第18話 ラグーってたしか、煮込み料理ですよね?
左京寺くんの話術と笑顔に助けられて、三人の時間はなごやかな雰囲気ですぎていった。会社での二人のこと、休日の過ごし方、ドライブデートの話などなど……婚約者を演じているだけなのだから、もちろん嘘や誤魔化しだって混じっている。けれどもそんな事を感じさせないほど、左京寺くんの語りはなめらかで自然だ。
「百合子さん、パスタが得意なんですよ」
「この子がパスタだなんて……大丈夫なの?」
「ワタシだってパスタくらい作れるよぉ」
「レトルトを温めただけ……なんて言わないわよね」
以前のワタシなら、たしかにレトルトや瓶詰めのソースですましていた。母の記憶にはその頃のイメージしかないのだから仕方がない……とは言うものの、ワタシだってちゃんと料理くらいできるし!
「既製品じゃないよぉ」
「きちんとソースから作ってくれましたし、とっても美味しかったですよ。アマトリチャーナ……だったかな。最初に作ってくれたパスタ」
そう言って左京寺くんがワタシを見やる。
「グアンチャーレとペコリーノののやつ?」
「そう。あれ、美味しかったよね!」
「あれくらいなら、お安い御用……かな」
左京寺くんが食べたアマトリチャーナは、ワタシじゃなくて萱代さんが作ったものだ。師匠のパスタなんだから、そりゃ美味しいに決まっている。
「そんなに美味しいのなら、私も食べてみたいわ。百合ちゃん、ご馳走してくれない?」
「いいよ。実家に帰ったときに作るから……」
「そんなに待てる訳ないじゃない。今から百合ちゃんのお部屋に行きましょうよ」
「え、無理!」
そんなの無理に決まっている。あの散らかり放題の部屋を母が見たら……いや、想像するだけで恐ろしい。おっとりした性格のくせに、怠慢や横着を許さない人なのだから。
「あら、どうして?」
「ちょっと都合が悪いって言うか……」
「どうせ部屋が散らかってるんでしょ。かまわないわよ」
母はともかく、左京寺くんにあの惨状を見せる訳にはいかない。助けを求めて彼を見やれば、覚悟を決めなとばかりに苦笑いをうかべていた。
そんな左京寺くんとワタシの無言のやり取りを、母はジッと見つめていた。そして短くため息をつくと、一口だけ珈琲を飲みくだして言った。
「左京寺さん。あなた、真面目でいい人ね。人当たりもいいしお話も楽しいわ」
「いえ、そんな事は……」
「でも茶番はもう結構よ。楽になさって」
茶番? いま茶番って言ったか!?
困惑した左京寺くんが、助けを求めて視線を送ってくる。けれどもワタシだって言葉の意味をはかりかねている。もしかして、バレているんだろうか!?
「ど、どういう意味でしょうか……」
「そのままの意味よ。婚約者のお芝居はもう結構。どうせ百合子が頼みでもしたんでしょうけど、つきあわせてしまって申し訳なかったわね」
ヤバい、バレてる……。
どうしてバレたんだろうか。受け答えに問題なんてなかったはずだ。
どうする、このまますっとぼけてシラを切りとおすか。それとも正直に謝るか!?
