第19話 お母さん、また料理教えてね

 そうこうしているうちに、玄関のチャイムがなる。萱代さんに迎え入れられた母は和装ではなく、濃いベージュのワンピースに同系色のショールを合わせたいでたちだった。てっきりまた着物で来るものだと思っていたから、意表をつかれた思いだ。

 母のコートをあずかり、ダイニングテーブルへと案内する。

「来るの早くない?」

「百合ちゃんがお料理しているところ、どうしても見てみたくってね」

「むかえる側の都合もあるんだからね。三時間前は早すぎるよ」

「あら。萱代さんには了解もらってるけど?」

 その言葉に師匠をみやれば、素知らぬ顔でひき肉をボウルに移しかえていた。

「師匠、聞いてませんよ……」

「だろうね。言ってないから」

 相変わらず憎たらしい受けこたえだけど、さっきの冷凍ソース消失事件がウヤムヤになったのだからよしとしよう。

「さぁ、勝手にソースを持って帰った分、きちんと働いてくれ」

 あ、ウヤムヤになんてなってなかった……。

 仕方なくエプロンをつけてキッチンにはいる。

「ソース作るんでしたっけ? 何をすれば?」

「まずは、ソフリット作りからだな」

「なんです? ソフリットって」

 いぶかしげな萱代さんの視線がいたい。

「教えてなかったっけ?」

「記憶にございません。はい」

 萱代さんによると、ソフリットってのは香味野菜をじっくりと炒めたもので、ラグーの味のベースになるものらしい。

「まずは、タマネギ、ニンジン、セロリをみじん切りにして」

「了解しました~。楽勝です~」

 とは言ってみたものの、みじん切りは苦手だ。さすがに半年前のおぼつかない手つきと比べればマシにはなったのだけれど……師匠のようにリズミカルに包丁の音を響かせるにはまだとおい。

 皮をむいた半切りのタマネギに、クシのように切れ目をいれていく。続いて水平に、これまた根本まで刃をいれないように切れ目を入れていく。切れ目と直角方向に刻めば、あっという間にみじん切りのできあがりだ。飛沫が目にしみて、涙を流しながら二個のタマネギを刻みきった。

「タマネギできました~」

「おう。その調子でほかの食材もカットよろしく」

 ひき肉に塩を振りかけながら萱代さんが応えた。続いてコショウ、そしてナツメグを振りかけて混ぜあわせている。

「あのですね……」

「どうかした?」

「ニンジンって、どうやってみじん切りにするんです?」

「は?」

 そんなに驚いた顔をしないでほしい。いままで作ってきたパスタには、ニンジンを使ったレシピなんてなかったのだ。切り方なんて、しっているハズがない。

「教えてなかったっけ?」

「記憶にございません。はい」

 仕方ないなとばかりに、萱代さんがワタシの隣にたって手本をみせる。あっという間に、一本のニンジンがみじん切りの山へと姿をかえた。

 え、速くない? しかもきれいな直方体。粒の大きさがそろっている。

「速すぎて、何やってるか解りませんでした!」

「冗談言ってないで、もう一本も刻んじゃって。セロリも同じ方法でみじん切りにできるから。葉の部分は他の料理で使うからとっておいてね」

 冗談を言ったつもりなんて、ないのだけれど……。

 ニンジンは硬くて手間取ったけど、なんとか一本刻みおえた。タマネギと違って、目にしみないから助かる。セロリをどう刻んだものかと吟味しているとき、カウンターキッチンの向こうから投げかけられる母の視線に気がついた。

「どうしたの? じっと見ちゃって」

「包丁使えるようになったんだな……って思ってね」

「そりゃ使えますって」

「料理教えてくれって、帰ってきたことあったじゃない?」

「あぁ、結婚前の……」

 それまで料理なんてまともにしたことがなかったものだから、結婚前にあわてて教えてもらったことがある。母から教わったのは、ご飯の炊き方とか、お味噌汁の作り方とか、そういう基本的なことだ。

