
「パンを煮たり、水に浸したり……なんだかイメージし辛いですね」
頭の中には、水を吸ってふやけた食パンの姿が浮かんでいた。
「トスカーナのパンは、日本の食パンとは違うからね。小麦粉と酵母と水だけで作るシンプルなパンなんだ。バターや砂糖どころか、塩すら入っていないんだぜ。塩がまだ高級品だった時代の名残りだな」
「塩も入ってないなんて、そんなの美味しいんですか?」
「パンだけで食べると、決して美味しいとは言えないね。味は物たりないし、食べ心地だってモソモソとして喉につっかえる。けれども、味の濃いトスカーナ料理と一緒に食べると、これが旨いんだ。料理の味を邪魔しないし、小麦の香りが料理の味を膨らませてくれる」
「パンと料理って、切り離せない存在なんですね」
パン自体の美味しさが求められる日本では、ちょっと想像がおよばない感覚だ。
「トスカーナと言えば、忘れちゃいけないのは栗だね。小麦の採れない山岳地で暮らす人たちにとって、栗は重要な食材だったんだ。秋の終わりに収穫した栗は、もちろんそのまま調理して食べるんだけど、多くは乾燥させて栗粉にする。カスタニャッチョという栗粉のケーキを焼いたり、小麦粉のかさ増しに使われたんだ」
「日本でお米のかさ増しに、
「国は違えど、庶民は生きていくために工夫を重ねてきたのさ」
「お米と言えば、イタリアでは米も食べるんでしょ?」
「北イタリアでは、稲作も盛んで米をよく食べるね。バターで炒めた米をブイヨンで煮立てたリゾットは日本でも有名だし、アランチーニやスップリと呼ばれるライスコロッケも人気がある。あとはサラダに仕立てたり、ドルチェにだって使う。君が寝こんだときに作った料理みたいに、ミネストラの具としてもよく使われるね」
そこまで言うと萱代さんは、急に言葉を止めてなにやら考えこんでしまった。
「どうかしました?」
「いや、ちょっと思いついたって言うか……」
「なんです?」
「イタリアの料理って、意外と日本人の好みに合うものが多いんだよね」
言われてみれば麺好きの日本人にロングパスタは抵抗なく受け入れられるし、リゾットだって雑炊みたいでこれまたあまり抵抗を感じない。萱代さんが作ってくれたミネストラだって、おかゆみたいで美味しかった」
「もしかして勝負に使うパスタ、決まったんですか?」
「あぁ、いま思いついた」
「なんです? 教えてください!」
萱代さんが、あの雷火さまに挑むパスタだ。否が応でも期待が高まってしまう。
「いや、教えられないね」
「どうしてですか!」
「審査員になにを作るか教えられる訳ないだろ」
そうだった。ワタシが審査するんだった!
「えー、でも、気になりますよ! ヒントだけでも!」
「そうだな……。シチリアじゃ炒ったパン粉をモッリーカって呼んでるけど、トスカーナじゃブリチョレって呼ぶんだ。これはそのまま、パン粉っていう意味だ」
「豆知識はいいですから、ちゃんと教えてくださいよ!」
「駄目、駄目。いまから試作するんだから、帰った、帰った!」
勝負のパスタを教えてもらえないままに、萱代さんの部屋から追い出されてしまった。
萱代さんは、イタリアの料理が日本人の好みに合うと言っていた。つまりは、日本人好みの味を見つけた……というとこだろうか。
それにブリチョレ……。炒ったパン粉のことだって言ってたけど、やっぱりパスタにふりかけたりするのだろうか。
考えてみたところで萱代さんがどんなパスタを作るのか解るはずもなく、勝負の日まで悶々とした気分で過ごすことになってしまうのだった。
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