「百合ちゃん」
「はい!」
母に名を呼ばれ、思わず背筋がのびる。
「こんな茶番で誤魔化せるとでも思ったの?」
ピシャリと言い切る。ダメだ。これ、すっとぼけが通じないやつだ……。
「ど、どうしてわかった……のかな?」
「そりゃわかります。何年あなたの母親やってると思ってるの」
そんな理由でわかってしまうものなのだろうか。確かなのは、母がすごく怒っているということだ。表面的にはそんな風に見えないのだけれど、こういう時の母はすごく怒っている。ワタシだって母の子を三十年近くやっているのだ。それくらいのことはわかる。
「その……ごめんなさい」
「こんな事もあろうかと、お見合いの話を持ってきてるから。来月には一度、帰ってらっしゃいね」
「待って! それは無理!」
ヤバい。このまま地元で嫁がせるつもりだ。
「なにが無理なものですか。いつまでプラプラしてるつもりなの。お父さんと私が、どれだけ心配してるのか解ってるでしょ?」
「解ってるけど……でも……」
言葉をつなぐことができなかった。
二人が心配してくれてることなんて解っている。でも、それでも、ワタシは東京での生活を気に入っているのだ。離婚したばかりの頃は、実家に帰ろうかと思ったこともある。けれども今はもう、ここでの生活が馴染んでいる。離れがたく思うほどに馴染んでいるのだ。
その思いを説明しようと思ったけれど、母の気持ちを思うと言葉がでてこなかった。もどかしい思いだけが胸の中で渦巻いて、泣いてしまいそうだ。
「百合ちゃん、大丈夫?」
心配そうな表情で、左京寺くんがささやく。
やめて。優しい言葉なんかかけられたら、本当に泣いてしまう。こぼれそうな涙を抑えようと、バッグの中のハンカチをさぐった。
不意に聞きおぼえのある声がワタシの名を呼んだのは、そんな時だった。
「あれ、宇久田さん。何してんの、こんな所で」
声の方を見やれば、萱代さんと季里さんの姿があった。
「師匠!? ……それに季里さんも」
「左京寺くんまで居るじゃない。久しぶりだね」
驚いて涙も止まってしまった……なんて事はなく、萱代さんを見上げた瞬間、涙がこぼれて頬をつたった。気づいた季里さんが、あわてて師匠を肘でつつく。師匠はいつもの調子で「なんだよ」なんて言いながら迷惑そうに季里さんをにらんでいる。
「百合ちゃん、こちらは?」
母の言葉に、あわてて二人を紹介する。
「萱代さん、どうしてここに?」
涙声になりそうなのをこらえて訊いた。
「仕事だよ。今日は打ち合わせだって言ってただろ」
「それは聞いてましたけど、興国ホテルでだなんて聞いてませんよ」
「だろうね。言ってないし」
相変わらず憎たらしい切りかえしだ。
「ビックリするじゃないですか。教えておいてくれたって……」
「いや、宇久田さんこそ、このホテルに居るだなんて聞いてないぞ」
「でしょうね。言ってませんし」
いつものやり取り。安心する。さっきまでの胸のつっかえが、消えていくみたいだ。
「萱代さん、一緒にお茶でもいかが?」
母の提案に、季里さんが再び萱代さんを肘でつつく。言われなくても解ってるとばかりに、師匠は眉根を寄せた。
「お邪魔になるでしょうから、俺たちはこの辺で……」
「邪魔だなんてそんな。ねぇ、百合ちゃん」
いきなり話を振られて戸惑ったけど、人が増えて話題が散った方が母も怒りを忘れようというもの。なんとしても、萱代さんと季里さんを引き止めなくては。
「そうですよ、師匠。せっかくなんだしお茶しましょうよ。ね、季里さんも」
先程までの空気にいたたまれなくなったのか、左京寺くんまでもが引き止めに加わる。
「あっちの六人がけの席が空いてますよ。ほら、お店の人呼んで移りましょう」
「あー、いや、でも、仕事が残ってるから……」
「打ち合わせはもう終わったんでしょ?」
隣で笑顔をはりつかせたまま、季里さんが萱代さんの背中をつねる。師匠は迷惑そうに「解ってるって!」と小声で答えたけど、やり取りがワタシたちに筒ぬけだ。
「打ち合わせは終わったんだけど、ほかに急ぎの案件があって……」
「そんなの、お茶してからでも良くないですか? ほら、行きましょうよ」
バッグを持って無理やり六人がけの席に移動しようとした時だった。またもや聞き覚えのある声が響く。
「皆さんおそろいで。えらい賑やかやな」
あわてて振り返ると、そこには腕をくんで仁王だちする玻璃乃の姿があった。
「左京寺、百合子、話あんねんけど」
声が怒ってる……。
もしかして、玻璃乃にもバレてる? 尾行していたこと……。
◇
朝から萱代さんの部屋にお邪魔するだなんて、初めてのことじゃないだろうか。……と言うか、日曜の朝から
「お皿の準備、五人分でいいんでしたっけ?」
「六人だろ。なんで減ってるんだよ……」