「あのときはまだ、包丁を持つ手が危なっかしくてねぇ」

「あー。まともに包丁つかうの、はじめてだったしねぇ」

「もっと小さなころから、料理を教えてあげればよかったな……って思ったのよ」

「でも、ほら、料理に興味なかったし……」

 食べることには大いに興味があったのだけれど、なぜだか自分で作りたいと思うことはなかった。いや、逆に手を出してはいけないものだと思っていたのかもしれない。台所は母の聖域のように思っていたし、料理を作ることは母だけの特権のように思っていた。

 だからだろうか、結婚することになってあわててしまったのは。自分も母のようにしなければならない、そう考えたのだと思う。ワタシの中で料理は『してはいけないこと』から急に『しなければならないこと』に変わってしまい、なんとか結婚までに料理をおぼえようとした。

 そんなあわただしいスタートではあったのだけれど、料理をすることは楽しかったような気がする。母から教わったブリ大根が美味しくできたときなんか、飛びあがらんばかりに喜んでいたはずだ。

 それが結婚した後は……いや、やめよう。もう終わったことだ。料理を嫌いになってしまったエピソードなんて、思い出したところで良いことなんて何もない。

 離婚を機に、料理をしなくなってしまったことを母は知っている。それだけに、ふたたび料理を始めたワタシに、なにか思うところがあるのだろう。

「お母さん、また料理教えてね」

 母が目を丸くする。

 そんなに驚かなくたって良いじゃないか……。

「もちろんよ! 来月は必ず帰ってきなさいね」

 母の声がはずむ。

 来月の帰省はお見合いつきだから、適当に理由をつけて帰れないことにしようと思っていたのだけれど、こんな約束をしてしまってはもうすっぽかす訳にはいかなくなった。こんなに嬉しそうな母を見てしまっては……。

「百合ちゃん、手がお留守よ」

 母にたしなめられ、あわててセロリをみじん切りにする。

「師匠、終わりましたよ」

「ラードで……いや、バターにするか。バターで色づくまで炒めて」

 そう言って師匠は、寸胴を指さした。

 寸胴にバターをたっぷり溶かし、刻んだタマネギ、ニンジン、セロリを炒めはじめる。

「弱火でじっくりでいいんですよね?」

 そう訊いてふり返ると、萱代さんは冷蔵庫からワインを取りだすところだった。

「あ。いいな、ワイン。ワタシも飲みます」

「違うって。ソースに使うんだよ」

 そう言うと赤ワインの栓を抜いて、計量カップに注いだ。

 お酒飲みながら料理とか、どこかのユーチューバーみたいで楽しそうだと思ったんだけど、目論見もくろみがはずれてしまったようだ。

「味見させてくださいよ。素材の味を知っておくことも、大切だと思います」

「飲みたいだけだろ」

 苦笑する萱代さんが、コップに少しだけワインを注いでガスレンジの端におく。

「えー。これだけ!?」

「味見には十分だろ?」

「師匠のケチンボ」

「酔っ払ってちゃ、まともに料理できないしな。ソースが完成するまで我慢だな」

「えー。もうちょっとだけ!」

「ほら、手を止めてたら焦げるぞ。休まないで混ぜる!」

 そう言い残すと萱代さんは、ワイングラス二脚を手にキッチンをでていった。

「先にやってましょうか」

 萱代さんがテーブルにグラスをおくと、母はほほえみで応えた。

「ワインのお好み、ありますか?」

「百合子と同じの、いただけるかしら」

 手元にあるコップに注がれたワインを母が指さす。

「あれ、料理用に買った安いワインなんです。バローロやブルネッロも用意してますけど、いかがです?」

「いいのよ。美味しいのは皆に飲ませてあげて」

 師匠の困り顔を見るのも久しぶりだ。

「そうおっしゃるのなら、これで乾杯しましょうか」

 冷蔵庫からふたたびワインボトルを取りだすと、母と向かいの席のグラスにそそいだ。

「あら、萱代さんは美味しいやつ飲めばいいのよ」

「お付き合いしますよ。このワインだって決してまずい訳じゃない」

「そう。じゃ、乾杯ね。ほら、百合ちゃんも」

 二人はワイングラスを片手に、そしてワタシはコップに注がれたワインを片手にかかげて乾杯した。安いワインだと言っていたけど、フルーティーで飲みやすい。甘酸っぱい木の実みたいな香りが鼻にぬける。なんだ、美味しいじゃないか。