招待した人たちを数えなおしてみる。玻璃乃、左京寺くん、季里さん、そしてワタシの母。萱代さんも居るから……ほら、やっぱり五人じゃないか。
「やっぱり五人ですよ。なんで六人分なんです?」
「自分を数えるの、忘れてないか?」
「あっ! 忘れてる!!」
キッチンに立つ萱代さんはあきれた様子で、返事すらかえってこなかった。
昨日の午後、興国ホテルで鉢あわせたワタシたち六人は、その後ラウンジで同じテーブルを囲むことになった。あんなに怒っていた母が皆と合流してからは上機嫌で、玻璃乃や季里さん、そして萱代さんとも初対面とは思えないほど親しげに言葉をかわしていた。
そうそう。玻璃乃のヘッドハンティングの話……あれは左京寺くんとワタシの早とちりだったようだ。けれども玻璃乃が隠れて人と会っていたのは本当のことで、取引先の偉い人からお見合いを勧められていたらしい。お相手が取引先の人とはいえ、見合いを勧められていることを知られたくなくて内緒にしていたのだそうだ。
昨日はお見合い話を断るために、その人と会っていたのだという。せっかくの縁談を断るだなんてもったいない……なんて思う訳もなく、玻璃乃にまけないようワタシもお見合いを断るぞ……なんて盛り上がったのだけれど、当然のことながら母からきつくたしなめられてしまった。しかし玻璃乃とワタシ、奇しくも二人そろってお見合い話が降って湧いたのだから驚きだ。やはり偶然というものは、重なるときは重なるものなのである。
玻璃乃が引き抜きにあっているのではないと聞いて、安心したのは左京寺くんだ。うれし涙を流さんばかりの勢いで、喜びをあらわにしていた。でも、当然のごとく玻璃乃から「こそこそ後つけたりすんなや!」とこっぴどく怒られていた……と言うか、ワタシも怒られた。どうやらラウンジに到着したときから、ワタシたちの存在は玻璃乃に気づかれていたらしい。
そんなこんなでワタシたち六人はおおいに盛り上がってしまい、あまりに意気投合したものだから
代わりに師匠が提案したのが、今日の昼食会って訳だ。ホームパーティー形式で、萱代さんがみんなを招くことになった。そしてなぜかワタシが、お手伝いに駆りだされているのだけれど……これはまぁ、母が言いだしたことだ。娘が迷惑をかけているようだから、せめてものお詫びに使ってやってくれと。おかげで日曜だというのに、朝っぱらから師匠の部屋で準備に追われているという訳だ。
「食器だしましたよ。次は何をすれば?」
「パスタのソースを仕込んでもらおうかな」
「え、ワタシが!?」
「そうだよ。お母さんも娘の作ったパスタを食べたいって言ってたじゃないか」
「そりゃ言ってましたけど……」
「今日のパスタはラグーソースにするから、今から仕込んでちょうどだな」
「ラグーってたしか、煮込み料理ですよね?」
ヴェルディーさんに振るまった、ジェノベーゼを思いだす。ラグー・アッラ・ジェノベーゼ……つまり、ジェノヴァ風煮込み。牛すね肉とタマネギを、じっくりと煮込んだ料理だ。
「今日もジェノベーゼですか?」
「いや、こういう時にピッタリのラグーがあるんだよ」
そう言って師匠は、冷蔵庫から大量のひき肉を取りだした。
「せっかくだからたくさん仕込んで、あまったら冷凍しておこう」
「いいですねぇ。ワタシにも分けてくださいね」
「いいけど……。あ、そういや今日のラグー、同じやつが冷凍庫にストックしてあったはずなんだけど、見当たらないんだよね。知らない?」
そんなの、ワタシが知る訳がない。
「どんなラグーなんです?」
「解りやすく言うなら、ミートソースみたいな感じかな」
ミートソースと言われれば、思い当たる記憶がある。ヴェルディーさんにふるまうペストを分けてもらったとき、ついでに内緒でもって帰ったソースの事ではないだろうか。たしかうちの冷凍庫に放り込んだけど……そんなの、まぁ、とっくに食べつくしている。
「し、知らないですねぇ。へぇ、ミートソースなんてあったんだぁ」
「あれ? なんか怪しいな……」
いぶかしげな表情で、師匠が見つめている。ヤバい、バレたか!?
視線に耐えきれず目をそらしたとき、不意にドアホンがなった。師匠の注意は来客にむかい、とりあえずの難をのがれることができた。
「解錠しますね。部屋の場所わかります? そう、隣です」
萱代さんがエントランスのオートロックを開ける。
「宅配便とかです?」
「いや。お母さん来られたよ」
「え、早くないですか!?」
十二時スタートのホームパーティーに、九時から乗り込んでくるってのは、いかがなものだろうか。「早めに来ちゃった、てへ」なんて言うにはあまりにも早すぎる。
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