「師匠、おかわり」

「駄目だ。ソースが仕上がるまで我慢」

「そんなぁ。師匠だって飲んでるじゃないですかぁ」

「ホストとして、ゲストのお相手をする義務があるからね。それにもう、俺の仕込みは終わってるしな」

「えぇ~。なんかズルくないですかぁ?」

 ふくれっ面のワタシを見て、母が苦笑する。

「萱代さん、百合子はいつもこんな感じなの?」

「本当のことを答えても、後悔しません?」

「もちろん。それが知りたいのよ」

「今日はまだマシな方ですね。目をはなすとすぐに楽に走りますから」

 待って! なんて報告をしてるんだ!

 もうちょっとこう、遠まわしに言うとか、オブラートに包むとか、やりようがあるでしょうに。

「……へぇ。珍しいわね」

 珍しい?

 ワタシがぐうたらしてるのなんて、いつもの事じゃないか。萱代さんの報告になぜか楽しそうな母に疑問を感じながら、黙してソフリットを炒めつづけた。こういう時は、黙っているにかぎる。口をはさめばきっと、被害が拡大してしまうだろうから。

 そうこうしているうちにソフリットが色づきはじめ、キッチンが芳ばしい匂いで満たされていく。

「そろそろ良いんじゃないか?」

 師匠の言葉に火をとめて時計を見れば、炒めはじめてから二十分以上がたっていた。香味野菜はいまや四分の一ほどに量をへらし、つややかなアメ色の姿が香りとあいまって美味しそうだ。

「次は何を?」

「ひき肉をハンバーグ状にまとめて、焦げ目がつくまで焼いて」

 フライパンに油をしいてひき肉を焼き始めると、とたんに油がはぜる音と、肉が焼ける匂いがキッチンに広がる。

「師匠、ひき肉が多すぎて、フライパンに入り切りません……」

「二回に分けて焼けば良いだろ」

「あ、そっか」

 呆れたように萱代さんが笑っている。

「不出来な娘でお恥ずかしいわ……」

 そう言って母も苦笑している。すいませんね、できが悪くて。

「両面に焦げ目がついたら、木べらで突きくずして。細かくしすぎないようにね。小指の先くらいの塊になればいい」

 木べらでハンバーグを両断すると、中から肉汁にくじゅうがあふれだす。さらに崩していくと、沸きたつ肉汁の中で小さなハンバーグたちが踊りだした。

「焼けたら全部、ソフリットの鍋に移してくれ」

 二回に分けてひき肉を焼いて、すべてを寸胴に移した。役目の終わったフライパンを流しに移そうとしたとき、萱代さんから待ったがかかる。

「フライパンに赤ワインを入れて火にかけて」

「え、どうしてです?」

「フライパンのコゲも旨みだからね。捨てるにはもったいない」

「それでワインでこそげて……」

「そう。それも鍋に入れてくれ」

 フライパンに残る旨みを移した赤ワインを、ひき肉とソフリットが入った寸胴に加える。さらにトマトの水煮と、ローリエを加えて火にかける。全体をざっくりと混ぜあわせて、塩を少しだけ……。

「弱火で二十分くらい煮込んで、味を整えれば完成だな」

 煮込んで水分が減ったあとに、塩で味を整えるのだそうだ。塩がききすぎると取り返しがきかないから慎重にと、萱代さんから釘をさされた。

「ところで師匠。この料理、なんて名前なんです?」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「記憶にございません。はい」

「ラグー・アッラ・ボロネーゼ……ボローニャ風煮込みだよ」

 得意げな表情で教えてくれた。師匠、なぜドヤ顔……。

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